偶像を避けなさい
(コリント人への手紙第一 10:14~22)
神は
聖なる方でおられる
その方は
聖なる方でおられるので、聖さを求められる(Ⅰペテロ1:16)
それゆえ、
聖さがなければ、決して
神を見ることができない
この世にあるものはすべて
空中の権勢をもつ者に属しているが、(エペソ2:2~3)
その中で救いを受ける道はただひとつ
イエス・キリストの血しかない(ヘブル9:22)
それゆえ、
イエスが十字架で血を流された(Ⅰコリント1:18)
私たちはその方の血を飲んだので、(ヨハネ6:53~55)
汚れた杯を飲むことができない
異邦人のささげるものは偶像にささげるものであるが、
偶像は霊的に汚れたものである(Ⅰコリント10:19~20)
神を愛する者は
絶対に偶像を遠ざけなければならない(出20:4~6)
偶像崇拝をするのであれば、三、四代にまで呪いを受ける
聖霊に満たされることによって聖さを守らなければならない
◎私たちは
イエス・キリストの体である
その方の聖い器官である
◎その方の器官はその方を喜ばせる
偶像は悪霊のかたちである
悪霊に仕えるというのは呪いである
◎神の愛を受けよう
聖さによって愛を受け、
偶像を遠ざけることによって愛を受けよう
※神は生きておられる主である
私たちの心と思いと霊魂を
神に永遠にささげなければならない
偶像を避けなさい (コリント人への手紙第一 10:14~22)
神は他の霊と区別された、聖なる方でおられる
神は聖なる方でおられます。天と地には多くの霊がいます。それらはすべて神によって造られ、神によって存在します。ただ神だけが自ら存在する唯一なる神です。神と他の霊との差がここにあります。他の霊はすべて神によって造られたために、神に服従しなければなりません。しかし、ただ神だけは誰も支配する者がいない、天地の主でおられます。
霊にはかたちがありません。それゆえ、目に見えません。しかし、神にはかたちがあります。神はそれを人間に現されました。また、霊には血がありません。しかし、ただ神だけは血をもっておられます。このように神は他の霊と区別された、聖なる方でおられます。
キリスト者は聖くなった者である
私たちはバプテスマを通してキリスト者となりました。水の中に入って行くことによって肉体の人を葬り、水から上がって来ることによってキリストと結びつきました。今、この世は悪魔の支配の下にあります(エペソ2:2)。悪魔と悪魔に属した霊はすべて汚れています。霊は目に見えませんし、匂いもしません。それにもかかわらず、それらの霊を汚れているというのはそれらの霊に聖さがないためです。以前は私たちも悪魔に属した罪人でした。しかし、今はキリストの功労によって悪魔から脱け出して、聖なる者となりました(テトス3:5)。
この世に多くの宗教人がいますが、聖徒、すなわち聖なる弟子と呼ばれるのはただキリスト者だけです。キリスト者は神が自分を聖く区別してくださったということを信じます。ある人は教会に通いながらも自分が聖いという事実を認めないで、教会生活をただ宗教生活と考えます。そのような人を指して信仰人ということはできません。天の御国は生まれ変わって聖くなった者が入って行くところであって、修養を積んだ者が入って行くところではありません。
パリサイ人ほど、修養を多く積んだ者はいません。パリサイ人は生まれてから8日目に割礼を受け、這い這いをする前から母親を通して律法の教育を受けました。彼らの行いがどんなに立派であったのか、彼らを罪に定めることができる者は誰もいないほどでした。ところが、イエスは「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:20)といわれました。このように人間が義とされるのは行いによってではなく、ただ神の恵みによってです。私たちが義人となったのは私たちが義を行ったためでなく、神が私たちを義としてくださったためです。
悪魔は神が義とされた者を罪に定めます。「お前は罪を犯したのではないか? お前の心の中に悪いものが満ちているではないか?」と人の良心を刺激して恐れをもたせます。それでも、私たちは信仰によって良心による罪の定めを克服し、自分が聖なる者であるという事実を認めなければなりません。
イスラエルは獣の血を通して聖くなりました。しかし、獣の血が人の罪を永遠になくすことはできません。イスラエルが頼った獣の血は将来、イエス・キリストが来て流される血についてのしるしでした。獣の血は永遠ではないために、イスラエルは毎年、獣を取って血を注ぐことを繰り返しました。そして、ついにイエスがこの地に来て神の血を流してくださいました。
