イエスは神でおられるⅢ
(マルコの福音書4:35~41)
神は
自分を積極的に見せられた
その方が
肉体をもって来られたのはすべての人に
自分を現わすためであった(ヨハネ1:14)
イエスはただひとりの方でおられる
数十億人の人々の中でただひとりの方でおられる(ヨハネ17:3)
普通の目によってはその方を知ることができない(マルコ16:12~13)
信仰によって開いた霊眼によってだけその方を知る
今も
その方は私たちの中にいて自分の働きをなさる
神はどのような方でおられるのか?
全知全能であり、永遠に生きており、義でおられる
風と海が従うし、無いものを有るもののようにされる(マルコ4:39)
その方が、すなわち
神でおられる
イエスは神でおられる(ヨハネ20:28)
私たちと近くにおられるし、
脅威をもたらすこの世のすべての患難を静められる
その方はキリストでおられる
聖霊はこれを証しする助け主でおられる
○ イエスはどのような方であろうか?
神でおられる 万物を服従させる
神でおられる
○ その方が私たちを聖くされるのであれば、聖くなるし、
私たちを生かすのであれば、生きるようになって、
永遠に生きる
○ イエスを疑って、
誰であるのかといってはいけない
その方は救い主、神でおられる
※ 自分とともにおられるのに、悟ることができない者よ
悔い改めの涙なしにはその方に会うことができない
悔い改めないバプテスマによってもその方に会うことができない
イエスは神でおられるⅢ
(マルコの福音書4:35~41)
神の関心は霊魂に
神を見た者は誰もいません。それにもかかわらず、人々は神を何でもすることができる方と知り、「神が助けてくださるのであれば、幸運が訪れる。」と期待したりします。どのようなかたちであれ、信じる者も信じない者も神の権威を認めているのです。
地球上の多くの民族の中でイスラエルはとても独特です。ひとつの民族が存在するためには固有の領土がなければなりませんが、イスラエルには土地がありませんでした。アブラハム以降、カナン地域に居住していたヤコブの家族は飢饉を避けてエジプトに移住しましたが、そこにとどまった400年間、彼らは繁栄してひとつの民族をなしました。予め約束されたように、神はエジプトのパロにモーセを遣わして、「私の民を行かせなさい。彼らは荒野で私に仕える。私の民を行かせなさい。彼らは荒野で私にいけにえをささげる。私の民を行かせなさい。荒野で私のために祭りを守らせなさい。」といわれました。
100万人以上のイスラエルは神の力を受けて紅海を渡りましたし、エジプトとの縁を断ち切って荒野に出て来ました。荒野は人が生きることができない乾燥した土地です。神はそこでイスラエルを自分の民と認められました。約束の地を探して行くイスラエルの旅はそのときから約1500年間、続いています。彼らが入って行ったカナン地域にはすでにさまざまな原住民が居住していました。それゆえ、彼らがエルサレムを中心に定着するときまでどんなに多くの困難があったでしょうか? そのようにはじまったカナンの領土紛争は今も依然として続いています。
イスラエルは神が治められる神の国を慕い求めました。その国は今日のキリスト者が慕い求める永遠の国ではありませんでした。彼らが願ったのはこの地に建設される神の国でした。問題は「この地はいつか必ず消えるために、永遠な神の国を担うことができない。」というところにありました。神が計画された国は永遠な国です。その国に入って行くことができるのは土に属している肉体ではなく、霊魂です。この世はエジプトのようであるために、人々の霊魂を差し出そうとしません。しかし、神はパロに命じられたように、この世に向かって「私の民を行かせなさい!」と命じておられます。神は霊魂がいるところであるのならば、全世界のどこにでも神の国を立てようとされます。
しかし、神は御子をこの地に遣わすことによって、自分が実際に存在するということを明らかにされました。それにもかかわらず、人々はその方を知ることができませんでした。それは人々が神に対する固定観念をもっていたためでした。彼らは神が自分を現すのであれば、当然、栄光に輝き、権威ある姿をもたれるであろうと考えました。そのような理由によって彼らは自分の近くに臨まれた神を発見することができなかったのです。
イエス・キリスト、私たちの神
人々はイエスに神と等しい方としての権威を与えるどころか、その方の外見や背景だけを見てその方を無視しました。イエスがどんなに権威ある御言葉を伝えられたとしても、どんなに力を行われたとしても、彼らはイエスがナザレ出身であるという理由だけでその方を無視しました。ナザレというのは慕い求めるほどのものが何もない貧しい地域であり、預言者たちが一度も言及したことがない疎外された地域であったためです。イエスとともに十字架につけられた強盗さえも「あなたはキリストではないか? 自分と私たちを救いなさい!」といってイエスを嘲弄しました。今もこの世がイエスを見つめる視点はその強盗の立場と異なるところがありません。
その反面、もうひとりの強盗はまったく別の視点をもってイエスを見ました。すでに血を多く流して息を引き取る直前にあったイエスに向かって、彼は「あなたの御国の位に着かれるときには私を思い出してください!」と叫びました。自分と同じように十字架で無力に死んでいくイエスを見ながらも、彼はイエスの権威を尊重したのです。今日、信じる者の姿はこの強盗と同じです。イエスは今もこの世で虐待や蔑視を受けておられますし、無視や呪いの対象となっています。それにもかかわらず、信じる者はその方の権威を尊重します。これが信仰です。
