
真心と全き信仰
(ヘブル人への手紙 10:19~25)
神は
まことに悔い改める者を切に求められる
イエス・キリストはこの世に来て、
愛多き
神の御心と品性を直接、見せられたが、
のちには罪を刑罰するために恐ろしい
公義の裁き主として再び来られる(ヨハネ5:22、27)
すでに悔い改めた者は
キリストに属した者であるために、
二度と古い人の行いや品性に
戻ってはいけないし、(エペソ4:22~24、コロサイ3:8~10)
罪の赦しを受けた者として真心と全き信仰を
持続していかなければならない(ヘブル10:22)
私たち、教会は
命を捨てて仕えられた、
主の血の実であるし、(使20:28)
私たちに預けて顧みさせた
栄光の相続財産であるために、(エペソ1:18~23)
豊かな愛をもって仕えなければならない
そのようにしてこそ、
私たちは霊的な実を結ぶことができるし、
天国を準備することができるし、
主の大きな恵みを受けることができる
◎神は
私たちがその方の品性に似ることを願われるので、
古い人の品性を捨てよう
◎教会に仕えるという本分は
神の子となった私たちに与えられた
相続財産であるということを覚えよう
◎悔い改めと感謝を休まないようにしよう
※悔い改めの心、すなわち
真心と全き信仰によって
信仰生活をしよう
真心と全き信仰 (ヘブル人への手紙 10:19~25)
神の働きを難しくするものは偽りの品性
神は真実な方でおられます。一度、語ったことはどのような代価を払ったとしても必ず成就されます。人々は状況によって言葉を変えたり自分の益のために他の人をだましたりしますが、神にはそのような姿がありません。真実さは神の品性ですし、天の御国の行動原則です。天の御国は真実でおられる神と調和をなすことができる者、すなわち神の品性に似た者だけがとどまることができます。
今、私たちが生きているこの世は偽りに満ちています。この世で生きる間、私たちは危機を免れるために、あるいは目先の益を得るために自然と他の人をだまします。幼いときからそのようなことを繰り返してきたために今はそのようなことがほとんど習慣となっています。このように正直でない習慣は周りの人々に不利益や傷を与え、彼らが享受すべき幸せを奪います。また、それだけでなく、偽りの品性は神の御心を傷つけ、神の働きに大きな困難をもたらします。
このような偽りの品性は一体、どこから来たのでしょうか? それは悪魔からです。イエスがパリサイ人から偽りの品性を発見したときに、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)といわれました。使徒パウロも神の働きを妨害する呪法師を指して「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。」(使13:10)といいました。人間は偽りの根源である悪魔の惑わしに陥って神に逆らい、悪魔の子となりました。
キリスト者はイエス・キリストによって罪の贖いを受けたために公的には罪人ではありません。しかし、不幸にも体質的には罪の習性をそのままもっています。キリスト者となったのちにも続けて神の御言葉を疑い、偽りの姿勢で人々に接します。また、これによって教会は救霊と養育の使命を担うときに多くの苦しみを受けます。罪人の習性を捨てることができない教会員によって傷ついた人々は教会を離れるようになりますし、教会は信頼を失うようになります。私たちはすでに習慣となってしまった罪の品性をそれ以上、当然なことと考えないで、改めていかなければなりません。キリスト者が古い習性を捨てて真心と全き信仰をもつときに教会は成長します。
福音を伝える者の心は真実でなければならない
へブル人への手紙10章22節にある「真心と全き信仰」は「完全な信仰の中にある真実な心」と解釈するのが正確です。神の約束を守ろうとする私たちの心は真実でなければなりません。私たちが真実な心をもたないのであれば、どんなに大きな声で「イエスは私たちの代わりに死なれました。」といったとしても、人々はその言葉を容易に信じようとしません。
神は私たちに罪をやさしく受け入れるという品性があるということを知っておられます。しかし、神は私たちがそのような古い人の品性から脱け出すことを願っておられます。詩篇は信仰人の正しい姿を知らせる本ですが、その最初に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、 罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」といいました。本来、罪人であった私たちを赦してくださった主は私たちがこれ以上、罪に陥らないことを願っておられます。主は私たちが恵みに感謝し、自分を聖い生きた供え物としてささげることを願っておられます。恵みを受けた者が担わなければならないことが多くありますが、その中で最も重要なのは福音伝道です。福音伝道において伝える者の心は非常に重要です。心は福音を運搬する器のようなものです。もしその器が真実でないのであれば、人々は結局、福音自体を信頼しなくなります。
