
神の子となった霊魂
(ヨハネの福音書 1:1~18)
神は
ただおひとりでおられる
その方が
永遠の前から御子とともに自らおられたし、
御子によって御子のために万物が創造された(ヨハネ1:1~3)
これを知らせる方は
聖霊でおられるが、真理の霊でおられる(ヨハネ16:13~14)
真理は御言葉である(ヨハネ14:6)
御言葉は光であり、いのちである
その名はイエスである
イエスの名をもった者は
神の子とされる権勢を得たし、(ヨハネ1:12)
父なる神の栄光を見る(ヨハネ1:14)
神の子は一等国民である
この大きな愛を初めに受けたが、
これが信仰である(黙1:4)
信仰は宗教ではない
宗教や倫理や道徳によっては
立派な人間となることはできたとしても
神の子となる栄光を得ることはできない
初めの愛を捨てなければ、永遠に生きる
◎一等国民となろう
イエスの名を迎え入れて永遠に生きよう
その名が光となって、明るく生きよう
◎永遠な初めの愛を受けたので、
神をまことに愛して、
その戒め通りに隣人を愛そう
◎一等国民という霊感をもって
神の子の権勢を享受し、
主に従おう
※私たちは一等国民である
天の市民である
神の子である
神の子となった霊魂 (ヨハネの福音書 1:1~18)
神の子
神はただひとりでおられます。その方は天がある前からひとりでおられる方です。その方が私たちに自分を現してくださいました。私たちが神を知るようになったのは自分が努力したためではなく、神が施してくださったものを受け入れたためです。神が施してくださったものを受け入れる方法は従順です。信仰をもつのも一種の従順です。
私たちは本来、神の敵でしたが、信仰を通して今は神の子となりました。神の子はこの世の人々と同じであってはいけません。神を知らない者が求めるものはそれがどんなにすばらしく見えたとしても結局、肉体の情欲に過ぎません。神の子であれば、過去の生涯から脱け出して、神の国と義を求める生涯を送らなければなりません。
神の子としてこの世を生きてみると、迫害を受けないわけにはいきません。それにもかかわらず、私たちが揺れ動かないのは信仰をもっているためです。イエスも同じでした。その方は公生涯をはじめたのちに多くの迫害を受けられましたが、最後まで倒れませんでした。その方に信仰があったためです。イエスが悪霊を追い出したときに、ある人はイエスが悪霊どものかしらの力によって悪霊を追い出していると攻撃しました。しかし、その方は「悪霊を追い出す働きは私が死ぬ日までやめることができない働きである。」といわれました。その方は十字架につけられる3日前に「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。」(ルカ13:32)といわれました。
神の御子を迫害したこの世が神の子となった私たちを迫害するというのはおかしなことではありません(ヨハネ15:18)。パウロはイエスを信じる者を迫害したときに多くの人から称賛を受けました。しかし、彼がイエス・キリストを信じて変えられると、迫害と死の脅威が彼をつきまといました。他の弟子たちも同じでした。しかし、私たちがはっきりと知らなければならないのは彼らには天で享受する栄光が約束されているということです(使7:55~56)。
私たちの父なる神
イエスの名を受け入れた者には神の子とされる特権があります(ヨハネ1:12)。神の子として享受する特権とは何でしょうか? 私たちがこの地にいる間に、それは霊感として現れます。神の子には霊感があります。私たちが神の働きを担うことができるのは霊感があるためです。霊感がなければ、神の働きを担うことができません。霊感がある者が働いた結果と霊感がない者が働いた結果は対極にあります。私たちが神の子となったというのは宗教的な教理を受け入れたということではありません。霊感は私たちの霊魂にはっきりとした変化をもたらします。霊感がない者がしたことは結果もなく消えてしまいますが、霊感がある者が成就したことは時間が流れたとしても変わることがありません。また、神はそれを通して続けて働かれます。
神の子は神を呼ぶときに「私たちの父」といいます(マタイ6:9)。神はただ「私」の父ではなく、「私たち」の父でおられます。これは「それぞれ個人が神の愛を受けなければならない。」という意味であるのと同時に、「神の子となった者は誰でも他の人を考えなければならない。」という意味です。教会はひとりによってなされるわけではありません。教会はさまざまな人々が集まって有機的に協力することによって存在することができます。
人間の肉体の中にはあらゆる細菌があります。その中には人体に害となるものもありますが、必ずなければならないものもあります。ある人は病気を治すために薬を飲みますが、その薬が害となる細菌だけではなく、有益となる細菌まで殺してしまい、体に予期せぬ問題を引き起こすこともあります。神を「私たちの父」と呼ぶ者は他の人との調和や協力を考えなければなりません。考えや性格が互いに異なる人々が集まっていたとしても、隙を作ることなく、ひとつにならなければなりません。悪魔の働きは離間することです。教会が離間されていくつかに分かれてしまうのを最も喜ぶのは悪魔です。
