
アーメンと答える教会
(コリント人への手紙第二 1:18~20)
神は
私たちに福音を与えることによって
救いを得させた
その方は
私たちに福音を預け、私たちが
この世の人々に福音を伝える生涯を送ることを願われる(ローマ10:14~15)
福音を受け入れた客体は私たちの霊魂であるが、
福音を伝える媒介は私たちの心と肉体である
しかし、私たちが福音伝道の媒介である
心と肉体を訓練して、(Ⅰテサロニケ2:10)
有用に用いられるようにしないのであれば、
私たちの霊魂も福音伝道の責任を担うことができなくなる
特に私たちのまことな心と唇は
神の永遠な愛を込めた
すべての福音の言語に対して(ローマ10:9~10)
「アーメン」と大きく叫んで歓迎しなければならない(Ⅱコリント1:20)
そのようにするのは
聖徒の霊魂を起こすことであり、
心を確かなものとすることであり、
肉体を動かすことであり、
教会に福音を伝えるための活気をもたらすことである
◎私たちはそれぞれ
恵みの事実を耳で聞くたびに
「アーメン」と叫ぶ、聖なる訓練をしよう
◎「アーメン」と叫ぶときには
まるで賛美をともに歌うように
他の聖徒とともにしよう
◎私たちにはそれぞれ
毎日、福音仲介者としての使命があるということを
忘れてはいけない
※アーメンと答える教会は
主イエスの国の権威を現す、
この地での唯一の器である
アーメンと答える教会 (コリント人への手紙第二 1:18~20)
礼拝を通して主の声を聞こう
イエスはこの地に来て神の御心を成就したのちに天に上られました。その方は天に上る前に弟子たちにしなければならないことを命じられました。それは教会の外にいる人々に救いの知らせを伝え、それによって彼らを教会に来させてイエス・キリストの体の器官とすることでした。これはイエスが私たちに与えられた使命です。
教会はこの働きを成就するために多様な方法を通して伝道の働きをし、そのようにして教会に入って来た人々を対象として組織的な教育を実施します。このように福音伝道のために教会がひとつとなってしなければならないことがありますが、その一方で、聖徒それぞれが成就しなければならない任務もあります。それは聖徒それぞれが自分の霊魂を聖くすることです。このためには神の御言葉に従わなければなりませんし、力を尽くして教会の職分を担わなければなりません。
聖徒が教会のために働くというのは主の御言葉に従うということです。主がこの地におられるときに、弟子たちは主の肉声を聞いて行動しました。しかし、主が天におられる今、私たちは聖霊によって主の声を聞きます。私たちは聖霊を通して御言葉を聞きますし、それによって肉声を通して主の声を聞くときよりも正確に、具体的に主の指示を受けます(ヨハネ16:13)。このように主の声を聞くことができる重要な道のひとつが礼拝です。
御言葉にアーメンと答えよう
信仰生活を苦しめる要素はさまざまです。その中で大きな比重を占めるのが肉体の欲と考えです。これらは個人の信仰に多くの困難を与え、ひどい場合には人を試みに遭わせますし、教会の力強い行進を遅滞させたりもします。肉体に属した者が集まりの中にひとりでもいるのであれば、集まり全体に否定的な影響を及ぼします。それゆえ、私たちは以前、この世でもっていた悪い習慣を捨てなければなりません。これからは主の教会のために貢献しようという心をもたなければなりません。
このために私たちが今すぐに実践しなければならないことがありますが、その中で簡単でありながらも大きな影響力を及ぼすことがあります。それは説教を通して御言葉を聞くときに声を出して「アーメン!」と答えることです。日常生活をしながらも信仰が含まれている言葉を聞くときがありますが、他の人の言葉を聞きたがらない肉体はそれが正しいと知りながらもわざわざ拒んだりもします。そのようなときに私たちの心を制御する方法は「アーメン!」と答えることです。信仰の言葉に批判的な態度で接しながらも、一度、アーメンといってそれを認めるのであれば、のちには驚くべきことにそれを実践している自分を発見するようになります。
教会で説教を聞くときには「アーメン!」と答えることが重要です。御言葉を聞きながらも「説教の内容の中で私に必要な情報があるのならば、それを受けましょう。とりあえず説教してみてください。」という態度をもつのであれば、結局、その人は神から何も得ることができません。反対に、説教を聞くときに「アーメン!」と答えるのであれば、その人は神の声を聞きます。牧会者は神が教会に与えようとする御言葉を聖霊によって伝える、神の道具です。牧会者自身も説教するときに「神がこの御言葉を聖徒に伝えなさいといって、この御言葉を与えられた。」という心をもちます。私たちは牧会者がそのような信仰によって証しする御言葉を神の御言葉として受け入れなければなりません(Ⅰテサロニケ2:13)。
主のしもべが御言葉を伝えるときに、その内容を頭で分析しながら取捨選択したり「私を一度、説得してみなさい。」という態度をもったりするのであれば、それはイエスが流された血によって生き返った者が教会の礼拝堂に座ってもつべき態度ではありません。私たちは神の御言葉を聞くときにそれを心で信じ、また、口で告白しなければなりません。
肉体を福音の道具としよう
私たちは自分の肉体を過小評価してはいけません。私たちの肉体は福音の道具です。私たちがするのは悪魔の巣窟で苦しんでいる人々に天国のビザを発給することです。「イエスを信じてください。その方は血を流して、私たちに向けられた神の愛を見せてくださいました。その方は罪人である私たちの重荷を代わりに担ってくださいました。」と伝えるのは「ここに天国のビザがあるので、受けなさい。」といって人々を悪魔の支配から自由にさせることです。将来、腐ってなくなる私たちの肉体がこのように栄光ある働きに用いられるというのがどんなに価値あることでしょうか?
