
新しい戒めを守ろう
(ヨハネの福音書 13:31~35)
神は
イエス・キリストの父でおられる
その方が
人類を
イエス・キリストの中に置かれたので、(ヨハネ14:20)
信仰は
イエス・キリストの中にあるものである
イエスは私たちの主であり、(マタイ16:16~18)
私たちはその方のまことの弟子である(ヨハネ13:35)
その方の弟子であれば、
その方が命じられる働きをするし、(ヨハネ14:10~12)
その方の戒めに従わなければならない
人類は律法によって死んだが、
イエスによって新しいいのちを得たので、(ローマ8:1~2)
イエスの弟子となるために力を尽くして、
その方の戒め、すなわち律法よりも霊的な
新しい戒めを守らなければならない(Ⅰコリント12:3)
私たちは律法によっては死んだが、
新しい戒めによっては生きたという証しを
神の御前で現さなければならない
聖霊は新しい戒めを守る者を助けておられる
◎新しい戒めは律法よりも恐ろしい
新しい戒めを受けないのであれば、
いのちがないのである
◎新しい戒めを守らない者は
イエスの弟子となることができないので、
不信仰の使いである
◎互いに愛し合おう
互いに慰め合い、
救いを受けた霊魂を祝福しよう
※新しい戒めは福音ではないが、
福音を信じる者に現れる義務である
互いに愛し、愛し合おう
新しい戒めを守ろう (ヨハネの福音書 13:31~35)
私たちはイエス・キリストを通して神が愛でおられるのを見た
神はイエス・キリストの父です。神の姿を目で見たり神の声を耳で聞いたりした者は誰もいません。それゆえ、ある人が「私は神を見た。」といったとしても、それはその人の主観的な告白にすぎません。しかし、キリスト者は迷信を信じる者のように、存在しないものを存在するかのように主張してその前でひれ伏す者ではありません。神を見た者は誰もいませんが、キリスト者はイエス・キリストが神の御子でおられるということを信じ、それによってその方の父である神が存在しておられるということを知り、神がなさるすべての働きを信頼します。
イエスは人の体から生まれた人です。その方は肉体をもって歴史の中に存在した方であって、人々が作り上げた仮想の人物ではありません。しかし、私たちはその方が神の御子でおられるということを信じ、その方によってその方の父である神が存在しておられるということを確信します。イエス・キリストが神の御子でおられるということを信じる者はその方の恵みと功労によって罪の赦しを受け、その信仰について聖霊の証しを受けます。
イエスが天から聖霊を遣わすことができるのはその方が栄光を受けられたためです。イエスが天に上られてから2000年が過ぎた今も、聖霊は続けて信じる者に臨んでおられます。聖霊を受けた者は賜物と力を体験するようになり、イエスの名によって悪霊を追い出すようになります。これはどんなにはっきりとした証しでしょうか? それにもかかわらず、人々の心がかたくなになって、イエスが神の御子でおられるということを依然として信じないというのはとても恐ろしいことです。
ヨハネの手紙第一4章8節は「なぜなら神は愛だからです。」といいました。これは愛という概念が神であるという意味ではなく、神がなさる働きを私たちが体験するときにはそれがすべて愛として現れるという意味です。人間が認識することができる神の意図とは神が愛でおられるという事実です。
律法の要求に応じたイエスが私たちに新しい戒めを与えられた
聖書は新約聖書と旧約聖書によって構成されています。旧約聖書の核心は律法であり、新約聖書の核心は福音です。律法はモーセによって伝えられ、福音は神の御子イエス・キリストによって伝えられました(ヨハネ1:17)。しかし、律法も神の御言葉であり、福音も神の御言葉です。律法と福音は初めの契約と新しい契約に区分されますが、その根本はすべて愛です。
律法の根本は愛ですが、律法が人を救うことはできません。律法の役割は人間を神の御前でひざまずかせ、罪人であると告白させることです。律法によって人々は自分が神の御前で罪人であるということを悟ります。罪人であるということを悟った者は罪の価として呪いを受けなければなりません。それゆえ、律法の下にいる者は呪いの下にいる者です(ガラテヤ3:10)。それでは、律法を知らない者には呪いがないのでしょうか? そうではありません。律法を知らなければ知らないなりに滅びますし、律法を知れば知るなりに滅びます(ローマ2:12)。
律法の前で正直な者は「私は罪人です!」と告白し、神の御前でひざまずきます。イエスはこのような者のために十字架で血を流して死に、それによって律法の要求に応じられました。律法が要求するのは罪の価、すなわち死です(ローマ6:23)。イエスは人間の代わりにそれを担い、これを通して律法の下にいる者を救われました。