神は教会に関心をもって教会の働きをともにする者を愛されます。イスカリオテ・ユダが死ぬと、使徒たちは本来、12人であった弟子の数を満たすためにくじを引きました。そのとき、候補者となる条件は「イエスがバプテスマを受けるときから最後に天に上られるときまで、主のそばを離れないで常にともにいた者」でした(使1:15~26)。普段は教会の働きに関心をもたなかった者が急いで神の助けを求めたとしても神はそれを自分の働きと考えられません。神を「私たちの父」と呼ぶためには「私たち」が失われてはいけません。
子の霊感を失ってはいけない
神が私たちに御子を遣わしてくださったのは私たちを愛してくださったためです(ヨハネ3:16)。この地で生まれた者は誰でも親の愛を受けます。その愛は宇宙が造られたのちにはじまった愛です。その一方で、神の愛は初めの前からあった愛、すなわち「初めの愛」です。私たちは神から受けたその愛を捨ててはいけません。長い間、信仰生活をしてきた者の中には、心の中で神に対する愛が冷めてしまい、信仰生活を一種の文化生活のように扱う者もいます。主は私たちに「初めの愛」を捨ててはいけないと警告しておられます(黙2:2~5)。
神の愛を受けるためには信仰がなければなりません。信仰は神の子だけが享受することができる霊感をもたらします。私たちが最後まで失ってはいけないものは子の霊感です。霊感は呼吸のようなものであるために、一瞬でも止まってはいけません。呼吸が止まってしまうと、脳に酸素が供給されないで、致命的な結果をもたらすこともあります。心臓がどんなに活発に動いていたとしても脳が酸素の供給を受けることができないでその機能を失ってしまうのであれば、結局、脳死と判定されてしまいます。木の枝は根から上がってくる水の供給を受けることができないのであれば、結局、枯れてしまいますし、二度と生気を回復することができなくなります。このように枯れた枝とならないためには常に霊感をもっていなければなりません。
神の子になければならない霊感をもっていてこそ、神の国の一流市民となることができます。子の霊感をもっている者が悪霊を追い出すことができますし、迫害に耐えることができますし、「私」を下ろして「私たち」の有益を求めることができます。私たちは神を「私たちの父」と呼ぶ神の子です。常に目を覚まして、霊感が遮られないようにしなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 06. 12.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
誰かが私に「80年間、生きてきたこの世はどのようなところですか?」と尋ねるのであれば、私は悩むまでもなく、「悲しみにあふれたところです。」という。私はこのように悲しみにあふれたこの世を生きてきた。それゆえ、この世に対する未練も、懐かしさもない。私に天の望みがなかったのであれば、私は厭世主義者となったであろう。しかし、私はこの世を経て高い神の国に行くという望みに満ちている。
夢のようなこの世のことを再び考えるのであれば、私の目から涙が乾くことはない。しかし、神の国は涙もない、幸せな霊魂の国である。私は神の国のために準備してきたし、その国を望んできた。私たちの救い主でおられるイエスがこの世に来て、悲しみを味わって、涙を流された。この世には喜びも幸せもない。ただ悩みと労苦があるだけである。
私にも健康で丈夫な体をもっていたときがあった。そのときは恐ろしいものがなかった。大変だったとしても力を尽くして開拓したし、教会のリバイバルのために力を尽くしてきた。苦しいと考える時間もなかったし、悲しいと考える時間もなかった。しかし、その勇気がすべてなくなると、この世はまことにむなしいということを悟った。以前、私が愛した者は目の前におらず、見慣れない者だけがいる。この世であとどれだけ生きるからといってそのようにしたのか・・・私は非常に足りない人間であった。「私が彼らにとって十分な者であったのであれば、このようなことはなかったのに。」と今は後悔している。
私は第二の人生を送ろうとする。私が役に立たないのであれば、この世は私を捨てるであろう。そのようにならないために命が尽きる瞬間まで力を尽くさなければならない。しかし、どうすればいいのだろうか? 私はすでにすべての肉体の望みを捨てたし、永遠の望みだけが残っている。私を悲しませない方はただひとり、イエス・キリストでおられる。
毎日が退屈であり、せわしい。もう一冊、本を書こうとしても、肉体の力がないためにまことに恐ろしい。どのようにしてはじめるのか、必ずしなければならないのかをまだ決めることができていない。無知であったときもあったが、ただ聖霊によって働こうとしてきた。非常にさびしかったときもあったが、主を頼ってきた。感謝すべきことに、聖徒が私を忘れないで助けてくれているし、私は最後にしなければならないことを目の前に置いている。
祈ったことすべてがなされることを願う。教会がリバイバルすることを願う。今は私の体が老いて、ひとりで走るには力が足りない。それゆえ、私とともにしてくれる聖徒の協力を願う。すべての聖徒が証しをもつのであれば、この世を驚かせることができる。神が期待をもって私たちに遣わしてくださったイエスとイエスの血、聖霊と力によって働くことを願う。私たちすべてがこの悲しみにあふれたこの世に勝利することを願う。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室