
神のものは神に
(マタイの福音書 22:15~22)
神は
造物主でおられる
その方が
創造された天と地と万物はその方のものである(ヘブル1:3)
神のものはその方のためにだけ存在するものであり、(詩100:3)
神に用いられないものはその方と関係がない
悪魔のために存在するものは悪魔に渡されたが、(マタイ25:41)
すなわち、不信仰と不従順であり、不義なものである
神のための働きとこの世のための働きは異なる
神のための働きは霊的であり、永遠である(マタイ5:10~12)
この世のための働きは必要であるが、霊的ではないし、
神の国を相続することができない(Ⅰコリント15:50)
「カイザルのものはカイザルに返し、
神のものは
神に永遠にささげて栄光をささげ、
神をまことに愛しなさい」といわれたのであれば、(マタイ22:37)
完全にその方を愛さなければならないし、
「隣人を愛しなさい」といわれたのであれば、
完全に隣人を愛さなければならない(Ⅰコリント13:1~13)
天の職分にも忠誠を尽くさなければならないし、
この世の職分にも忠誠を尽くさなければならない
◎聖霊によって生きる者は
聖霊の働きをする
聖霊に満たされなさい
◎御言葉通りに生きようとする者は
御言葉通りに従う
御言葉を充満な食物としなさい
◎義人として生きる者は
神を愛する
その方の国とその義を求めなさい
※私たちには2つの職分がある
神の国のための職分と
隣人のための職分がそれぞれある
神のものは神に (マタイの福音書 22:15~22)
私たちは神のものであるために、神とともに働く
神は造物主でおられます。その方は自分のために、また、御子のために天と地、そしてその中にあるものすべてを創造されました。その方はすべてのものの主人でおられます。その方がしようとするのであれば、どのようなことでもなされないことがありませんし、その方が阻止するのであれば、人がどんなに努力したとしてもなされることはありません。
私たちは神を知る前に目に見えるものを頼り、また、それに若干の想像力を加えて望みをもちました。しかし、人間の望みはやさしく潰えます。結婚の前に大きな夢をもっていた者が結婚して子どもを産みながら夢をあきらめたりもしますし、事業を拡張した者が志を遂げることができないまま挫折したりもします。人生のむなしさについて伝道者は「空の空。空の空。すべては空。」(伝1:2)と嘆きました。神の助けがない状態で人間の夢が必ず実現されるという保障はありません。
イエスを信じない者は運命の前にやさしくひざまずきます。しかし、イエスの中にいる者には運命というものがありません。私たちの生涯は神の御手の中にあります。私たちは神とともに働く者です。私たちがしなければならないのは運命のせいにすることではなく、神が栄光を受けられるときまでその方を働かせることです。神を愛する私たちの熱心さが神を喜ばせるときに、神は私たちを助けることによって私たちを通して栄光を受けようとされます。それゆえ、私たちは神を休ませないようにしなければなりません。
神が私たちにイエス・キリストを遣わしてくださり、また、聖霊や御言葉を遣わしてくださったのは私たちに祝福を受けさせるためでした。私たちは神が与えてくださる祝福を受けなければなりません。聖書は神の命令を祝福といいました。それゆえ、祝福を受けようとする者は神の命令を受け入れなければなりません。神が祈りの命令、勝利の命令、栄えの命令を与えられるにもかかわらず人々が祝福を享受することができないのは神を疑ってその方の御前で心を閉ざしているためです。
神のものは神に、カイザルのものはカイザルに
パリサイ人がイエスに「税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることでしょうか?」と尋ねました。イエスはその人に「デナリを一枚、もって来なさい。」と命じ、そこにあるカイザルの肖像を指して「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」といわれました(マタイ22:15~22)。この御言葉を通して、主は私たちに「あなたがたには誰の肖像がありますか?」と尋ねておられます。創世記1章は「人間は神に似せて、神のかたちとして造られた。」といいました。人間は外見だけでなく、霊魂までもキリストのかたちとして造られた存在です。主はそのような私たちに「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」といわれたのです。
今日、多くの人がこの2つの間で均衡ある生涯を送ることができていません。ある人は「私は神に仕えなければならないために、親に仕えることができない。」といいます。主はそのような態度を叱られました(マルコ7:11)。エペソ人への手紙6章2~3節は「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」といいました。