神を知ることはとても重要です。多くの人が神について聞きながらも自分の哲学や理性的な思考のために神に会うことができていません。これについてコリント人への手紙第二4章3~4節は「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」といいました。イエスを見ながらもその方から神を発見することができないのであれば、その人は救いを受けることができません。それゆえ、イエスを通して神を発見することができる霊感をもたなければなりません。
神はどのような方でしょうか? 神は私たちを生かすことができる唯一の方です。人が生きていくことにおいて必要な条件として挙げるのが衣食住です。これは昔も今も同じです。着る服と食べる物と住む家を備えるのは時代を問わず、人々の最大の関心事であるということができます。しかし、考えてみてください。人が病気になって死にかけているのに、服や食べ物がその人を生かすことができるでしょうか? 死にかけている者に良い家が何の意味をもつでしょうか? どんなに良い服や食べ物や家を享受して生きていたとしても、人は結局、死ぬしかありません。
人が最も恐れるのが死です。人のすべての心配や悩みは結局、死に対する恐れに帰結します。飢えて死ぬのではないか、凍って死ぬのではないか、病気にかかって死ぬのではないか、殴られて死ぬのではないか、水に溺れて死ぬんじゃないか、車に轢かれて死ぬのではないか! 恐れというのはいつかは死ぬしかない肉体の属性です。問題は人が動員することができるどのような手段も人の肉体を生かすことができないという事実です。
私たちを生かすことができる方はただ神おひとりしかおられません。そのような意味で神は唯一の方でおられます。その方は私たちを死んだ者の中から生かす唯一の方でおられますし、私たちを永遠の刑罰から救う唯一の方でおられますし、私たちをいのちの復活に至らせる唯一の方でおられます。その唯一の方が神でおられます。偶像は肉体を死から脱け出させることができませんし、ましてや霊魂はいうまでもありません。ただその方だけが私たちの肉体だけでなく、霊魂までも永遠に生かすことができます。その方が神でおられます。
その神が2000年前にこの世に来られました。しかし、人々はその方を無視しました。その方がナザレ人であるという理由によって無視しましたし、その方が柔和でおられるという理由によって無視しましたし、その方が何も所有していないという理由によって無視しました。しかし、ただその方だけが私たちを生かすことができる唯一の方でおられます。もう一度言うと、ただイエスだけが私たちの神でおられます。その方は私たちに現れるときに私たちを生かすことができる救い主、すなわちキリストとして現れました。それゆえ、私たちの唯一の神はイエス・キリストでおられます。
イエス・キリストは2000年前に死んでよみがえって天に上り、今は聖霊として私たちに臨んでおられます。イエスは弟子たちに「私が去って行くことはあなたがたにとって益なのです。」といわれました(ヨハネ16:7)。その方が去って行くことがどうして有益なのでしょうか? もしその方が今もこの地におられるのであれば、その方のそばにいる少数の群れはとても幸せでしょう。唯一の神とともにいるので、どんなにいいでしょうか? しかし、全世界中のほとんどの人は神に会いたかったとしても近づくことができなかったでしょうし、せいぜいテレビを通してその方を見るしかなかったでしょう。感謝すべきことに、イエスは天に行って聖霊を遣わしてくださいました。それで、私たちはそれぞれ神に近づくことができるようになりました。
私の中にいて私を助けてくださる神
弟子たちが船に乗って湖を渡っているときでした。激しい突風が起こり、大きな波が船を襲いました。船は水でいっぱいになり、弟子たちは死に対する恐れを感じはじめました。ところが、主はそのような状況でも船尾のほうで枕をして眠っておられました。弟子たちは主を起こして「先生、私たちが死にそうであっても何とも思われないのですか?」と訴えました。すると、主は風をしかりつけ、湖に「黙れ。静まれ。」といわれました。湖の上で死にそうになった弟子たちを生かすことができる方はただ神だけでおられました。その弟子たちを生かした神はイエス・キリストでおられました。
湖が静まるのを目撃した弟子たちに、主は「どうしてそのように恐れるのですか。信仰がないのはどうしたことですか。 」といわれました。イエスが行く先々で人々に賜物として与えられたものがあります。どのような状況でも揺れ動くことがない永遠な平安がそれです。激しい突風が起こる状況でも主は続けて平安でおられました。私たちの生涯の中には湖の激しい突風よりも大きい危機が訪れることがあります。しかし、そのような状況でも私たちの中に平安があるのならば、死に対する恐れにいくらでも勝利することができます。私たちにそのような平安を与えることができる方はただ神だけでおられますが、そのような平安を与えてくださる方がイエス・キリストでおられます。
私たちは神が私たちから離れておらず、私たちの中におられるという驚くべき事実を知るようになりました。ヨハネの手紙第一3章24節は「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」といいました。みなさんは神をどこで探しているでしょうか? 聖霊がみなさんに臨まれたでしょうか? それならば、神はみなさんの中におられます。この事実を実状と知って、徹底的に神を頼ってください。そうすれば、どのような激しい突風が吹いて波が押し寄せたとしても神の平安がみなさんを守ります。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室