主が指で書かれた文章
(ヨハネの福音書 8:1~11)
神は
永遠の御言葉でおられる
その方は滅ぶべき人類を御言葉によって生かされた(ヨハネ5:24)
神の御子がこの世に臨まれたのは
その方の御言葉を通して、
すなわち、福音によって律法を完成するためであった(マタイ5:17~19)
律法は
神が天使を通して伝えられた御言葉であり、(ガラテヤ3:19)
福音は
主が直接、伝えられた御言葉である(ヘブル2:3~4)
この世は天使の言葉によって罪に定められたが、
主の御言葉によって救いを受ける
義人がひとりもいないこの世で
主は罪人のために文章を書かれた
自分には罪がないと信じる者は
この文章を読んで罪に定められなければならないし、
罪人はこの文章を読んで救いを得なければならない
この文章は永遠に見ることができない文章であるが、
罪人だけが読むことができる、救いの文章である
主は今も身をかがめて私たちのために仲介しておられる
◎主が指で書かれた文章を
私たちの心に満たして、
ともに悔い改めよう
◎主の体である教会を
愛そう
◎福音を伝えるという
私たちの使命を全うしよう
※この世のすべての文章は消されたとしても
主が指で書かれた文章は
永遠に侵害を受けない
主が書かれた文章には
私たちのための永遠な救いがある
主が指で書かれた文章 (ヨハネの福音書 8:1~11)
信じる者の道理
私たちは人生の中で苦しんだりもします。それはイエスを信じる者にとっても例外ではありません。しかし、私たちは苦難に勝利しなければなりません。これは涙ぐみながら耐えなさいという意味ではありません。天で受ける栄光を期待する私たちにとって人生の苦難はいくらでも勝利することができる小さな問題です。この世に心を置いた者にとっては神から与えられた夢が小さく感じられます。しかし、神から与えられた夢は私たちをこの世から十分に勝利させるほど大きなものです。
私たちは神の御前で信じる者の道理を尽くさなければなりません。現実的な問題がすぐ目の前にあったとしてもそのような態度に変わりがあってはいけません。私たちが神の御前で当然に尽くすべき道理を尽くさないのであれば、神が私たちの祈りを聞いてくださらなかったとしても私たちには返す言葉がありません。この世の物差しで教会の働きを非難したり、牧会者を判断したりしてはいけません。どんな状況であっても自分がどのようにすれば、教会に益となるのかと悩まなければなりません。
恵みを受けた罪人
私たちが忘れてはいけないのは私たちの本質が罪人であるという点です。神の律法の前で私たちは罪の定めを避けることができません。もちろん私たちはすでにキリストの功労を着たために、これ以上、律法の罪に定められることはありません。しかし、これは律法を無視してもいいという意味ではありません。私たちが主に会うことができたのは律法があったためです。それゆえ、ある面では私たちは律法によって救いを受けたということもできます。
「律法からの自由」という言葉を誤解して、どのような法にも縛られないで思い通りに行動する者もいます。そのような人は自分が本来、罪人であったという事実を忘れた者です。キリスト者にも律法は必要です。イエスは自分が律法を廃棄するためにではなく、成就するために来たといわれました。それゆえ、律法から自由を得たキリスト者ならば、律法に入っている神の御心をなすために誰よりも努力しなければなりません。
律法は全人類に適用される法です。神はすべての人が律法の前で「私は罪人です。」と告白するのを願われます。イエスは人類が受けなければならない刑罰を代わりに受け、そのときから神の御前で私たちを弁護しておられます。しかし、私たちがイエス・キリストの功労を受けるためにはまず自分が罪人であるという事実を認めなければなりません。
イエスが発見されたパリサイ人の問題は彼らが律法の前で自分を罪人と考えるのではなく、むしろ義人と考えたというところにありました。彼らは自分が律法をすべて守っていると確信しました。イエスがそのようなパリサイ人の前でなさったことは律法を強化することでした。イエスがそのようにされたのはパリサイ人を滅ぼすためではなく、自分が罪人であることを認めさせ、それによって恵みの前にひざまずかせるためでした。
主が地面に書かれた文章
ある日、ユダヤ人が姦淫の場で捕らえられた女をイェスの御前に連れて来て、イエスに「律法によれば、この女は石打ちにされて死ぬべきですが、あなたは何と言われますか?」と尋ねました。律法によるのであれば、その女は死ななければなりませんでした。そのような人が救い主としてこの世に来られたキリストの御前に立ったのです。その瞬間、すべての人の目がその現場に集中しました。イエスは身をかがめて地面に文章を書きはじめられました。そして、身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。」といわれました。そして、もう一度、身をかがめて地面に文章を書かれました。その言葉を聞いて良心の呵責を感じた者がひとりふたりと出て行きました。