父と母を敬うことを重視していた昔の人々とは異なり、最近の人々はよく親を無視します。テレビ番組で紹介された統計を見ると、結婚後に親と一緒に住むことを願う者よりも別々に住むことを願う者が多いといいます。年老いた親に仕えようという心も次第に消えていっています。今、高齢者の間で起こっているのは子どもに財産を相続しないという動きです。さらには子どもに譲った財産を再び取り返すために裁判を起こすという動きもあります。これは子どもが親を敬わないために起こることです。キリスト者はこのようなこの世の風習に従ってはいけません。
聖書は親と子どもの関係だけでなく、夫と妻の関係、そして、主人としもべの関係についても語っています。エペソ人への手紙5章22節は「妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい。」といい、6章5節は「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」といいました。肉体によって神の国を相続することはできません。しかし、そうだからと言って、肉体の道理を無視してはいけません。「神のものは神にささげ、カイザルのものはカイザルに返しなさい。」という主の御言葉を実践しなければなりません。
国家に税金を納入する、自分の物質を使って不遇の隣人を多く助けているという理由で、神にささげなければならない十分の一やささげ物をささげないのであれば、それは正しいことではありません。反対に、神に十分の一やささげ物をささげているという理由で、国家に納付しなければならない税金を納付しないというのであれば、それも正しいことではありません。私たちがこの世ですることすべてが天の御国の相続と関連しているわけではありませんが、神は天の御国と直接、関連していないことにおいても私たちが忠実であることを願われます。
不正な富にも忠実であろう
イエスは「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたにまことの富を任せるでしょう。」(ルカ16:10~11)といわれました。「不正の富」というのは「盗んだ富」という意味ではなく、「天の御国と直接、関連がない富」という意味です。この世で人々が物質を運用するのは肉体を楽にするためです。体がどんなに楽になったとしてもそれによって天の御国を相続することはできません。しかし、主は私たちがそのようなことにも忠実であることを願い、また、天の御国のためにもそのように忠実であることを願われます。
私たちは信者です。信者は神のものです。それゆえ、私たちは神が御心通りに用いられるように服従しなければなりません。これと同じように、私たちは家庭の一員であるために家庭に忠実でなければなりません。夫がいる者は妻として忠実でなければなりませんし、妻がいる者は夫として忠実でなければなりません。子どもは親に忠実でなければなりませんし、親は子どもに忠実でなければなりません。神の御前での生涯と人々の前での生涯が均衡をなさなければなりません。
信者だからと言って「神にささげる礼拝に成功しさえすればいい。この世での生涯はどうなったとしても関係ない。」という態度をもってはいけません。神は主日にささげる礼拝だけを受けられるのではなく、私たちの生涯全体を受けられます。礼拝という概念の中には信者の生涯全体が含まれているのです。それゆえ、私たちは生涯全体が神が喜んで受けられるささげ物となるように最善を尽くさなければなりません。
十戒の前の4つの戒めの核心は「神を愛しなさい」というものですし、後ろの6つの戒めの核心は「隣人を愛しなさい」というものです。十戒のすべては愛です。神を愛しなさい! そして、隣人を愛しなさい! 神のものは神に! そして、カイザルのものはカイザルに! 神に向けられた信仰がどんなに立派であったとしても隣人に向けられた愛がないのであれば、何の意味もありません。力がどんなに多かったとしても隣人に向けられた愛がないのであれば、何の意味もありません(Ⅰコリント13:2)。信仰人の生涯には聖なる均衡がなければなりません。
私たちは国家の保護を受けており、国家が施す恩恵を受けています。それゆえ、国家に対する義務を尽くして、国家を愛さなければなりません。職場に通う者は職場を愛して、職場で与えられた役割に対して責任を負わなければなりません。給料が少ないという理由で仕事をいい加減にしてはいけません。ある人は「今、通っている職場はどう?」と尋ねられると、「数ヵ月だけ働いて辞めてやる。」と答えます。神はそのような姿を見ておられます。薄給を恨んで、仕事をいい加減にするのであれば、その職場もうまくいくはずがありませんし、結局、その結果は自分に返ってくるしかありません。
日本人の誠実さと正直さは世界的に認められています。日本には数百年間、代々引き継がれている飲食店が多いです。一流大学を卒業した若者が祖先から受け継いだのり巻き屋を運営する場合もあります。驚くべきことはそのような飲食店の味が数百年前も今も変わらないという点です。目先の利益のために他の人を欺くことが多いこの世で日本人のそのような態度は多くの人に深い感動を与えています。
忠実な者を神は探しておられる
