井戸のかたわらに来られたイエス
(ヨハネの福音書4:1~14)
神は
自存者でおられる
その方が
御子をこの世に遣わされたのは
この世に恵みを受けさせるためであった(Ⅱコリント13:13)
この世はその方のものであるが、(詩篇100:3)
この世はその方を知らない(ヨハネ1:10)
その方が井戸のかたわらに来て水を求められる
水は造物主のものであるが、(創1:7)
人間がしばらくの間、所有するだけである
イエスがこの世におられるが、この世は認めない
その方が水を求められるが、(ヨハネ4:7)
この世は環境を言い訳として拒んでいる(ヨハネ4:11)
私たちが主にささげるものはすべて水のようなものである
私たちの体も財物も時間もすべて水のようなものである
私たちが主の要求を知ったのであれば、
さらに大きなものをその方に求めたはずである
主の肉と血は永遠のいのちを約束する(ヨハネ6:53~55)
私たちを訪ねて来られた主から顔をそむけてはいけない
聖霊が私たちの心に入って来られたように、
主イエスが私たちの中に入って来ておられる(Ⅰヨハネ4:13)
○この世はサマリヤであり、
教会はその方が訪ねて来られた井戸である
イエスが教会に何を求められるのであろうか
○聖徒の家庭はその方が訪ねて来られた井戸である
主イエスが水を求められる
聖徒よ、ためらってはいけない
○人はそれぞれ主が訪ねて来られた井戸である
主イエスを失望させてはいけない
その方が永遠のいのちへの水を与えられる
※主が「喉が渇いた」と叫んでおられる
耳をふさいではいけない
その方に水を与えた者は必ず報いを受ける(マタイ25:35)
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 12. 18.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
80歳になって、これまでの歳月を振り返ってみると、まことに険しい世を生きてきたと感じる。私がこの世に生まれてきたときは日本によって統治されていた時代であった。日本が韓国人に最も圧迫を加えていたときであったために、言葉にならないほど生きていくのが大変であった。箸や取っ手のような金属はすべて供出され、土の器に汁を入れて食べていたが、それを食べるときには土の匂いがひどかった。貧しい家庭で学んだこともない親から生まれ、アイスクリームひとつもまともに買って食べることができなかった。今日、流行している言葉を使うのであれば、私は土のスプーンをもって生まれた者である。
どのようにして昔のことをすべて覚えているのかと尋ねる者もいるが、そのような苦痛は骨に刻まれている体験であるために、忘れることができない。最下層の人生、幼い頃からの下働き、靴磨き、剃刀の商売、火打ち石の商売、日雇い労働者など、人間の低いところはすべて這いずりまわって苦しんだ。夜が明ければ、目の前には空だけが見え、流れる雲だけが私の夢を案内するようであった。家もなかったために行くところもなく、死ぬほどの力を尽くしてもがいた。
日本の統治から解放されたときに、一人当たりの国民所得は20ドルであった。そのような中で朝鮮戦争が起こり、3年1ヶ月間、国を荒らしたが、その被害は言葉にならないほどであった。5.16軍事クーデターが起こったときの一人当たりの国民所得は80ドルであった。今日、3万ドル時代を生きている者も苦しいとうめいているが、過去と比較するのであれば、その時代がどんなに大変であったのかを理解するであろう。生きるためにできないことがあるだろうか。そのような自尊心などは大きな贅沢であった。
今日、生活が大変であるということは理解するが、死ぬほどの力を尽くそうという意志がない。柿の木の下で熟した柿が落ちてくることだけを待つ愚かな貴族のように、飢えて死んでいっている。今日、生まれてくる者のほとんどは銀のスプーン、金のスプーンをもって生まれてくるが、自らその幸せを投げ出しているのではないだろうか。
私たちがイエスを知るのであれば、どのように忍耐しなければならないのかを悟るようになる。怠けてはいけない。恥ずかしいと考えてはいけない。そして、偽ってはいけない。だましてはいけない。そのようにするのであれば、この世を生きていく望みは残っている。死ぬほどの力を尽くして、貴賎を問わないで立ち上がることを願う。
私は生涯、昔のことを隠さないで、むしろそのときのことを考え、さらに気を引き締める。神が機会を与えてくださったと信じるために、死ぬほど忠誠を尽くしながらその機会を逃さないようにする。偽る者やだます者は自分を呪うようなものであるために、注意しなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室