イエス・キリストの友
(ヨハネの福音書15:13~19)
神は
真実な方でおられる
その方だけが
私たちの霊魂を生かし、(ヨハネ3:16)
私たちを病気から救われる
その方だけが永遠のいのちでおられる(ヨハネ14:6)
それゆえ、
イエスを信じるというのは「イエスだけが唯一なる救い主であり、(ヨハネ17:3)
私たちを生かす
神でおられる」と確信するということである(使16:31)
それゆえ、
イエスを信じるというのはその方にさらに近づき、
その方の友になるということである(ヨハネ15:15)
友は
友のために命を惜しまない
イエスが私たちの友であるのならば、私たちのために
自分の命を惜しまない(ヨハネ15:13)
私たちが
イエスの友であるのならば、命までもささげなければならない
聖霊はその方が私たちの友でおられることと、
私たちがその方の友であることをはっきりと証しされる(ヨハネ15:26)
○ イエスの名が苦難を受けるときに傍観していてはいけない
イエスのまことの友になりなさい
友になりなさい
○ 教会が苦難を受けるときに傍観していてはいけない
教会のまことの友になりなさい
まことの友になりなさい
○ 主のしもべが苦難を受けるときに無関心であってはいけない
主のしもべのまことの友になりなさい
まことの良い友になりなさい
※ 今は私たちが
イエスの友にならなければならない時であり、
教会の友にならなければならない時である
イエス・キリストの友
(ヨハネの福音書15:13~19)
真実な愛
神は真実でおられます。真実はまことです。まことは目に見えませんが、それが事物を通して一定の姿として現れたときに、私たちはそれを指して真実といいます。私たちが信じる神はまことの神でおられますし、その方は真実でおられます。ヨハネの福音書17章3節は「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」といいました。
私たちが信仰生活をする目的は永遠のいのちを得るところにあります。いのちという言葉は命を指す場合もありますが、命は永遠ではありません。それは肉体が機能を止めると同時に消えてしまいます。その反面、永遠に続くいのちもあります。これを指して永遠のいのちといいます。永遠のいのちはこの地で使った肉体が消滅したとしても永遠に消えることがありません。
神がひとり子を与えられたのは私たちに永遠のいのちを得させるためでした。ヨハネの福音書3章16節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」といいました。また、これについて5章39節は「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」といいました。
永遠のいのちを得る方法は唯一です。永遠のいのちは熱心に勉強したり、修養を多く積んだりしたからといって得ることができるものではありません。永遠のいのちを得る方法は場所や時代によって変わることがありません。この世のどのような宗教や権力も私たちに永遠のいのちを与えることができません。私たちに永遠のいのちを与えることができる方は唯一です。私たちはその唯一の方を神と呼びます。それでは、私たちは誰を通して永遠のいのちを得るのでしょうか? イエス・キリストです。イエス・キリストは神でおられます。これは私たちの永遠な信仰です。私たちがどんなに敬虔に礼拝をささげたとしても、また、どんなに切に祈ったとしても、それがイエス・キリストによらないのであれば、何の意味もありません。私たちの生涯は完全にイエス・キリストによります。
イエスは「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ6:38)といい、また、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)といわれました。イエスが父の御心通りに私たちに見せてくださったのは真実な愛でした。
愛は友となること
愛という言葉はこの世でもよく使われますが、神が私たちに見せてくださった愛は人々が語る愛とは異なります。まことの愛には条件がありません。それは異性間の愛のように何かの条件によって左右されるものでもありませんし、熱くなったのちにすぐに冷めてしまうものでもありません。その愛についてイエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13~14)といわれました。
母親と子どもの関係を注意深く調べてみてください。母親は子どもがまだ言葉を話しはじめる前から子どもに話しかけたり、その子どもが発する声に応じたりします。子どもがまともに話をすることができなかったとしても、母親は笑わないで、子どもの友となってあげます。子どもはそのような母親から深い愛を感じます。誰かをまことに愛するのであれば、その人の友とならなければなりません。夫婦であれ、兄弟であれ、互いに友となってこそよい関係を維持することができます。
人には周囲に友と呼ばれる者がいます。その中で誰がまことの友でしょうか? また、それをどのようにして知ることができるでしょうか? まことの友は友のために命を捨てます。イエスが捕えられる前に、ペテロは自信をもって「たとえすべての者があなたがたのゆえにつまずいたとしても、私は決してつまずきません。」といいました。しかし、主は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。今夜、鳥が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないといいます。」といわれました。そのような主にペテロは「たとえともに死ななければならなかったとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と公言しました。
しかし、イエスが人々に捕えられて大祭司カヤパの中庭にまで引かれて行き、むちで打たれて悪口を言われると、ペテロは衝撃を受けました。悪霊も追い出し、風や海も叱った主が人々の前でじっとしておられるのを見て衝撃を受けたのです。そのような状況で女中のひとりがペテロを見つけると、彼はイエスとの関係を否認しました。また、他の人が疑うと、彼は呪いや誓いまでしながらイエスを否認しました。果たしてこのような人を主のまことの友ということができるでしょうか?