福音の根本も愛です。しかし、福音の結果は律法とまったく異なります。私たちに永遠のいのちを得させるのが福音の目的です。これについてイエスは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)といわれました。
この世は神の御言葉を信じませんし、聖霊の感動を受けません。彼らは人間の常識に従って神に敵対します。彼らは先端科学が発達した時代に悪霊について語るのは愚かなことであるといいます。しかし、イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)といわれました。悪霊は休まずに人を破壊して妨害します。そのような悪霊を追い出すことができる力が私たちに臨んだというのはどんなに驚くべきことでしょうか? これは神が私たちの信仰に印を押して証ししてくださることです。
律法も福音もその根本は愛です。律法の役割は人を神の御前で悔い改めさせることであり、福音の役割は悔い改めた霊魂を幸せにすることです。キリスト者の信仰生活はこの2つをすべて担うものではありません。律法の呪いはイエスがすでに担ってくださったために、私たちがこれ以上、担う必要はありません。これから私たちが担わなければならないのはイエスが与えられた新しい戒めです。
戒めがどんなに恐ろしいものであるのかを私たちはよく知っています。律法の下では人々が戒めを犯してその場で滅びることがよくありました。それで、律法の下にいる者は死を恐れていつも震えていました。そのような律法以上に恐ろしいのが主が与えられた新しい戒めです。律法を恐れる者さえも主が与えられた新しい戒めは軽く考える傾向があります。しかし、律法と新しい戒めの間に権威の差があるわけではありません。ただ「初めの戒めは人が担うことができないが、新しい戒めは人が担うことができる。」というところに差があります。それにもかかわらず、私たちが新しい戒めを担わないのであれば、恐ろしい結果が伴うしかありません。
神は律法の下にいる者に「心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くし、力を尽くして、神を愛しなさい。また、そのように隣人を愛しなさい。」といわれました。しかし、イエスの中にいる者には新しい戒めを守りなさいといわれました。新しい戒めとは何でしょうか? イエスは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)といわれました。聖書は「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」といいました(Ⅰコリント13:3)。
母性によって愛そう
多くの人が愛を感情的な視点から見ようとします。しかし、愛は感情にあるのではありません。愛は母性です。イエスの母マリヤはイエスを愛するときにイエスが神の御子でおられるということを知って、心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しました。最後まで主に従うといった弟子たちはすべて逃げましたが、母だけは息子が刑罰を受けるところに最後まで残りました。神が私たちを愛してくださる愛もそれと同じです。イエス・キリストを私たちに与えてくださった神は品性を尽くし、思いを尽くし、命を尽くし、力を尽くして、私たちを愛してくださいました。それゆえ、マリヤが神の御子の母となったように、私たちも神の母となって、心を尽くし、思いを尽くし、品性を尽くして、神に仕えなければなりません。神に対して母性をもたなければなりません。そして、それと同じように隣人も母性によって愛さなければなりません。
飢えた者にただ「お腹を空かせているようだ。早く家に帰ってご飯を食べなさい。」というのであれば、何の意味があるでしょうか? 貧しい者にただ「寒そうに見える。早く暖かい服を着なさい。」というのであれば、何の意味があるでしょうか? 私たちがその人の母であるのならば、果たしてそのようにただ言葉で言うだけでしょうか? 以前はらい病患者が物乞いをするために家々を訪れたりもしました。人々はらい病患者を汚く考え、早く帰らせるために食べ残りのご飯を与えたりもしました。しかし、もし私たちがそのらい病患者の母であるのならば、彼らにむやみに接することはないでしょう。
伝道も母の心情をもってしなければなりません。心と思いと命と力を尽くして霊魂に仕えるという心をもって伝道しなければなりません。母の忍耐がどんなに大きいでしょうか? 子どもがこの世に生まれたとしても母の忍耐がないのであれば、果たして子どもがこの世で生き残ることができるでしょうか? 母は子どもの苛立ちと我がままをすべて受けとめながら、犠牲を払って忍耐します。そうだからと言って、子どもがそれを理解するわけでもありません。それにもかかわらず、子どもに何もしてあげることができなかったと感じるのであれば、申し訳ないと考えるのが母です。教会で霊魂を教えるのも、職分を担うのも母性によってしなければなりません。神の国を母性によって支えなければなりません。
