
神の働き
(ヨハネ 6:22-33)
神は
いのちの主でおられるが、
人間はいのちの窮乏という
致命的で決定的な弱点をもっている存在である
この世のどのようなものも私たちにいのちを与えることができない(Ⅰヨハネ 5:12)
それゆえ、私たちにとって
神のいのちは切実である
神がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは
すべての人間にいのちを与えるためである(ヨハネ10:10)
それゆえ、私たちが神に求めなければならないのは
肉体を「満腹にする」ような小さなものではない(ヨハネ6:26)
神の働きはいのちを与える働きであり、(ヨハネ20:31)
その方はこの世の最後の日まで
その方のいのちをもっている者を通して
継続的ないのちの働きをなさる
神は
自分の働きを私たちに預けられた(ヨハネ6:29)
キリストの教会である私たちは
感謝に満ちた心をもって全力を尽くして、
その方の働きを成就していかなければならない
これは前には不可能であった永遠のいのちの道が
ついに私たちに開かれたということを意味する(ヨハネ6:40)
○ 私たちにあるいのちを
いつも最高の喜びと考え、
感謝しよう
○強力で忠実な組織力によって協力し、
神が与えられるいのちの働きを
忠実に担っていこう
○ 愛と親切と配慮と尊重の
教会生活を熱心に学び、
神の働きを大きく成功させる教会となろう
※ このようにイエスを食べて飲んで
永遠のいのちをなそう
神の働き (ヨハネ 6:22-33)
私たちのいのちはイエスの中に入って行ってその方のいのちによって生きること
私たちにとって最も重要なものがあります。それはいのちです。いのちは私たちがイエス・キリストを信じることによってもつようになるものですが、私たちがもっているものをすべて失ったとしても譲ることができないほど貴いものです。いのちは実際であり、それ自体が一種の力であるために、それに逆行する力が作用したとしても決してなくなることがありません。それゆえ、どのようなものもそのいのちをもっている存在をなくすことができません。
頭が切断された昆虫や動物の体が続けて動く場合がありますが、そのとき、それらに命があるということはできません。これと同じように、私たちは過去にいのちがない者でした。肉体に命があるということと永遠のいのちがあるということは異なる問題です。肉体が息を引き取ったとしても私たちの存在自体は消滅しないで次の世界に行かなければなりません。次の世界に行くための門を通過するためにはいのちがなければなりませんが、そのいのちを私たちに提供することができる方はただ神だけでおられます。
人間は創造されるときにいのちを受けましたが、罪を犯すことによってそのいのちを失いました。今、キリストの中にいる者がもっているいのちは神が人間という被造物に与えたいのちとは異なるものです。キリスト者がもっているいのちは神のいのちです(ガラテヤ2:20)。神がそのいのちを私たちそれぞれに独立的に分配されたわけではありません。私たちはすべてイエスの中に入って行ってその方のいのちによって生きているのです。それゆえ、イエスと遠ざかるというのは非常に危険なことです
神のいのちが私たちの中にあるというのは驚くべきことです。そのいのちを私たちの中に迎え入れるには私たちの存在はあまりにも卑しいです。しかし、この世のどのような存在も私たちからそのいのちを奪うことはできません。「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト•イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」というローマ人への手紙8章38~39節の御言葉は神のいのちと私たちの関係において同じように適用されます。
キリストの中にいる私たちはいのちをもった者であるという点においてこの世の人々と異なります。それゆえ、私たちは喜んで誇らなければなりません。自分をむやみに扱ったり、小さなことによって倒れたりしてはいけません。朝、起きて「イエス・キリストは私にとってどのような方であるのか?」と自問したときに、「イエス・キリストは私の救い主です!」と答えることができるでしょうか? 人生の試練や苦難に襲われたときに、イエス・キリストが自分の主人でおられるという事実によって心の平安が揺れることがないでしょうか? いのちをもった者であるのならば、「はい!」と答えることができるでしょう。私たちは通り過ぎていく多くの人とは異なり、神のいのちをもった特別な存在です。
いのちを受けたので、永遠のいのちの生涯をはじめよう
神のいのちをもっている私たちの生涯は以前と異ならなければなりません。神を求めながらも続けて肉体の有益を求める生涯にとどまっていてはいけません。イエスが私たちを救ってくださったのは肉体に幸いを得させるためではなく、いのちを得させ、また、そのいのちによって永遠のいのちを得させるためです。新しい皮袋に新しいぶどう酒を入れるように、新しいいのちには新しい生涯を入れなければなりません。
