
光と塩になりなさい
(マタイの福音書 5:13~16)
神は
父でおられる
その方が
創造の根本である御言葉をこの世に見せられたが、(ヘブル11:3)
イエス・キリストは根本である義でおられる
人々に「義があるのか?」というのは(マタイ5:20)
「イエス・キリストがその人におられるのか?」という意味である
イエスがいない者は義がない者であり、(ヨハネ16:10)
すなわち、不義なる者である
イエスがいる者は義人であり、愛を受ける
神は功労を義の基準として人々に報いと罰を与えるが、(ローマ8:33~34)
ただ人々が恵みを受けることを願われる(エペソ2:8)
神の恵みは光と塩であるが、これは永遠に不変である
それゆえ、
恵みを受けた者は光として現れ、(マタイ5:14)
この世に味をつける調味料のような身分となる
これが義人の証しである
自分ひとり恵みを受けたからといって、誇るのではなく、
他の人に認められなければならない(マタイ5:16)
聖霊は私たちが光と塩になるように働かれる
イエスは光と塩の根本でおられる
◎この世の光となろう
イエスが光としてこの世に来られたので、
イエスを信じる者は光とならなければならない
◎この世の塩となろう
イエスがこの世の望みとなられたので、
イエスを信じる者は望みを見せなければならない
◎信じる者に光がなければ、
従う者がいない
信じる者に味がなければ、従う者がいない
※光を輝かせよう
味を出そう
恵みを受けた者として義人となろう
光と塩になりなさい (マタイの福音書 5:13~16)
父なる神の愛を受け入れよう
神は父でおられます。最近の親は子どもに勉強させて成功させようという情熱がとても強いです。以前とは異なり、核家族社会となりながら、子どもに対する親の愛情表現はさらに率直になり、自然になりました。ところが、多くの若い親は自分の子どもをそのように愛しながらも、自分の親も自分をそのように愛したということを覚えることができません。むしろ親の厳しい姿だけを覚えることが多いですが、それは明らかに誤解です。私たちは親の愛によって成長した者です。
神は私たちの父でおられます。その方は私たちを愛してくださいます。その方がひとり子を私たちに与えてくださったのも私たちを愛してくださったためです(ヨハネ3:16)。私たちが救いを受けて義人となり、復活して永遠のいのちを得ることができるようになったのは神が私たちに向けられた愛を現してくださったためです。私たちが神の力と恵みを受け、天に対する望みをもって生きることができるのも神が私たちを愛してくださったためです。神が私たちを愛してひとり子を遣わしてくださったという事実、これが私たちの信仰の基礎です。
神が愛をもって施してくださったものであるのならば、何であっても拒まないで、積極的に受け入れなければなりません。神が私たちに祈りの権勢を与えてくださったのであれば、祈ったことについては必ず応答があるという事実を信じなければなりません。10日が過ぎたとしても、1ヶ月が過ぎたとしても、ましてや40年が過ぎたとしても、祈りの応答に対する信仰を失ってはいけません。また、神が私たちに祝福を与えてくださったのであれば、その祝福が私たちに成就されるということを信じなければなりません。
私たちは神の恵みを受けた者です。もう一度言うと、神の恵みと愛を受けた者です。神が私たちにイエス・キリストを遣わしてくださったというのは私たちに道を開いてくださったということです(ヨハネ14:6)。その道に出て行く者は誰でも神の愛を豊かに受けることができます。神は私たちに向けられた愛を制限されませんでした。私たちも神が施してくださる愛を制限しないで受け入れなければなりません。
神はアブラハムに自分がしようとすることを隠されませんでした。それはアブラハムが神を愛していたためでした。神の愛を悟ることができていないのであれば、それはその人が神を愛していないためです。神の御前で惜しんで怠ける態度を見せるのも神を愛していないためです。神を愛する者であれば、神が施された愛をそのまま受け入れます。
神の光に漬かって塩となろう
神の愛は御言葉を通して私たちに伝えられました。その御言葉は人々の光です(ヨハネ1:1~4)。光の中でX線は人の体を透過します。病院ではX線のそのような性質を活用して体の内部の姿を撮影したりします。これと同じように、神の御言葉という光は目に見えませんが、私たちの肉と骨を刺し通して霊魂の中にまで入って来て働きます(へブル4:12)。私たちはその光を受け入れなければなりません。この世はその光を受け入れないで、むしろ憎みました、しかし、私たちはその光を迎え入れて自分の霊魂に定着させなければなりません(ヨハネ1:12)。
主は私たちに光と塩になりなさいといわれました(マタイ5:13~16)。光と塩は密接な関係をもっています。塩を得る方法のひとつは塩田に海水をまいて長時間、日光を浴びせ、それによって水を蒸発させるというものです。水がなくなって塩だけが残るまでは光が十分に供給されなければなりません。種をまいたところから実が出て来るように、また、農夫の努力が投入されたところから穀物が出て来るように、光が供給されたところから塩が出て来ます。これと同じように、私たちは真理の光を受けた者です。それゆえ、私たちはその光に漬かって塩とならなければなりません。
食べ物から味を引き出すためには塩がなければなりません。どんなによい食材を使って作った料理であっても塩がないのであれば、味を出すことはできません。これと同じように、神の御言葉を受けて恵みを豊かに受けた者がいるところではその人によって人々が平和を得なければなりませんし、この世の風習によって支配を受ける代わりに聖くならなければなりません。もう一度言うと、信者であるのならば、どこに行ったとしても塩のように味を引き出し、それによって人々から愛と尊敬を受けなければなりません。海水に光が供給されて塩が出て来るように、聖霊に満たされた者には愛、喜び、平安、寬容、親切、善意、誠実、柔和、自制のような実が現れなければなりませんし、それによって私たちがいるところに美しい変化がなければなりません。