イエスは初めから弟子たちに「あなたがたはすべて私を捨てる!」といわれました。しかし、のちには「あなたがたはすべて私のために死ぬ!」といわれました。聖霊を受ける前には誰もイエスのまことの友となることができませんでしたが、聖霊が臨まれたのちには弟子たちがすべてイエスのために命を捨てるまことの友となりました。ローマ人への手紙8章7節は「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」といいました。肉体の属性によっては不可能ですが、聖霊によっては主のまことの友となることができるのです。
権威と霊感
みなさんは主の友でしょうか? 主は私たちのために尊い血を流してくださいました。主日に聖餐をするのは尊い血の力を記念するためです。尊い血の力によって神さえも私たちから罪を発見することができません。私たちはそのような尊い血の力を認めるために、教会で他の人の罪や過ちを暴き出すことはしません。しかし、ある人は他の人の過ちを無理やりに探し出して罪に定めることに血眼になっています。
コリント人への手紙第一1章18節は「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」といいました。イエス・キリストが十字架を負われたために、この世で絶望していた者が教会に来て神の愛を受け、新しい生涯への望みを得ました。また、それによって確信と平安をもつようになった者が「罪人よ。来なさい!」と叫びました。そして、その声を聞いてさらに多くの人が集まってきました。そのように集まってきた者が今になって尊い血の権威を無視するのであれば、過去の悔い改めが何の意味をもつでしょうか? どのようにして救いが保証されるでしょうか?
ペテロとヤコブとヨハネはイエスとともに山に登ったときに、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているのを見ました。自分の先生が律法と預言者を代表する2人の偉人と肩を並べているのを見て、弟子たちは「私たちの先生も彼らと対等な方であったのか!」と驚きました。ところが、光り輝く雲が彼らを包み、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声が聞こえ、弟子たちの視野にはただイエスだけが残りました(マタイ17:1~8)。それまでモーセと預言者の言葉を絶対的に信頼していた彼らにとって、これは非常に衝撃的な事件でした。ペテロはのちにイエス・キリストについての自分の証しがいたずらに作り出されたものではなく、栄光の中で直接、聞いたものであるということを手紙の中で告白しました(Ⅱペテロ1:16~18)。イエス・キリストの尊い血の権威はこのように大きなものです。
人々が神に従わないのはどうしてでしょうか? 神の権威を無視するためです。神の権威を無視する者がどのようにして神の働きを体験することができるでしょうか? 聖書を100回、読んだとしても何の意味があるでしょうか? 聖書に権威を置かないのであれば、どんなに聖書を多く読んだとしても霊感を得ることができません。聖書から霊感を得るためには聖書が神の御言葉であるということを認めて、その前でひざまずかなければなりません。人々が説教を聞いたとしても、神の約束を体験することができないのはどうしてでしょうか? 神の御言葉を伝える監督の権威を認めないためです。ある人は「新約教会は会衆の意見にしたがって運営されなければならない。」といって監督の権威を否定します。しかし、教会に監督を立てた方は神でおられます(使20:28)。神からの権威を否定する者がどのようにしてその権威を通して伝えられる霊感を得ることができるでしょうか? 監督の権威が崩れると、教会の権威も崩れるしかありませんし、そのようなところではそれ以上、霊感を期待することができません。
イエスをただナザレ出身の青年として見る者はその方に何も期待しませんし、その方の御言葉を聞こうともしません。しかし、私たちはイエスが神と等しい「神の御子」でおられるということを信じます。私たちがその方を通して神の御言葉を聞くことができる理由がここにあります。人々は「イエスが語られることや行われることは取るに足りない。」と考えるかもしれませんが、イエスは父なる神からすべてを与えられました(ヨハネ12:49~50)。霊感はこのようなイエスの権威を認めるときに得ることができます。