将来、私たちは裁き主として来られる主に会うようになります。そのときにはそれぞれが主の御前で自分が行ったことに対して報いを受けるようになります。そのときのために、私たちは今、努力しなければなりません。今が恵みの時代であるという事実に安住していてはいけませんし、主のしもべが伝える神の御言葉を無視してはいけません。また、礼拝を切実に慕い求めなければなりませんし、教会の働きに関心をもたなればなりません。それぞれの行為が主の御前にひとつひとつ記録されているという事実を私たちは覚えなければなりません。
神にささげる礼拝に栄光と喜びがあふれるようにすべての聖徒が努力しなければなりません。礼拝を尊重するという心だけでは十分ではありません。神に出て来るときには恵みを受けたという証しをもって出て来なければなりません。神にささげる献金を惜しむ者は神の関心を引くのがむずかしいです。神にささげる献金を惜しむ教会も神の関心を引くのがむずかしいです。
預言者ハガイはバビロンで捕虜生活をしたのちにエルサレムに帰還した人々がすぐに自分の家を建てながらも、神の神殿を建てることには関心をもたないと指摘しました。その当時、彼らには神殿再建という重大な任務が与えられていました。それをなすために彼らは力を尽くして献金をささげなければなりませんでした。しかし、彼らは献金をささげることを惜しみました。私たちは彼らと異なり、神の子という貴い身分をもって教会に仕えます。それならば、神に仕える私たちの心と態度は彼らと異ならなければなりません。
礼拝を成功させなければならない責任が教会のすべての器官にあります。祈るときには切実に叫び、賛美するときには情熱的に信仰を告白しなければなりません。踊りながら賛美するときには子どものように体面のようなものを下ろさなければなりません。特に説教から信仰の言語が聞こえてくるのであれば、「アーメン!」と答えなければなりません。自分の好みに合う御言葉だけを選んで「アーメン!」というのは意味がありません。イエスが神の御前でただ「はい!」とだけいわれたように、私たちも神から出て来るすべての御言葉に「アーメン!」と答えなければなりません。
アーメンと答える教会をなそう
天国は神に仕える者がアーメンと叫ぶところです(黙5:13~14)。将来、そこに行こうとするのであれば、この地にいるときから「アーメン!」と叫ぶのが自然なこととならなければなりません。聖書の至る所で、信仰告白についてアーメンと答える内容が記録されています。ローマ人への手紙11章36節は「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 」といいました。15章33節は「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」といいました。ガラテヤ人への手紙6章18節は「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」といいました。ヨハネの黙示録1章6節は「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」といいました。
恵みの御言葉が聞こえてくるときに「アーメン!」と答えるのが私たちにとって非常に自然なこととならなければなりません。聖徒がともにいるときには合唱をするように他の人と心と声を合わせて「アーメン!」と叫ばなければなりません。聖徒それぞれには息をするこの瞬間に福音仲裁者としての使命があるということを忘れてはいけません。イエスの教会はアーメンと答える教会です。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 05. 22.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
この時代、人間の領域は驚きべき文明によって侵されている。少し前にこの世を驚かせた「アルファ碁」と人間との対局においては人間が負けた。これからは人間がすることをすべて人工知能がするようになるであろう。小説や詩も人工知能が書くようになるであろうし、人々の心にようやく伝えられた神の国に対する望みさえも壊されてしまうであろう。
そのとき、果たして教会がすることがあるだろうか? そのために教会は目を覚ましていなければならない。人工知能が人間の知能を超えて人間を支配する段階にまで至るのであれば、この世に何が起こるのであろうか? しかし、私はひとつの大きな望みを失っていない。どんなに人工知能がすることが多かったとしても、決して随筆を書くことはできない。人工知能が随筆を書いたのであれば、それは偽りであり、虚構であって、随筆ではない。随筆は自分の経験や追憶の中で永遠に記憶されることを書くものである。それゆえ、絶対に作り上げることができない。
しかし、講壇でだけ宣べ伝えられる霊的な説教を人工知能が作り上げるのであれば、果たして神が生きておられるということができるであろうか? 聖霊が働かれるということができるであろうか? 宗教化された教会は人工知能を頼って説教を作り、それを講壇で注ぎ出す。これは「ものを語る偶像」ではないであろうか? いのちも霊力もない人工知能によって作り上げられた説教を聞いて天国に行く者がいるであろうか?
私たちの教会はこの時代の偉大な使命者である。霊感がない説教は私たちの講壇には永遠に存在しない。これまでの半世紀をただ聖霊の助けによって霊感と真理だけを食べて飲んできた。その御言葉が聖霊によって力を現し、証ししてきた。その御言葉に従って霊魂が聖霊を受け、賜物を受けてきた。悪霊もその御言葉を知って恐れながら出て行った。これは主イエス・キリストがこの地に再び来られる日まで続けられなければならないし、さらに多くなされなければならない。
まず教会員が目を覚まさなければならない。教会員が他の声を聞いて惑わされるのであれば、永遠に宗教人となってしまう。しかし、神の御言葉によって信じて受けることができる霊的な良心をもつのであれば、生きる。私たちはそれぞれ御言葉を分別することができる霊魂とならなければならない。この御言葉が果たして真理であるのか、すなわち聖霊が語られるものであるのか、あるいは人工知能によって作り上げられた偽りであるのかを分別することができなければならない。
私は使命者である。使命者として生涯を送ってきた。私が伝える御言葉は神が認められたし、聖霊が証しされたし、悪霊も知って恐れながら出て行った。ああ! わが霊魂よ、ただ主の御言葉だけを伝えよう。聖霊が注いでくださる御言葉を証ししよう。私たちの教会は永遠にそのようでなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室