人々に神の愛を知らせよう
ある人は信仰生活をしているといいますが、実際には自己満足に過ぎない宗教生活をしています。そのようにしながらも自分の信仰がいいと考えます。自分の信仰生活が宗教生活に過ぎないのかを確認しようとするのであれば、自分が他の人に良い影響をどれくらい与えているのかを調べなければなりません(マタイ5:15)。
イエスは「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」(マタイ5:15)と強調されました。枡は穀物の量を測定するときに使う容器です。灯火をつけてそれを枡で覆うのであれば、誰もその光を見ることができないために、灯火をつけた理由がなくなります。灯火をつけたのであれば、燭台の上に置かなければなりません。燭台というのは灯火がさらに広い空間を明るくするために使う鏡をいいます。
神の御言葉を通して恵みを受けたにもかかわらず、それを利用してただ物質的な豊かさと現世的な繁栄だけを求めるのであれば、それは灯火をつけてそれを枡の下に置くことと異なるところがありません。私たちがまことに恵みを受けた者であるのならば、私たちによってさらに多くの人が救いを受けなければなりません。礼拝堂に誠実に出席しているからといって、信仰がいいと錯覚してはいけません。燭台の上に置いた灯火のように、さらに多くの人を明るくしなければなりません。
神の愛に漬かって霊感をもたなければなりません。一言で言うと、神の者とならなければなりません。神の者はエリヤのようにこの世では孤独に見えることもありますが、天では決して孤独ではありません。女王蜂がいるところには数万匹の蜂が集まります。人間の目には見えませんでしたが、多くの天の軍勢たちが常に万王の王でおられるキリストを警護して同行していました。私たちが神の愛を受け、霊感を得るのであれば、女王蜂に蜂の群れが集まるように力が私たちを助けます。
私たちは真理の御言葉を受けた者です。神の恵みによって尊い血の功労を着て聖霊まで受けた者です。それゆえ、私たちはその愛の光に漬かって塩とならなければなりません。神の者として味を引き出さなければなりません。自分だけではなく、子どもにも神の愛を知らせなければなりません。子どもに財産を譲るよりは立派な信仰を所有させなければなりません。自分は信仰をもっていると考えながらも宗教生活をする者となってはいけません。多くの人に神の愛を知らせる者とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 05. 29.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
過ぎ去った歳月を顧みると、聖書の御言葉が思い浮かんでくる。「空の空。すべては空。」。この教訓は真理である。しかし、たとえ肉体はこの世で過ごしてきたとしても、私の霊魂は神の恵みによって神の愛の中で働いてきた。私の霊魂は恵みを受けたが、私の肉体はとても疲れている。しかし、神から与えられた愛ほど肉体がついていくことができるのはひとつの特別な理由からである。それはただ忍耐である。これは誰が何回、尋ねたとしても、変わることがない答えである。
主の働きをするというのは忍耐なしには不可能なことである。一日に何回も揺れるときがあったが、忍耐によって耐えてきた。他の人の家で生活しながら心理的な苦痛が肉体の苦痛を凌駕したこともあったが、忍耐して、また、忍耐した。死にたいと考えるときも多かったが、そのたびに耐える力を発揮した。空腹でそれ以上耐えることができなかったときにも、さらに耐えることによってその危機を乗り越えることができた。
伝道や牧会がどんなに苦しいのかを数十年間、経験してきたといってもいい。50年前の文化生活と現在の文化生活は異なるために、精神だけをもってすることができなかったが、私は危機が訪れるたびに息をするように忍耐することを忘れなかった。
この世を生きる人々が苦しいのは忍耐力が足りないためであると考える。多くの牧会者を見ても、特別に足りないところがないように見えるが、少し会話をすれば、その人に忍耐力がどれほど足りないのかを知るようになる。他に説明するこができない。事業をする者であれ、職場に通う者であれ、限界を感じるというのは忍耐という大きな力を捨てたためであると考える。どんなに頭が良かったとしても、忍耐する力がないのであれば、花を咲かせることができない。
私が生きてきた道はただ忍耐する道であった。主が私を愛してくださるのは私がよく忍耐するためである。しかし、そのように耐えて、また、耐えたとしても、まだ忍耐力が足りないと感じる。耐えることができないで後悔することもあった。私は本来、忍耐力がない少年であった。しかし、私が大きな目的を立てたのちにはその目的のために走るのをやめることができないという信念があったために、耐えて、また、耐えることができた。聖霊を受けたのちには聖霊の実として忍耐を得た。今は聖霊がさらに働いてくださることによって忍耐を大きな賜物と考える。
私は今も耐える。また、耐える。しかし、それにも限界があるようで、少し心配になるが、やはり忍耐が最後に勝利するということを疑わない。主が私に与えてくださったこの忍耐力は普通の人がついてくることができなさそうである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室