
あなたは私を愛しますか
(ヨハネの福音書 21:15~17)
神は
愛でおられる
その方が
この世に真理を知らせるために(ヨハネ14:6)
イエス・キリストを遣わされたが、その方こそ真理でおられる
主イエスが命じられた新しい戒めは
「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」というものである(ヨハネ13:34)
互いに愛し合うのが主を愛することである
主が
「あなたは私を愛しますか?」と尋ねられるときに、
まことの信仰の告白をすることができなければならない
主を愛さない者は
神を愛さない者である
主を愛する者は
隣人をまことに愛する(Ⅰヨハネ4:18)
隣人を愛するというのは
霊魂を救い、教え、養育し、それによってまことの聖徒にするということである
言い訳をして働かないのは
主イエスを裏切る行為である
謙遜に従って愛さなければならない
聖霊はこれを監視される
◎イエスを愛するのであれば、
イエスの小羊を飼いなさい
霊魂を救いなさい
◎イエスをまことに愛するのであれば、
聖徒を失望させないで、
愛して養育しなければならない
◎イエスをまことに愛するのであれば、
主の羊を飼いなさい
これが
主の戒めである
※信仰は真理である
偽りがない、まことのものである
ただ愛だけである
あなたは私を愛しますか (ヨハネの福音書 21:15~17)
神の愛を受けた私たち
神は愛でおられます(Ⅰヨハネ4:8)。愛は目に見えませんが、はっきりと存在します。神はこの世のすべての人を愛されましたが、神の愛を受ける者は極めて少ないです。これは神の愛が目に見えないためです。私たちは神の愛を受けてその愛の中に入って来た者です。この世は私たちを「この世の多くの宗教の中からキリスト教を選んだ者」と見ますが、私たちは宗教人ではなく、神の愛を受けた者です。
クモの中には生まれたばかりの子どもに自分の体を餌として与えるクモがいます。子どもが母親の体を食べて成長したときには母親はすでに消えてなくなっています。その子どもは母親を見たことがありませんが、母親の愛を受けなかったわけではありません。今日、多くの人が親の愛を悟ることができないで、親を恨みます。しかし、親がその人を愛さなかったのではなく、その人が親の愛を悟ることができなかっただけです。親は子どものために自分を犠牲にし、愛をもって養育します。これと同じように、神は私たちを愛してくださいます。その愛が目に見えないという理由によってその愛を無視してはいけません。
これからは新しい戒めを守って神を愛そう
アダムは盗みや殺人を犯しませんでした。彼はただ善悪を知る木の実を食べただけでした。しかし、彼が行ったことによって、人類は地獄に行くようになりました。これは「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)という神の御言葉が戒めであったためです。神がそのように語られた以上、戒めを犯した人間は地獄に行くしかなくなりました。ところが、イエス・キリストが人間の罪の価を代わりに払われました。クモが子どもに自分の体を差し出すように、私たちがその方の名を知る前にその方が私たちのために自分の体を差し出してくださり、それによって私たちに向けられた神の愛を現してくださいました。
以前、私たちが罪人であったときに、私たちには神を愛する力がありませんでした。しかし、神はその愛によって救いを受けた私たちに、神を愛することができる道を開いてくださいました。イエスは「神を愛する者は私を愛します。あなたがたが私を愛するのであれば、あなたがたは私の戒めを守るはずです。」といわれました。イエスの戒め通りに隣人を愛する者がイエスを愛する者ですし、イエスを愛する者がその方を遣わされた神を愛する者です。そのような者は神の愛を受けますし、イエスもその人を愛して自分を現されます(ヨハネ14:21)。
隣人を愛するのであれば、その人の霊魂に救いを受けさせ、さらにその人を弟子としなければなりません。これはすでに教会生活をよくしている者を教え、自分に従わせなさいという意味ではありません。そのような行動はむしろ教会の中に党派を作ります。まずは愛によって隣人に仕え、その人をイエスに導き、その霊魂を救わなければなりません。そして、その人を御言葉によって養育し、それによってその人を教会に仕える弟子としなければなりません。
神が願われる実を結ぼう
主は私たちに「光と塩になりなさい。あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」といわれました(マタイ5:13~16)。この「良い行い」とはこの世で一般的に考える概念とは少し異なります。使徒の働き10章38節は「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また、悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」といいました。聖書でいう良い行い、わざとは神の御心の通りにすることです。神の御心通りに行うときに、私たちは初めて光と塩の役割をすることができます。