ある人は「それでは、イエスが唾を吐いたとしても、それは神が命じられたのでしょうか?」と反論します。そうです。イエスは唾を吐き、それによって泥を作り、盲人の目に塗られなかったでしょうか? 人々はその場面を見て卑猥だと考えたかもしれません。しかし、どんなに人々の目に浅はかに見えたとしても、イエスが行われたことはすべて神の命令に従ってなされました(ヨハネ9:1~12)。
イエスが行われたことはひとつも捨てるものがない永遠のいのちです。ただ人々がその方の権威を認めないために、その方を見ることができないだけです。百人隊長は「ただ御言葉を頂かせてください。そうすれば、御言葉がそのままなされるでしょう。」といって、イエスの権威を尊重しました。御言葉によってこの世を創造して治める方は唯一の神だけでおられますが、百人隊長はイエスに神の権威を与えたのです。それゆえ、イエスが語られた御言葉が百人隊長に霊感を与えましたし、彼は神の力を体験することができました。
重要なのは聖書の一節を読んだとしてもその御言葉に権威を与えることです。そのようにしてこそ霊感を得ることができますし、救いを受けることができますし、病気を癒すことができます。偽ることがない神は「心の貧しい者は幸いです。迫害されている者は幸いです。」といってすでに祝福を命じられましたが、その御言葉に権威を与えるのであれば、必ず祝福を受けます。それとともに迫害も受けるようになりますが、迫害を恐れ、御言葉の権威は認めないのであれば、どうして祝福を享受することができるでしょうか?
主の友
みなさんはイエスのまことの友でしょうか? 多くの人が「主よ!主よ!」といいながらその方に従いましたが、その方が苦しみを受けられたときにはほとんどの人がその方に背を向けました。今も同じです。教会で何か得るものがあると考えるときには教会に集まってきますが、いざ教会が苦しみを受けると、多くの人が教会に背を向けます。もちろんこのようなときにも続けて教会に残って教会とともに苦痛を分かち合って祈る者がいます。彼らこそ教会のまことの友ですし、イエス・キリストのまことの友ということができます。
エペソ人への手紙1章22~23節は「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」といいました。イエスは唯一の神でおられます。それゆえ、その方の体である教会の権威はどんなに大きいでしょうか? みなさんは果たしてその権威を認めているでしょうか? この世と教会の水準を比較しながら、教会を無視していないでしょうか? 教会がすることが不合理的であるという理由によって教会を軽んじていないでしょうか? ナザレのイエスの服がどんなに汚れていたとしてもイエスに神の権威を与えなければならないように、教会がどんなに弱く見えたとしても教会がもっている天の権威を認めなければなりません。
教会は万物を満たす方が満ちておられるところです。それゆえ、教会の権威を尊重する者はすべてのことにその充満さを受けることができます。みなさんは自分の家族が教会に行って奉仕するときに、「毎日、教会に行って暮らしているのか?」、「まだ若いのに、仕事もしないで、教会に行って無駄な歳月を過ごすのか?」と非難していないでしょうか? 教会が万物を満たす方が満ちておられるところであるという事実を否定していないでしょうか? 監督に当然に与えなければならない権威を否定していないでしょうか? 天から来たものをこの世の視野によって見ていないでしょうか?
教会を愛するというのであれば、教会の友となってください。愛は友となることです。親を愛するのであれば、親の友となってください。配偶者を愛するのであれば、配偶者の友となってください。教会を愛するのであれば、教会の友となってください。監督を愛するのであれば、監督の友となってください。人々がイエスの服をくじで分けようとするときにもイエスのそばにいた者のように、主のまことの友となってください。聖霊が来られる前は不可能でしたが、今、私たちは主のまことの友となることができます。主はまことの友として認められた者に将来、「さあ、私の父に祝福された者たち。この世の初めからあなたがたのために備えられた御国を受け継ぎなさい!」といわれるでしょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室