私たちがはっきりと知らなければならないのは救い自体が永遠のいのちを意味するわけではないという点です。イエスが「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19:29)といわれましたが、信じる者でなければ、どのようにしてイエスの名のために家と家族をあきらめることができるでしょうか? 主が永遠のいのちを約束して導かれた者はすでに信仰をもって救いを得た者です。また、主は「私が空腹であったとき、渇いていたとき、裸であったとき、病気になったときに、私を顧みた者は永遠のいのちに入るようになる。また、顧みなかった者は永遠の刑罰に入るようになる。」といわれました(マタイ25:41~46)。この御言葉を通して知ることができるのは「信仰をもつというのは永遠のいのちを得ることとは別の事実である。」という点です。
ヨハネの福音書6章27節は「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」といいました。永遠のいのちを得るためには永遠のいのちに至る食物のために働かなければなりません。ヨハネの福音書12章25節は「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」といいましたし、ローマ人への手紙2章6~7節は「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、」といいました。また、ガラテヤ人への手紙6章8~9節も「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」といいました。このようになくなるものに執着しないで栄光を求め、聖なる働きに力を尽くしてこそ、永遠のいのちを得ることができるのです。
ユダの手紙21節は「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」といいました。神の愛の中に自分自身を保つというのは時間がかかることです。また、永遠のいのちに至るためには神が施される憐れみを受けなければなりませんが、これも待たなければならないことです。それゆえ、救いは終着駅ではありません。永遠のいのちに至るまでは時間が必要であり、そのときまで信仰を守り、神の憐れみを待たなければなりません。
それなのに主日献金をささげることを惜しんだり、礼拝を終えてすぐにこの世の友人に会いに行ったりするのであれば、どうなるでしょうか? 教会で奉仕し、聖徒に仕えることに力を尽くすというのは愚かなことではありません。神のいのちをもった者であるのならば、当然にそのような生涯を送らなければなりません。救いを受けたからといって、永遠のいのちを受けたと考えてはいけません。いのちを得たのであれば、これからは永遠のいのちのために聖なる働きをしながら、憐れみを待たなければなりません。
永遠のいのちの道はいのちに仕えること
私たちが神の働きをするときに、神は私たちの霊魂と生涯と家庭を助けられます。私たちが神の教会のために働くのであれば、神と私たちの関係は深まります。神は正確な方でおられます。それゆえ、教会にエネルギーを使うことや気を遣うことを惜しんだり、この世での生涯と状況によって悩んだりしてはいけません。私たちの生涯を通して神を喜ばせなければなりません。
以前、私たちはとうてい神に永遠のいのちを求めることもできない存在、みずぼらしく永遠のいのちを渇望していただけの存在でした。そのような私たちに永遠のいのちの道がはっきりと開かれました。それなのにどうして私たちが主とともに歩まないことがあるでしょうか? 教会は主のいのちを伝える者の集まりです。教会の働きは人々に神のいのちを伝えて霊魂を救うことですが、これこそが永遠のいのちの道です。
この働きは教会がひとつの組織となって戦略的にしなければなりません。個人的にしてはよくなされませんし、そのようにするのは正しい方法でもありません。ローマ人への手紙12章5節は私たちがキリストの中でひとつの体であり、互いに器官であるといっていますが、英語版を参考すると、私たちがひとつの体となった状態をさらに正確に理解することができます。“so in Christ, we who are many form one body, and each member belongs to all the others.” 私たちがキリストの中でひとつの体となったのはひとつの器官が全体に属してひとつの体となったというのです。それゆえ、主の教会はすべての血管が通ってつながっているような姿とならなければなりません。
神のいのちを伝える者としての人格を備えよう
私たちは今、永遠のいのちの道を歩んでいます。神のいのちをリアルタイムに体験しています。これはどんなに驚くべき体験でしょうか? また、私たちは神を弁護する者として召されました。神を弁護する身分にはそれにふさわしい人格的な土台が必要です。霊感も人格に盛り込み、働きも人格に盛り込んで実行するためです。
教会に預けられた使命を担うためには教会全体が自分を差し出さなければなりません。また、互いに配慮しなければなりません。教会の中で利己的な者がひとりでもいるのであれば、教会は多くの障害と困難を経験します。ある人は他の人に配慮したいのにその方法がよくわからないといいます。他の人に配慮しない文化の中で育ってきた者は他の人に配慮するというのがとても難しく感じるでしょう。しかし、誰でも片思いの人の前では無礼に行ったり、失敗したりしないように注意を払うでしょう。聖徒に対する配慮もそのようでなければなりません。
