
イエスの体となった教会
(エペソ人への手紙1:15~23)
神は
唯一なる神でおられる
その方は
聖三位一体でおられ、
誰もその方を見ることができないが、(ヨハネ1:18)
自分の本体のかたちを見せ、
また、自分の霊を愛する者の心に
与えられたが、すなわち御言葉である(ヨハネ6:63)
御言葉は真理であるし、(ヨハネ16:13)
聖霊は真理の御霊でおられる
宇宙とその中にある万物の中で自らできたものはないが、
神だけが自らおられる唯一なる方である
神の御子は創造の根本でおられるし、(ヨハネ1:2)
唯一なる人でおられる
私たちはその方を耳で聞き、目で見、心で信じ、
それぞれの霊魂に迎え入れるが、これはまことの体験である(ヨハネ14:17)
このような価値がある聖徒を呼び集めて、
イエス・キリストの本体のかたちとされたので、
教会はこの世が否認することができない確実な証しである
教会はその方の体であり、人はそれぞれその方の体の器官である
イエス・キリストは教会のかしらでおられる(エペソ1:22~23)
○イエスの全能の力の働きによって
信じる者に施される大きな力を通して
完全な体験の信仰をもたなければならない
○教会はその方の復活の信仰に満たされ、
神の右の座におられる主を愛し、
イエスの名に完全にひざまずく
○「万物はその方のものなので、その方に服従して
その方のものにならなければならない」ということを信じて従うのが
イエス・キリストの教会である
※教会はその方が創造された実である
教会を愛してその方の実となるのが
まことの信仰であり、救いを受けた霊魂である
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 1. 22.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私が真理を悟ってイエスの証人となったときに、「主を全身全霊で愛します。私の霊魂を愛してください。」と祈った。「祝福してください。」、あるいは「祝福を与えてください。」という祈りよりも「私の霊魂を愛してください。」という祈りを多くしてきた。
「祝福してください。」というのは「一度に大きなものを与えてください。」ということである。しかし、「私の霊魂を愛してください。」というのは一度だけではなく、母性のように永遠なものである。私はその愛を受けたかった。「祝福がなかったとしても、また、貧しかったとしても、精神的に肉体的に苦痛であったとしても、昼夜を問わず、永遠に変わることなく神のまことの愛を受けるのであれば、すべての時間と日々はその愛の中でまことに幸せである。」と信じたためである。
信仰があるのかを知るというのはその方の愛を受けているのかを知るということである。その方の愛を受けているというのはその方をまことに愛しているということである。それを悟っていなければならない。
人々が見ているところでは真実なように見えたとしても見ていないところでは偽る者を多く見てきた。幼い頃、他の人の家で下僕として働いたときにも、また、他の家を助けるために共同して野良仕事をしたときにも、私は死ぬほどの力を尽くして、自分に任されたことを担った。他の人は適当に働いたが、幼い私は彼らのようにはしなかった。私が働いた畑は雑草の根まできれいに抜かれ、土は平らになった。
そのとき、他の家で下僕をしていた人が私に「そんなに働いたら、体をこわすぞ。主人が見ているときには熱心に働いたとしても、主人がいないときには適当に働きなさい。他の人のことも考えなさい。」と叱った。のちにその人が働く姿をのぞき見た。歌いながら適当に働いた跡が見えた。数日後、土の中に埋もれていた雑草が再び頭をもたげてこの世に出て来た。しかし、私が雑草を抜いた畑は依然として雑草が出て来なかった。
主の働き手となったのちにはどのような働き手になるのかと常に考えてきた。牧会をするときにも、人々に認めてもらうことを願わないで、ただ全身全霊で主を愛する牧会をしてきた。教会は主の体である。私の霊の眼の前には常に主の姿が見えた。それゆえ、主の体である教会を自分の体のように愛してきた。教会は主の体であるし、その器官は教会員である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室