主をまことに愛する者は子どものために自分の体を差し出すクモのように母性によって隣人を伝道し、弟子とします。そのようにしてみると、多くの迫害が伴います。それでも、あきらめないで、主の御心を実現しなければなりません。そのようにする者は結局、健康な木の枝のように豊かな実を得るようになります。その反面、最後の日に実がない枯れた枝として現れる者は消えることがない火に投げ入れられるようになります。
教会が大型化するのを批判的な視点から見る者が多いです。実際に牧師の立場からは教会員が多くなるほど、牧会が難しくなります。それにもかかわらず、牧師がさらに多くの霊魂を集めるために努力するのは主の戒めを守るためです。主の羊を飼い、養育し、牧するのが主をまことに愛する方法です。私たちは流行に従う者ではありません。むしろ人々を従わせなければなりません。そのためにはまず私たち自身が隣人を愛することにおいて人々の模範とならなければなりません。
隣人を愛しなさいという主の戒めを守って、多くの実を結ぶ枝とならなければなりません。主は私たちに「あなたがたの罪は私が担ったので、あなたがたは新しい戒めを守りなさい。」といわれます。私たちの中に臨まれた聖霊が私たちに思い出させ、語らせる真理は主の新しい戒めです。神に祈りながらも応答を受けることができないのは新しい戒めを守らないためです。信仰生活をしながらパリサイ人のように自分だけが聖くなればいいと考える者には災いがあります。まことに主を愛するのであれば、新しい戒めを守って主の羊を飼わなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 06. 26.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私はこの世を生きる間に多くのことを学んできたし、まことに多くの愛を受けてきた。人間を愛する愛と尊敬と慰めを多く受けてきた。私を迫害する者もいたが、彼らは私をまことに知らなかったために、そのようにしただけである。私を知る者は私を愛してくれた。これはまことの真実である。今、受けてきた愛をすべて言葉に表すことができないが、この愛は私がこの世を生きていく力であったと考える。
学ぶことができなかったときには私を無視する者もいたが、今は私を愛してくれる者がさらに多い。川が流れながらその幅を広げ、水の量を増やしていくように、私の生涯もそのように太くなった。山の間からちょろちょろと流れてきた川が大きな川となって流れるように、若いときには速かった流れが今は遅くなったとしても、その中には多くの知識や経験が積まれている。しかし、霊魂にもっていくものは何もない。誰かが大きな家を与えたとしても、また、それが私に何かの助けとなり、私に大きな栄光を与えたとしても、私に何の益があるだろうか? 私の霊魂だけがひとりで進んでいる。
どんなにこの世が私をつかんだとしても私は離れなければならない。この世に楽しいことがあったとしても、それが私を休ませることはできない。私はひとつの道だけを歩む。肉体をもっているために、後悔することも多かった。しかし、私の霊魂は幸せである。私が行かなければならないところはパラダイスである。パラダイスを経て復活の栄光を得、父なる神の家に入って行くことだけが私の望みである。
私はこの世に来てだまされたり、いじめられたりしたが、それは風が通り過ぎるようなものであった。私はそこにとどまらない。私をまことに愛してくれた聖徒の愛と配慮によって、したかったことをすることができたし、続けてしてきた。彼らは私のために可能であるのならば、目までも差し出そうとした。まことに多くの愛を受けてきた。私の霊魂がそのような愛に満ちているために、この世にはうらやましいものがない。
その愛を考えると、涙が出てくる。生まれてから親兄弟の愛も多く受けてきたが、聖徒から受けてきたその愛は神から印を押された愛である。私は神から愛けたその愛を、聖徒の心霊を通して受けてきた。世界中で私のように愛を受ける者がいるであろうか? 牧師であっても、すべてが愛を受けているわけではない。まことに愛する者同士が通じ合う愛である。私がすべての人を愛することができるのは私の霊魂に主の喜びが満ちているためである。
オォ! 愛する聖徒よ。私はこの世にいる間に受けてきたその愛を、永遠にもって主のところに行きます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室