
主イエスを記念しなさい
(コリント人への手紙第一 11:23~29)
神は
失われた私たちを探された
その方は
また、他の失われた者を探すために
私たちを用いられる
私たちは肉体という服を着ているが、
本質は霊的な存在であり、
神の救いの働きを助ける、
栄光の器である(Ⅱコリント4:7)
主イエスはそのような私たちに聖餐を命じて、
その方の死を記念させた(Ⅰコリント11:24~26)
私たちは聖餐を通して
その方の愛と恵みを覚えて感謝する
これによって私たちはこの世の霊魂を救う、
使命者となるためのまことの変化をもつことができる
私たちは互いに愛し、互いに励まし、(ヨハネ13:34)
この世の権勢に勝利し、(ヨハネ16:33)
霊魂を救うという使命をともに成就していく同労者である
新しい戒めは
私たちが全身全霊を尽くして率先垂範しながら守ることによって
キリストの教会を強め、堅固にするために
主から与えられた戒めである
◎私たちは
主の血と肉を
常に伝える者であるということを忘れてはいけない(ルカ22:19~20)
◎神の愛に対する感謝を、
互いに施す愛と親切によって
現そう
◎新しい戒めを常に実践して
伝道する教会となろう
※主の血と肉を伝える
私たちは
キリストの教会である
主イエスを記念しなさい (コリント人への手紙第一 11:23~29)
肉体という枠から脱け出して自分のまことの姿を探そう
以前、私たちは失われた者でした。そのとき、私たちは暗やみの中でどこに行くのかもわからないで、さまよっていました。そのとき、私たちが知らなかったのは神だけではありませんでした。私たちは自分についても知ることができませんでした。神はそのような私たちを忘れないで、探してくださいました。
以前、私たちが知っていた私たちの姿は私たちのまことの姿ではありませんでした。それはこの地で着たのちに脱ぎ捨てる肉体に過ぎませんでした。この地の劣悪な環境で生きていくと、人は悪くなったり貧しさのためにみすぼらしくなったりします。そのような姿も私たちのまことの姿ではありません。正しい者が損害を受け、むしろ悪い者が栄えやすいこの世の生活に適応しながら、私たちは肉体が自分のまことの姿であると誤解したまま生きてきました。
これからは自分のまことの姿を肉体という枠から解放させなければなりません。このためには第一に、神の恵みと愛を受けなければなりませんし、第二に、この世の心配を克服しなければなりませんし、第三に、神のしもべとして自分の本分を担わなければなりません。私たちの存在意義は神のしもべとして本分を担うところにあります。この世は自分の本分を担う者にとってそれ以上、汚くて避けなければならないところではなくて、神から預けられた働きをなすところです。
自分の肉と血を差し出された主を覚えよう
神は私たちにイエスとともに天に座る恵みを施してくださいました(エペソ2:6)。私たちに与えられたこの大きな恵みの発端はイエスが弟子たちとともにもたれた最後の晩餐であったと見ることができます。イエスは「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(ルカ22:15)といわれました。その晩餐はイエスの最後の晩餐でした。晩餐が終わると、イエスはすぐに死なれました。もしその日に主とともに食事をしなかったのであれば、弟子たちは二度と主とともに晩餐をもつ機会がなかったでしょう。主はその晩餐で弟子たちにパンを裂かれましたし、数時間後には実際に自分の体を裂かれました。
イエスは弟子たちに杯を与えながら「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(マルコ14:24)といわれました。弟子たちにとって「契約の血」という言葉は不慣れな言葉ではありませんでした。イスラエルがエジプトから出て来てシナイ山の前に集まったときに、モーセが人々に律法を朗読したのちに羊の血を注ぎながらそれを契約の血と呼んだためでした(出24:8)。イエスはその血と区別するために自分の血を「新しい契約の血」といわれました(ルカ22:20)。新しい契約の内容は罪を赦すということでした(マタイ26:28)。イエスは弟子たちに杯を与えてから数時間後に実際に自分の血を流されました。それを見た弟子たちはイエスが言及された「契約の血」という言葉を絶対に忘れることができませんでした。
イエスは十字架で死ぬことによって私たちに向けられた神の愛の真実を最も貴いかたちとして見せてくださいました。神の愛はただ心の中にあるものではありませんでした。神は自分の体を与えるほど私たちを愛してくださいました。私たちはただ信仰を通して救いを受けますが、主は私たちを救うために自分の命を捨てただけでなく、あらゆる蔑視と誤解に耐えられました。
主は弟子たちに聖餐を命じながら「私を記念しなさい。」といわれました。その方は一度も父の御前で自分を高めたことがありませんでした。その方は常に父に栄光をささげ、父から命じられた御言葉だけを伝え、父から命じられたことだけをなさいました。ところが、聖餐について命じるときだけは「父」ではなく、「私」を覚えなさいといわれました。そうです。聖餐をするときにはイエスを覚えなければなりません。その方が十字架で死なれたという事実だけでなく、死が来ることを待っておられたその方の心情もともに覚えなければなりません。
聖餐を通してひとつであることを確認しよう
聖餐の意味は主が裂かれた肉のように私たちが散らばってそれぞれ生活の現場で福音を伝え、霊魂を連れて再び集まり、すべての霊魂がひとつの体であるということを確認するところにあります。集まってともに聖餐をすることによって主の愛と犠牲を覚え、その方を中心としてひとつになるというのが完全な教会の姿です。以前、人間はアダムの中でひとつでしたが、今、私たちはイエス・キリストの中でひとつです。聖書を通して私たちは神が個人をそれぞれ導かないで共同体を導かれたということを知ることができます。神はアブラハムの信仰を根としてひとつとなった旧約教会を導かれましたし、十二弟子を導かれましたし、マルコの家の大広間で聖霊を受けた120人の弟子を導かれました。このように神は共同体を通して働かれます。