私たちは獣の血ではなく、神の血によって聖くなった者です。教会は神が自分の血によって買い取られた者の集まりです(使20:28)。教会の聖徒がともに聖餐をしながらぶどう酒を飲むのは自分を聖くするためではなく、神の血によって自分がすでに聖くなったという事実を記念するためです。
祈りと御言葉によって聖さを維持しなさい
私たちが説教を聞いたり聖書を読んだりするのは神の御言葉が私たちを聖くするためです。イエスは「あなたがたは、私があなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハネ15:3)といい、また、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)といわれました。真理の御言葉が人の霊魂を聖くすることができるのはそれが神の血に染まった衣を着た御言葉、すなわちいのちの御言葉であるためです(黙19:13)。
聖くない者は祈ったとしても神の助けを受けることができません。神は聖なる者に祝福を与えられます。ヤコブは神から与えられた祝福を貴く考え、何としてでもその祝福を自分のものにしようとしました。その反面、兄エサウは神から与えられた祝福を軽蔑しました。結局、ヤコブの子孫はイエス・キリストが来られる道となりましたが、エサウの子孫はそのようになることができませんでした。このように聖くない者は祝福を受けることができませんし、その影響は子孫にまで及ぶようになります。
私たちが食べ物を食べるときに祈るのも食べ物を聖く区別するためです(Ⅰテモテ4:3~5)。私たちが旧正月を迎えて誰かから料理の接待を受けるときに、その食べ物が偶像にささげられた供え物であるのかを知る方法はありません。また、そのような状況で敢えてその食べ物が偶像にささげられた供え物であるのかと尋ねる必要もありません。私たちには祈りによってその食べ物を聖くする権勢があるためです。
私たちが神に礼拝をささげるときに祈るのは礼拝を聖くするためです。神に献金をささげるときに祈るのも献金を聖くするためです。按手をするときに祈るのもその人を聖くするためです。聖なるものがなければ、神のものとなることができません。私たちが子どもの頭に手を置いて祈るのも彼らを聖く区別して神のものとするためです。
偶像を避けて聖さを守りなさい
聖なる神に仕える私たちは汚れた霊と区別されなければなりません。旧正月になると、人々は昔から伝えられてきた風習に従って供え物をささげます。そのような供え物は悪霊に仕えるものです。コリント人への手紙第一 10章20節は「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。」といいました。神が最も嫌われることのひとつが悪霊に仕えることです。悪霊に仕える者は三、四代に至る呪いを受けます。神を知っていたとしても、知らなかったとしても、また、お金が多くもっていたとしても、少なくもっていたとしても、悪霊に仕える者の霊魂は神から捨てられます。悪霊にひざまずく者は汚れているためです。
旧正月になると、多くのキリスト者が供え物の問題をもって信じない家族や親戚と葛藤を経験するようになります。「葛藤」という言葉はクズの木の「葛」とフジの木の「藤」によって構成されています。クズの木のつるは他の木を巻きながら成長していくという属性をもっていて、初期に切り取らなければ、近くにある木がまともに成長するのがむずかしくなります。クズの木は非常に堅くて、切り取るのがやさしくありません。これと同じように、霊的な葛藤は最初から断固として対処しないのであれば、時間が経つほどさらに悪化します。
神の杯を飲んだ者がどうしてさらに悪霊の杯を飲むことができるでしょうか? 神の食卓にあずかった者がどうしてさらに悪霊の食卓にあずかることができるでしょうか? 聖なる信者であるのならば、殉教をしたとしても悪霊に仕えないというはっきりとした信仰がなければなりません。自分を聖く守ろうというはっきりとした意志がなければなりません。
神を愛して聖さを守ろう
神を愛する者であれば、偶像にひざまずくことはありません。心を尽くし、力を尽くし、 思いを尽くし、品性を尽くし、命を尽くして、すなわち子どもを愛する母のように神を愛します。イエスの母は神の御子をみごもり、産み、養育し、ついにはその死を見守り、ただ母性によってその方に仕えました。イエスは「私の母とは誰ですか? 私の兄弟とは誰ですか? 見なさい。天におられる私の父の御心を行う者は誰でも私の兄弟、姉妹、また、母なのです。」といわれました(マタイ12:48~50)。子どもに向けられる母の愛! 神に向けられる私たちの愛がそれと同じでなければなりません。
