選びを受けなさい
(マタイの福音書 22:1~14)
神は
主管者でおられる
その方は
万物の主人であり、(ヘブル1:3)
人類の生死を主管する王でおられる
神が私たちを呼ばれるのは(ヨハネ1:39)
私たちにいのちと祝福を与えるためである(ヨハネ6:65)
神の意図を無視して自分の道に従って行うのであれば、
天から与えられる聖いものがないので、
望みがない者である(ヨハネ6:66~67)
御言葉は戒めであり、聖くする力である(マタイ8:8)
律法を遣わされたのは(ヨハネ1:17)
イエス・キリストに導くためであるし、
イエスを与えられたのは(ヨハネ3:16)
信仰をもたせるためであるし、
助け主でおられる聖霊を与えられたのは(Ⅱコリント1:21~22)
私たちに印を押すためである
それゆえ、
印を押された者が選びを受けた者である
選びを受けた者は(マタイ22:14)
天に属した者である(マタイ25:34)
◎聖霊の印を押された者は
聖霊のものであり、
主のものである
◎主の人は
イエスを着なければならない
天の礼服を着なければならない
◎恵みとは「無限に受け入れる」という意味ではなく、
「功労なしに聖くなり、
神の愛の中にとどまる」という意味である
※選びを受けよう
イエスを着て、
その方に愛される者になろう
選びを受けなさい (マタイの福音書 22:1~14)
私たちは神のものである
神は天地万物を創造して主管する方でおられます。万物は神のために造られた神の所有であり、神が任意に用いることができます。どのような被造物にも神が用いようとされるときに逆らったり反対したりする権利がありません。
多くの人が神を信じるといいますが、実際には神を知りません。神を知る者であるのならば、自分が神の所有であるという事実もはっきりと知ります。神の所有物が神の御心を離れて任意に行動することはできません。神の御心通りに生きることを拒む存在がいるのであれば、その存在は神から捨てられるしかありません。
ヘブル人への手紙9章27節は「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」といいました。神を知るにしても、知らないにしても、人は誰でも死にます。神を知らない者であっても生きているときには任意に行動することができます。しかし、肉体を離れたのちには自分の意志とは関係なく滅びるようになります。私たちは生きているときに神を知って、自分が神の所有であるということを悟らなければなりません。主人が小麦粉をこねてパンや麺などを自分の思い通りに作るように、私たちは神が思い通りに用いられるようにしなければなりません。
この世の人々は自分には予め定められた運命があると信じて、その運命に生涯を預けようとします。私たちも以前は彼らと異なるところがありませんでした。しかし、イエス・キリストを知ったのちに私たちは自分が神の所有であるということを発見しました。詩篇100篇3節は「主が、私たちを造られた。私たちは主のもの。」といいました。私たちは神によって造られた、神のものであるために、その方が任意に用いられるようにしなければなりません。
神のものはイエスの道を行かなければならない
今日、多くの者が「食べて生きていく道がない。」「出世する道がない。」といって、道がないことを嘆きます。しかし、イエスは「私が道である。」といわれました(ヨハネ14:6)。人々が道がないと感じるのは神を無視してイエスの御言葉を信じないためです。イエスが道であるという事実を発見したというのは教理を知ったということではなく、人生の重大な方向を探したということです。人々は人生の方向を探すことができず、もどかしさを感じるときに、誰かを訪ねて行って相談したりします。しかし、この世に、イエス・キリストのように私たちに永遠のいのちの道を提示してくださる方は存在しません。
イエス・キリストの道は険しいです。この世の道を歩むときには困難を避けるために偽ることもありますし、言い訳をすることもあります。しかし、イエス・キリストという道を選んだ者はそのようにすることができません。イエス・キリストは私たちと異なるところがない人としてこの世に来られました。神の御子でおられるその方にとってもその道は歩みがたい道でした。その方は徹底的に捨てられ、結局、十字架で死なれました。その方はこの世からどのような慰めも求めないで、父なる神だけを頼りました(へブル5:7)。すると、神はその方を死者の中からよみがえらせて天に上らせ、御座に着かせました。私たちに「私が道である。あなたが神を信じるのであれば、私について来なさい。」といわれる方がイエス・キリストです。
主は自分の血を流すことによって私たちのために新しい生きる道を開いてくださいました(ヘブル10:20)。私たちの霊魂はその道に行ってこそ生きることができますし、まことの幸せを得ることができます。人は誰でも幸せを願います。その幸せを与えることができる方はただ神おひとりです。それゆえ、幸せを得るためには神に出て行かなければなりません。問題は人が作り出したどのような方法によっても神に出て行くことができないという事実です。私たちがイエスという道を選択しなければならない理由がここにあります。