私たちはイエス・キリストに属した者です。その一方で、イエス・キリストを代表する者でもあります。イエスが私たちを買い取られたために、これ以上、「私」を立ててはいけません。私たちの肉体と情欲は主とともに十字架につけられました。これ以上、「私」を高めるために身もだえするという古い姿を現してはいけません。
聖餐を通して私たちは自分が新しい契約の中にいるという事実、教会の一員になったという事実を確認します。聖餐を通して私たちは自分の本分が霊魂の救いにあるということを覚えます。聖餐に参加する者はイエス・キリストの中にいる者です。それゆえ、その人にはキリストの体、すなわち教会の生計を担わなければならない義務があります。教会の生計を心配するのは牧師だけではありません。主の肉と血を食べた者は主に属したので、この世を恐れないで、天で受ける報いと神への愛を考えなければなりません。
「私」ではなく、「私たち」を考えよう
私たちは主の所有物です。今、私たちはこの世で「私」のために闘争していたときの態度を下ろさなければなりません。主は弟子たちと晩餐をするときに、自分の成功だけを考えていたイスカリオテ・ユダを去らせました。そのことを忘れなかった弟子たちは主と最後に晩餐を分かち合ったそのときを考え、自分を犠牲にして他の霊魂を救う生涯を送りました。聖餐に参加する者は霊魂の救いに対する欲をもたなければなりません。そして、その聖なる働きのために自分を新しい戒めに適した人格に変えなければなりません。また、周りにいる聖徒がそのような変化を体験することができるように助けなければなりません。
コリント人への手紙第一11章でパウロが聖餐について説明した内容の前後には、教会の中で分派があってはならないという内容が出て来ます。教会で党派を作ったり、自分の有益のために教会を利用しようとしたりする者が聖餐に参加するのは自分の罪を食べて飲むことと同じです。聖餐に参加する者であれば、少なくとも教会の有益のために自分を下ろすことができなければなりません。主は弟子たちに聖餐を命じるときに「あなたがた」といわれました。教会は「私」ではなく、「私たち」であると強調されたのです。
聖餐をする者は何よりも主に向けられた感謝に満たされなければなりません。また、自分を捨てて、他の人を先に考える配慮に満たされなければなりません。この世でも「団体や国がひとつに団結しなければ、滅びる。」というのが常識です。ましてや主の体である教会が団結しなければ、主がどのようにして働かれるでしょうか? そのようになれば、私たちそれぞれが神の助けを受けることも難しくなるでしょう。真実で切実な心霊によって聖餐に臨み、それによって教会を主が喜ばれる教会にしなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 06. 05.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私が生涯、文章を書きながら感じるのは韓国語ができることに感謝するという点である。韓国語はさまざまな表現が可能であり、また、深さや高さ、重さをよく現すことができる科学的な言語であるという。私は誰よりも韓国語を多く使っているが、常に韓国語をすべて使い切ることができていないと考えている。
ある大学生が私に手紙を送って来たが、その文章はとても下手であった。私はその大学生が英語や他の外国語は上手なのかもしれないとも考えたが、「韓国語がもう少し上手であればよかったのに。」と残念に感じた。私が英語や他の外国語が上手ではないにもかかわらず、韓国語さえも上手ではないというのは非常に恥ずかしいことである。神の御言葉は神の考えと御心をそのまま伝えなければならないために、韓国人は韓国語が上手でなければならない。韓国語の実力や文章の力がないのであれば、決して神の御心を完全に現すことができないし、それゆえ、伝えることもできない。
生涯、文章を読んだり書いたりするのであれば、脳が活発に活動し、決して認知症にかからないという。読むことや書くことを忘れてしまった者は認知症にかかる確率が高いという研究結果もある。しかし、イエス・キリストの人は神の御言葉は読むことも、書くこともできるためにそのような心配はする必要がない。それゆえ、御言葉をよく聞き、聞いたことを他の人に伝えることによって脳の活動が活性化される。しかし、聞くことができないのであれば、話すことができなくなるし、聞いたとしても話さないのであれば、聞いたことを忘れてしまう。そして、結局、その効果はなくなる。
年を取れば、声をよく聞くことができない。はっきりと聞くことができないために突飛なことをいうようになり、それによって他の人から非難を受けるようになる。これらはすべて病気の症状なのかもしれない。文章は幼いとき、すなわち小中高生のときにしっかりと学ばなければならない。韓国語は道端やどこであってもすぐに聞くことができるために、熱心に学ばなかったとしても上手になると考えるのであれば、それは愚かな考えである。
私は老いて「幼いときに何よりも国語をよく学んでおけばよかったのに。」という後悔を捨てることができない。学生は熱心に文章を読み、書き、また、学んで、何よりも韓国語が上手になることを願う。すべての知識は一時的に維持されるものであるが、言語は死ぬ瞬間まで続く、自分の人格であり、精神であり、心であり、知識であり、感情であるし、また、神と交わる大きな霊感となる。
年を取った者は説教をよく聞き、聞いたことを家族や他の人に話して伝え、自分を認知症から遠ざけなければならない。認知症にかからないためには聖書を読み、随筆や詩を書き、毎日、日記を書くのがいい。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室