姦淫の女は主が書かれた文章によって生き返りました。主が地面に書かれたその文章がどのような内容であったのかは誰も知ることができません。信仰がない者がその記録を見ることができないように、また、それによって誰もその記録を変えてしまうことがないように、主はその文章を記録として残されませんでした。私たちがはっきりと知らなければならないのはその文章が自分を差し出して私たちを永遠な刑罰から救い出そうとした主が書かれた文章であるという点です。それゆえ、私たちはその文章の前で私たちが本来、罪人であったという事実を覚えなければなりません。
主が書かれた文章の前で
私たちは救いを受けて神の子となりましたが、それは私たち自身の功労によってなされたものではありませんでした。それゆえ、私たちは心を引き締めて身を慎まなければなりません。罪人を救おうという心情をもってこの地に文章を書かれた主を考え、この地で旅人のような人生を送る間を、恐れかしこんで過ごさなければなりません(Ⅰペテロ1:13~19)。私たちは神に仕えるときに慎みと恐れをもたなければなりませんし(ヘブル12:28~29)、また、そのような心をもって最後まで救いを達成しなければなりません(ピリピ2:12)。
主が地面に書かれた文章を読んだのであれば、変わらなければなりません。自分が受けた大きな恵みを当然なものと考えて再び過去に戻ってはいけません。他の人を非難する代わりに自分の霊魂のことを心配しなければなりません。教会を判断してきた習慣を捨てて、主の働きのために自分をささげなければなりません。牧会者を無視してきた行為を捨てて、むしろ牧会者の心強い助力者とならなければなりません。
私たちの信仰はイエスが犠牲を払われた功労の上に立てられなければなりません。主の功労や神の法ではない、別の基準が私たちの心を支配しないようにしなければなりません。私たちは神の御前で罪人でしたが、罪の贖いの恵みをすでに受けましたし、また、毎日、とりなしの恵みを受けています。このように大きな愛を受けたのであれば、これからはその愛を伝える働きに自分をささげなければなりません。この世の基準によって教会を危険に陥れる者とならないで、教会を守り、教会がすることを支持し、それによっていのちを求める聖徒とならなければなりません。それが恵みを受けた者として神の御前で当然にもたなければならない姿勢です。私たちがそのようにするときに神も私たちの困難を覚えて助けてくださいます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 05. 15.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
この世で最も貴いものや価値があるものをすべて子どもに与えてその栄光を受けようとするのが父の心である。このように父なる神は創造したすべてのものと最も高い天の御座を御子に与えられた。そして、それによって栄光を受けようとされた。これがその方の義であり、真理である。それゆえ、イエスもこのような父の御心をこの世に知らせ、また、その御心を成し遂げようとされた。
ある人は「神は利己的な方でおられる。」というが、自分のものを自分の思い通りにすることができる方が神でおられる。神のものはすべて御子に与えられたし、その栄光を受ける方は神でおられる。子どもに与えるものを犬に与えて喜ぶ父がこの世にいるであろうか? このように神が願われるのは御子によって栄光を受けることである。それゆえ、「あなたがたは神の義を求めなさい。」といわれた。「どのようにすれば、神を喜ばせることができるであろうか? どのようにすれば、神に栄光をささげることができるであろうか?」と常に渇望するのが私たちの信仰心である。
私はこれまでの半世紀、ただイエスの働きをしようと全身全霊を尽くしてきた。今は一線から退いて後方で同じ働きをしようとするが、それが月山文学である。これは高い山にトンネルを掘り、川に橋を架けて近づきやすくすることと同じである。それゆえ、これは私がすべき重要な働きである。
私は文学を通して人間学を学ぼうとしてきた。牧会は神から出て来る聖霊と真理によってイエス・キリストを探していくものであるし、文学は人間と土からイエス・キリストを探していくものである。神から出て来る聖霊と真理によってイエス・キリストを探していく道は聖い道である。しかし、人間と土からイエス・キリストを探していく道は険しい道である。
義からイエスを探す道が先であり、不義からイエスを探していく道が後である。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」という神の声が天から聞こえてきたために、次は「私は罪人であり、土です。」と告白してその方の御前に出て行く。
信仰告白とは天で義とされることによって、また、地で「悔い改めます。」と近づいていくことによって神と人間の間におられるイエス・キリストを認めるものである。天から出て来た信仰は「イエス・キリストは神のひとり子であり、キリストでおられる。」と告白するものである。神の御子というのは「義人」という意味であるし、キリストというのは「私のような罪人を生かしてくださった救い主」という意味である。
恥ずかしながらも、私は文学を通して不義なる人間が神を探していく道を歩む。私は土から出て来た不義なる人間である。その人間が主を探していくのである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室