新しい戒めを守って主のまことの弟子となろう
イエスは「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)といわれました。聖徒とは聖なる弟子という意味です。聖書は使徒と聖徒とイエスの名を呼ぶ者を区分しています(Ⅰコリント12:1~2)。果たしてみなさんは聖徒でしょうか? イエスの名を呼ぶだけの宗教人でしょうか? 私たちは宗教人としてこの世を離れないで、イエスの弟子とならなければなりません。イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)といわれました。主のまことの弟子となるためには主の御言葉を家のように考え、その中にとどまらなければなりません。主の新しい戒めを守る者とならなければなりません。
私たちの家庭もイエスの弟子とならなければなりませんし、子孫たちもイエスの弟子とならなければなりませんし、親戚もイエスの弟子とならなければなりません。先生の教えをそのまま受け入れるのが弟子です。テレビを見ると、学生が先生に暴行を働いたというニュースを耳にしたりします。聖徒を自称しながらも神に暴行を働くようにする者がどんなに多いでしょうか? 私たちは神を愛し、それと同じように隣人を愛さなければなりません。隣人が滅びの道に行くときに彼らをそのまま放っておいてはいけません。彼らが私たちの子どもであるのならば、果たして滅びるように放っておくでしょうか? 私たちはイエスの弟子です。それゆえ、その方が与えられた新しい戒めを守らなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 01. 03.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私が諦念したというのはすべてをあきらめたという意味ではなく、機会を逃したことを認めるという意味である。それゆえ、私はあきらめというものを受け入れてこなかった。一度、思いを抱いたのであれば、良い目的には最後まで根を下ろそうと力を尽くして生きてきた。
中学校に入ることを切に願いつつもかなわなかったその日、私は自暴自棄にならないで、機会を逃したことを認め、再び手順を踏んだ。「どのようにすれば、苦学することができるだろうか?」と一日中、悩みながらも、私の前にあることを疎かにしなかった。すべてが勉強であると考えて、几帳面に学んだ。
「どうしてであろうか?」と問う習慣をもって他の人の農作を助けたために、1年間、働いただけでも、まるで20年間、働いた者のように知って学んだ。そのようにしたのが今日、説教者として講壇に立って教えるときに大きな助けとなっているし、本を書くときにも大きな助けとなっている。これを「根」というのであろうか。極めて小さなことにも知恵はその根から湧いてくる。
根がなければ、益がなく、実を得ることができない。私が主のしもべとなる前にはひとりの人間であり、無益な肉体に過ぎなかった。この世に生きる理由も知らなかった。ただ生きているために身もだえしたし、生きているために死力を尽くして戦った。ただ肉体のために。しかし、主の恵みを受けてからは私が生きなければならない理由を知った。それのために一日中、力を尽くすのである。
美しい花であっても根がある。根があるものだけが実を結んで生き残る。これを自然という。私には自然の人と霊的な人がいる。自然の人は結局、土に帰るし、霊的な人は天に行く。これを真理という。私は自然と真理をはっきりと悟っている。それで、自然からは文学が出て来るし、霊的なものからは真理と福音が湧いてくる。
それゆえ、土に帰る肉体のものであってもすべて使いたいし、天(霊界)に帰る霊魂についたものであっても使おうとする。地の中に埋もれるものであっても育てて、大事なものは大事にしようとするし、天(霊界)に入って行く霊的なものを貴く考えて、よくしようとする。
この2つをよく育ててささげようとするときに、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という主イエスの教訓を考える。主は不正な富に忠実な者が神の国の大きな働きをよく担うことができるといわれた。それゆえ、どれひとつも疎かにすることができない責任が伴う。私はこのように生涯を送ろうとして努力してきた。
オォ! 主よ、私は主の御心にふさわしいしもべとなることだけを願います。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室