神のものとして選びを受けなさい
秋になると、農夫は畑の穀物を収穫しますが、収穫が最後ではありません。収穫された穀物は脱穀場で実と殻に区分され、実は倉庫に入れられ、殻は火の中に投げ入れられます(マタイ3:12)。私たちはすでに招かれましたが、それが最後ではありません。これからは神のものとして選びを受けなければなりません。
申命記30章19節は「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、」といいました。私たちは自分だけでなく、子孫のためにいのちを選ばなければなりません。根が枯れると、枝も成長することができません。そのように私たちがいのちと祝福を選ばないのであれば、子孫も滅びるしかありません。お金を多く稼ぐのが祝福ではなく、神の愛を受けるのが祝福です。私たちを死んだ者の中から生かし、滅びの中から回復してくださる方は神以外にいません。
神は人間に律法を与えられました。律法の前に立つ人間は誰でも罪人として現れます。律法は人をイエスに出て行かせ、「私は罪人です。」と告白させ、ひざまずかせます。イエスは自分の前に出て来た者に信仰を与え、その人を神の子とされます。聖霊はイエスの仲介者として、神と関係を結んだ者に印を押されます。礼拝堂の中に入って来て誠意を尽くしたからといって、神の所有となるわけではありません。主の招きを受けて教会に入って来たのであれば、これからは自分が罪人であるということを認め、信仰をもち、聖霊の印を押されなればなりません。そのような者だけが神のものとなることができます。
イエスは「天の御国は王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」といわれました(マタイ22:1~14)。披露宴に先に招待された者はイスラエルをたとえていますし、のちに招待された者は異邦人をたとえています。王が初めにしもべを遣わして人々を招待したときに、人々はさまざまな言い訳をしながら披露宴に出席しませんでした。これに怒った王は大通りにいた人々を招いて披露宴に出席させました。ローマ人への手紙11章 25節は「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、」といいました。本来、異邦人であった私たちは大通りで招かれて披露宴に参加した者です。
王の披露宴に招待されたのであれば、当然、礼服を着て出席しなければなりません。本来、資格がない者が特別の恩恵を受けて出席するようになったのであれば、なおさらそのようにしなければなりません。最小限の礼儀も守らないで王の披露宴を無視した者は外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりをするようになるのです。イエスはこのような御言葉を語りながら、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)といわれました。
聖書は「多くのイスラエルの中で印を押された者は14万4000人に過ぎない。」といいました(黙7:4)。異邦人の数もイスラエルに比べれば、非常に多いですが、この世に存在したすべての異邦人の数と比較するのであれば、極めて少ない数に過ぎません(黙7:9)。教会を意味するギリシア語の「エクレシア」という言葉には「招いた」という意味があります。私たちが教会員になったというのは神の招待を受けたということです。それゆえ、これから私たちに必要なのは神の選びを受けることです。
神は地の上に満ちた人類の中からアダムを選ばれましたし、アダムの子孫が地に満ちたときにはその中からアブラハムを選ばれました。神は多くの若者の中からダビデを選んで、「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」(使13:22)といわれました。私たちは神の選びを受けなければなりません。
選びを受けるために闘争しなさい
ヤコブは兄エサウと双子でした。彼は生まれるときから兄のかかとをつかんで生まれてきたほど、祝福を強く慕い求めました。エサウが長子であったにもかかわらず、神が次子であるヤコブを選ばれたのは胎内にいたときから兄と争ったヤコブの姿をご覧になったためでした。神は「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(創25:23)といわれました。
ヤコブは生まれてからも兄エサウと比べて、神から選ばれるほど特別に優れた点をもっていたわけではありませんでした。しかし、彼は兄がもっていた祝福を慕い求めました。お腹を空かせた兄に豆の煮物を与えて長子の権利を買い取ったり、長子に与える父の祝福を兄から横取りしたりしました。ヤボクの渡しでは骨が折れるほど身もだえし、それによって結局、祝福を受けました。ヤコブの一生は祝福を受けるための闘争の連続であったといっても過言ではありません。