信者を自称しながらも偽善を働く者がどんなに多いでしょうか? 神を愛するまことの信者は自分を聖く守ります。聖くない者はいつか堕落するかもしれないという危険性を常に抱えています。神を愛する者であるのならば、偶像にひざまずくことはありません。コリント人への手紙第一10章21節は「あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」といい、コリント人への手紙第二6章14~16節は「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」といいました。
祈りが届くことを願うのであれば、聖くならなければなりません。神の愛を受けたいのであれば、聖くならなければなりません。神の助けを受けたいのであれば、聖くならなければなりません。信者になったという事実に満足しないで、これからは聖徒とならなければなりません。神を愛する者は聖いです。主はこの地に再び来て、聖なる者を花嫁として迎え入れられます。聖さがない者には花嫁としての資格がありません。私たち自身はもちろん、家族や子孫まですべて聖くならなければなりません。千代に至る祝福を享受することができるように聖くならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 01. 31.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
神がともにしてくださらなかったのであれば、私は今日、存在していなかったであろう。神が与えてくださった働きだけをしようとしたし、神が命じられたその道だけを進んできた。それゆえ、私が足を踏み入れたところに礼拝堂が建てられ、教会員が集まった。
今日、聖楽教会がその証しである。この世という空間に主の体を絵として描き、その中で私たちの救い主イエスに仕えてきた。足りない者を常に大胆にしてくださり、悪魔に負けないように悪霊を滅ぼす力を豊かに与えてくださった。誰が見たとしても私が神の人であるということを認めることができるであろう。
この世は私を迫害し、また、無視して疎外するが、神は私の味方となって常にともにしてくださり、私の祈りに応答を与えてくださった。今はすべきことをすべてしたと考えている。息が止まるその日までただ文章を書き、これ以上、この世に未練をもつことなく整理していきたい。
私は私のようにこの世に耐えることができる働き手が出て来ることを求めている。私のように迫害を受け、悪口を言われ、多く誤解されたとしても、この世に耐えることができる働き手が出て来ることを求めている。私のように真理に精通し、神の意図に自分の霊魂と肉体の命をすべて差し出すことができるしもべが出て来ることを求めている。どうしてこのように焦ってくるのであろうか。私が生きている間にそのような期待に至ることができなかったとしても、私が書いておいた福音仲裁の御言葉を悟って命を差し出す者が出て来ることを求めている。
私は義人ではないし、聖なる者でもない。肉体を愛する者である。しかし、私ははっきりと神の国を愛する者である。私の霊魂と肉体が別々に行動したために多くの人を失望させ、天の天使も失望させたが、それでも主は私をその広い翼の下に隠してくださり、慰めの尊い血によって常に輸血してくださった。私が遺言のような内容を書いたとしても、おかしなことではない。また、私の心が弱くなったと考えて人間的に慰めてはいけない。私はまことな言葉を語るのである。
「聖楽人のみなさん! 私たちの教会は一般の教会と異なり、殉教者が多く出て来る神の教会とならなければなりません。さらに熱心に主のふところに抱かれて自分の霊魂が神の脈の音を聞かなければなりません。他の人を恨んだり、この世を離れて遠くに行ってしまった私の名に悪口を浴びせないでください。私は下肥によって野菜を育ててきました。汚い臭いがする下肥によってみなさんの霊魂が肥えるように育ててきました。下肥は臭いがしますが、野菜畑の野菜は多く実らなければなりません。その野菜を刈り取られる方が主でおられるためです。」
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室