私は若いときに他の人が経営する養鶏場で働いたことがあります。数年間、働きながらも私はその養鶏場から出て来る卵をひとつも食べたことがありませんでした。時々、割れた卵があり、それを食べたとしても誰からも責められることはありませんでしたが、私は割れた卵を見つけると、それを主人にもって行きました。信仰生活をしながら神の助けを受けるたびに、私はその時代を思い出したりもします。ナタナエルが「どうして私をご存じなのですか?」と主に尋ねたときに、主は「私はピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」といわれました。私が他の人の家で忠実に働いていたときに、主はそれをご覧になったのです。
信者であるのならば、神によくしなければならないのはもちろんですが、人にもよくしなければなりません。熱心に信仰生活をし、熱心に奉仕もするのに伝道の実を結ぶことができない者がいます。信仰はいいように見えますが、不思議にもその人に従って教会に来る者がいません。心を尽くし、思いを尽くし、品性を尽くして神を愛するのであれば、隣人もそのように愛さなければならないのですが、実際には隣人に対する関心や誠実さが足りません。私たちがはっきりと知らなければならないのは救霊の実がない者は将来、刈入れの時に得るものがないという事実です。
主は「あなたがたは世界の光です。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」といわれました(マタイ5:14~16)。信者は霊的な生活だけでなく、肉体の生活もよく管理しなければなりません。神を愛するのであれば、それと同じくらい隣人に関心をもたなければなりませんし、自分を取り巻くすべての関係の中で自分の役割を完全に担わなければなりません。
サウル王は人々の目には立派に見えましたが、神の目には十分ではありませんでした。神はエッサイの子ダビデを指して「私の心にかなった者である。」といわれました。神がいつ彼をご覧になったのでしょうか? それは彼が野原で父の羊の面倒を見ていたときでした。獅子が現れて羊をくわえていったのであれば、ダビデは獅子を最後まで追って行って殴り殺し、牙の間に挟まれている羊を救い出し、父に戻しました。神はそのようなダビデを王とし、民を敵の手から救わせました。
私たちは神の愛を受けなければなりません。神が私たちを認めて私たちを助けるようにしなければなりません。神のものは神に、ガイザルのものをガイザルに返すことができなければなりません。神が与えられる祝福を担う者とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 01. 17.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
家族は多く、収入はほとんどなかったために、日々、生活していくのが大変であったが、信仰生活をはじめたために、喜びによって耐えた。信仰生活をはじめてから1年間はまことに神が祝福してくださり、しるしが起こった。また、援助してくれる者が現れ、小さな養鶏場をはじめた。しかし、ひよこを育てる間は収入がまったくなかったし、続けて飼料代をつけで買ったために、心はさらに重くなった。目にははっきりとした変化があるように見えたが、実益はなかったために、限界に至ったような瞬間を感じた。そして、ついにお金を稼ぐ前につぶれた。
しかし、そのときも私は祈ることと聖書を読むことをやめなかった。私の心には新しい変化が起こった。第二の故郷である礼山を離れて挑戦してみようと切に願ったが、私が準備できるものはひとつもなかったために、ただ祈るしかなかった。祈りがすぐに届かないで応答を受けることができなかったが、神を愛する心だけは満ちあふれていて、熱心に祈った。そのとき、祈りの応答を必ずしも求めなかったが、神が喜ばれるという確信をもって祈りをやめなかった。まるで積立金を積み上げるように、祈りの積立金を貯蓄しなければならないと信じた。
誰かが私を憐れに思い、尋ねたときには「熱心に祈りの貯金をしています。」と笑い飛ばした。そのように何年かが過ぎた。昼夜を問わず、車に乗るときにも、歩くときにも、私の祈りが神の御前で積み上がっていく喜びだけを考えた。「今すぐに応答を受けなかったとしても大丈夫だ。ただ祈るだけだ。」と考え、貯金するように祈った。
私が山で開かれた集会に行ったときに、ある女性執事が熱心に祈る私の姿を見て、「金先生が貯金した祈りを引き出すときが来た。」といった。そののちの休み時間に人々が私に近づいて来て、ともに祈ってくださいと頼んできた。私に按手してくださいと頼む者も現れた。
その一週間後、「私たちの教会に来てリバイバル集会を導いてください。」という依頼が来た。それで、最初にリバイバル集会をした教会が忠清南道の洪城にある陽谷メソジスト教会であった。このときに起こったしるしはまるで五旬節に起こった光景が再現されたような大きな働きであった。そのときからあちらこちらの教会に招待されてリバイバル集会を導く講師となった。そのたびに「私が神の御前で貯金するように積み上げてきた祈りの応答を受けるのだ。」と考えた。
秋にまいた種の上に霜や雪が降り、地が凍りついたとしても、春が来るのであれば、青い芽が上がってくる。そのように祈りの種が多くの苦しみに耐え、ついに春を迎えたのである。春は必ず来る。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室