キリスト者は以前、この世で送ってきた生涯とはまったく異なる生涯を送らなければなりません。教会の中でも外でも人々に配慮し、限りない愛情を注がなければなりません。これはキリストの命令です。もしこの世で多くの困難と苦痛を経験しているためにそのような生涯を送るのがむずかしいのであれば、まず教会の中でだけでも互いに仕えなればなりません。これは自動的になされるわけではないために、必ず訓練と練習を通して習慣として確立させなければなりません。悪のパン種はよく広がっていくということを忘れないで、教会の中で配慮の訓練と努力を怠らないようにしなければなりません。
例としてひとつの証しを紹介します。「私がある霊魂によく仕えましたが、その霊魂はしばらくしてから教会が自分を愛してくれるという確信をもつようになりました。その霊魂は教会に出て来るようになり、今は率先して教会に仕えています。今は教会生活を私よりもよくしています。私はその霊魂を応援します。」私たちがこのような証しをするようになるときに、主は私たちに「この世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい! 永遠に生きなさい!」といわれます。
私たちはこの世と調子を合わせてはいけませんし、心の一新によって神が私たちを通して成就しようとする働きを成功させなければなりません。イエスが5つのパンと2匹の魚のしるしを行ったのちに、多くの人が神に従いましたが、彼らの多くが主を失望させました。主が天のいのちを与えようとしてこの地に来られたにもかかわらず、人々は肉体の利益を得ようとして神に従ったためです。イエスは彼らに「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。私は天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるのであれば、永遠に生きます。」といわれました。主の御心は私たちが永遠のいのちを得るところにあります。私たちはこれを成就するためにいのちを貴く考え、私たちに預けられた働きを神の力によって担わなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 08. 28.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
神学は科学であるが、信仰は霊感である。人の理性は客観的な神学を頼るが、私たちの霊魂はただ神の御心を絶対的に頼る。
私は生涯、神学をしてきた者であり、また、神学校を設立して学長としても長い間、働いてきた者である。それゆえ、誰よりも神学を尊重してきた。私は説教者、牧会者、伝道者として一貫性をもって生きてきた。説教と牧会と伝道は神学の範疇に属するものではなく、ただ神が命じられる通りにひとつの道を行く霊感によってだけすることができるものである。霊感はただ神から出て来る聖霊によってもつことができる。
私は60年間、ただ霊感を頼ってきた。霊感は感情ではない。それゆえ、神秘主義を排撃する。霊感はただ聖霊の働きであるために、聖霊の働きを聖書によって証明しなければならない。また、その証しとしてしるしが現れなければならないし、そのしるしは霊的でなければならない。それゆえ、イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)といわれた。
霊感がない信仰は信念に過ぎない。信念は霊魂を救うことができない。霊感がない祈りは虚空に消える音に過ぎない。それで、イエスは「聖霊を頼って、イエスの名にひざまずいて祈りなさい。」といわれた。私は生涯、霊感を頼って信仰生活をしてきた。霊感によって牧会し、説教してきた。伝道するときにもただ霊感を頼ってきた。今はその意志も霊感によって支えられている。
霊感は父なる神との限りない苦しみである。私に何の欲があるだろうか? この世に対する愛着もすでに消えてしまった。そのように私の心はその方が備えてくださった国だけを慕い求める。私の霊魂が幸せであるのは私が生涯、霊感を頼って生きてきたためである。今も一日中、霊感を頼って呼吸する。生涯、人々が一般的にもっているスマートフォンももったことがないし、多くの情報があふれているインターネットも使ったことがない。まるでこの世の中で耳をふさぎ、門を閉ざして生きているかのように見えるかもしれないが、私には霊感によって生きる喜びが満ちあふれる。生涯、コンピューターで文章を書いたことも一度もない。これは実際に無知であり、原始的であるが、私はこの世の道具やいのちがないものを使わないで、ただ霊魂に満ちあふれる霊感によってだけ文章を書いている。
私の時間がどれくらい残っているのであろうか? それは私と関係がない。私は私の命が残っているときに必ず応答を受けようとするその働きについて祈りながら、霊感を頼る。私はもどかしい年寄りであるが、私の霊感は若さに満ちている。肉体は力を失ったとしても霊魂には力がある。教会員が私の霊魂の喜びであり、勇気である。私たちすべてが神から与えられた霊感によって信仰を守り、職分を守っていくことを願う。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室