みなさんは果たして神の選びを受けるほどの者でしょうか? みなさんの中に闘争があるでしょうか? 渇きがあるでしょうか? 肉体と戦って勝利しようという霊魂の切実さがあるでしょうか? 多くの人が「教理を頼っていれば、霊魂の安全を確保することができる。」と錯覚しています。しかし、私たちに必要なのは神の愛を受けようという情熱です。
愛する異性が他の人に心を許すのであれば、嫉妬がわき上がってくるのが人の情です。愛は相手を独占しようとします。これと同じように、神を愛するのであれば、神を独占しようとするのです。私たちに果たしてそのような愛があるでしょうか? 私たちに果たしてヤコブのように闘争する姿があるでしょうか? 私たちは自分が招かれたという事実に満足しないで、神の選びを受けようとしなければなりません。
出エジプト記20章6節は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」といいました。私たちの信仰はただ私たち自身のためのものではありません。私たちは子孫千代を念頭に置いて信仰生活をしなければなりません。「子孫千代が神から呪いを受けるのか? そうでなければ、愛を受けるのか?」という問題が私たちにかかっています。私たちが神から選びを受けてこそ、私たちの子孫千代が神の恵みの中にいることができます。
イエスは十二弟子を選ぶときに自分が望む者を呼び寄せられました(マルコ3:13)。選んだのは主であって、私たちではありません。私たち自身が願ったからといって、神の選びを受けることができるわけではありません。イエスの弟子たちが選ばれたのは彼らに学識があったためでもありませんし、彼らが名家の出身であったためでもありません。神が彼らを選ばれたのは彼らの中にある闘争をご覧になったためです。
祈りは霊魂が自分の肉体と闘争することです。断食も霊魂が自分と戦って勝利することです(イザヤ58:5)。信仰生活は自分と戦って勝利するものです。私たちは自分の肉体に勝利してこの世を克服し、神に出て行かなければなりません。イエスの道を歩まなければなりません。今までこの世で生きてきた方式通りに生きないで、これからは神の方法によって生きなければなりません。これは決してやさしいことではありません。しかし、生きるためにはその道を歩まなければなりませんし、そのためには闘争しなければなりません。胎内にいたときから闘争したヤコブの姿をご覧になった神に、私たちの霊魂が闘争する姿を見せなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 01. 24.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は咎が多い者であり、不義な者であるが、恵みを受けた。神が自分の血によって罪を贖い、義と認めてくださった。それゆえ、私は人々には汚れて見えたとしても、神の御前では愛を受ける。私は偽らないで神を信じるために、まことに生きる。それゆえ、神は私を離さないで用いてくださるし、自分の働きを預け、自分の奥義を悟らせ、聖霊によって呼吸させ、常に力を与えてくださる。私はイエスの証人として生きる。
私がこの世にとどまる日も長くない。私がこの世に対して何の欲があるだろうか。ただ神が私に与えたその御心をはじめられたために、私がこの世を離れたのちにも続けてその根から真理の芽が出て来るし、私はこの世の終わりまで証しようとする。
人々が嘲笑したとしても、それは彼らが責任を負うことである。私は残っている時間をイエスによって満たしたい。私は神を信じる。神の御言葉を信じる。私は主イエス・キリストを信じる。イエスの功労を信じる。聖霊を信じる。聖霊がなさる力ある働きを信じる。私が今、求めるのは知恵や力である。これを行ったり文章として書いたりしながら、神の国の倉を満たしたい。
肉体の状態や医学的な判断によれば、私は数十年前にすでにこの世を離れなければならなかった者である。また、現代医学によっては治療したり解決したりすることができないために、世界的な基準によって二級障害者という烙印を押されている。
このために私も熱心に神の御前で祈った。パウロの証しのように私が受けた啓示や霊感は多くて大きいので、それらを文章にすべて移したいが、私の時間と体がそれに従わない。しかし、私はこれに感謝する。私が高ぶることがないように肉体にひとつのとげを与えられたということを知って感謝する。そうだからと言って、私は二級障害者として死だけを待つ無用な者ではない。健康な者よりも熱心に、そして、多くの働きを続けている。
私は私たちの教会の監督である金聖顯牧師を信頼する。神が早くから彼に聖霊を与え、牧会と伝道と学問において多くの体験を与えてくださった。使命感も十分に与えてくださった。誰もこの大きな働きを担うことができない。神が選ばれてこそ担うことができる。それゆえ、元老監督と比較してはいけない。元老監督は60年の経験を積んでいるが、監督はこれから経験を積まなければならない。しかし、彼は韓国内のキリスト教指導者の中で最高の学者である。霊感があり、真実であり、使命感にあふれている。私たちは監督のためにさらに多く祈らなければならない。これが私の頼みである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室