神の恵みを受けた私たちの心は真実に変えられなければなりません。そのような人が神の愛と真実を伝えることができますし、この世で抑圧と苦しみを受けた者を救い出すことができます。教会の門をようやく叩いた者が変わることができなかったキリスト者の習性に失望して、再びこの世に戻って行くことがあってはいけません。それゆえ、キリスト者は主の心をもって主の行動を見習わなければなりません。人々に愛を施してみると、傷を受けることもあります。しかし、天国の生涯を準備するためにはそのような苦しみにも耐えなければなりません。自分の義を現したり、すぐに怒ったりしないで、恐れる心によって天国を準備しなければなりません。
神の品性に似るように訓練しよう
パウロは「あなたがたは異邦人のように行ってはいけません。あなたがたはキリストをこのようには学びませんでした。本当にあなたがたがキリストにあって教えられているのであれば、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着なさい。」と強調されました(エペソ4:17~24)。私たちの霊魂を救うことは主が成就してくださいましたが、救いを受けた私たちの心霊が変えられることは自分が努力して成就しなければなりません。
真心と全き信仰をもたなければなりません。もう一度言うと、完全な信仰の中に真実な心をもたなければなりません。主の犠牲によって完全な信仰をもつようになったために、これからは主の品性を見習って、真実な心をもたなければなりません。救いを受け、完全な信仰を得たために、これからは神と交わりながらその方の品性に似ていかなければなりません。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は変えられなければなりません。バプテスマの意味は正しい良心が神を探し求めるところにあります。バプテスマを受けた者は神の召しに応じてその心と考えが神に向かって走っていかなければなりません。
神の恵みと愛に対する感動を失わないで、毎日、悔い改めながら訓練しましょう。真心と全き信仰によって神を感動させましょう。そのようにしてこそ祈りの応答も受けることができます。神は肉体の要求を退けて神の品性に似るように努力する者とともにされます。私たちはこれ以上、自分のものではなく、主のものです。完全な信仰の中にある真実な心によって神に出て行きましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 07. 24.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
60年前、神の愛を初めて知ったときに、私は自分が生きていく道を探し出した。貧しさと無知を脱ぎ捨てることができなかった自分の状況を振り返りながら、「これは私の宿命なのであろうか?」と考えたが、そののちにひとつの特別な事実を探し出した。それは私のためにはお金を稼ぐことも勉強をすることもできなかったということであった。
私のためには何もすることができなかったという事実を探し出した。私の父がそうであったし、私もそうであった。貧しさと無知はひとつとなって私をひねり、私の足首をつかみ、何も手に入れることができないように私を縛った。貧しさと無知の深い劣等感に陥って一歩も踏み出すことができなかった。
少年家長の悲しい日々がさらに深まっていったときに、教会の鐘の音を聞き、歩みをそちらに移したために、神と出会った。その日、教会の鐘が私に聞こえてこなかったのであれば、私はその道でこの世と永遠の離別をしていたであろう。意志ではなく、無意識の中で「果たして神はおられるのであろうか? もしおられるのであれば、私が進む道を尋ねてみよう。いったい私は何者であるために、このように悲しい世を生きていかなければならないのであろうか?」と尋ねたかった。そして、最後にこの道を行こうとつぶやいた。
その日から突然、私は変わった。私は死ぬために出て行く少年ではなく、まことに死ぬために出て行く人間となった。「私が死んだので、私は生きる。」と全身を投じて信仰生活に没頭した。突然、私が変わったことに人々は驚いた。そのときから私は肉体の道を離れ、霊の道を歩みはじめた。
そのとき、初めて聖書に接しながら私の心の中に深く釘が打たれたように刻まれた御言葉があったが、それは主イエスがペテロに語られた「私に従いなさい。」という御言葉と、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7~8)という御言葉であった。それは私の生涯ですべきことと進むべき道を教えていた。
このとき、私は神本主義信仰を固めた。このときから聖書を神本主義信仰の眼鏡によって見たし、神本主義思想に立脚した証しをもって教えたり勧めたりした。それから5年後、神は再充電するように道端で私を召され、さらにそれをしっかりと固められた。それが神の意図、すなわち「ベレヤ原講」であった。
リバイバル集会を導きながら韓国キリスト教会を見たところ、神本主義信仰を探し出すことができなかった。ただ人本主義、神秘主義が満ちていた。私は学んだこともない若い伝道者であったが、このときから私だけの神本主義の伝道に邁進した。これまでの60年間、一度もこの道から逸れたことがなかった。イエスだけが私の道であり、私が信じる真理であり、私が受けたいのちである。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室