イエス、最後まで愛される
(ヨハネの福音書13:1~11)
神は
愛でおられる
その方が
一度、愛するのであれば、最後まで愛される(ヨハネ13:1)
神の愛はこのようなものであるが、
その御子に関して語られたのである(マタイ3:17)
イエス・キリストは
神の愛であり、私たちに与えられた戒めである(マタイ17:5)
私たちがその戒めを守るのが愛である
神の愛は永遠であるが、
悪魔にだまされるのであれば、その中に愛がない(ヨハネ13:2)
悪魔は必ず呪いに導く(ヨハネ6:70)
神の愛を受けなければならない理由がここにある
神の愛を受けることができないのであれば、
悪魔に心霊を支配されるし、(ヨハネ13:27)
悪魔の考えに満たされるのであれば、やみが訪れる(ヨハネ13:30)
私たちの信仰はただ従う信仰である(ピリピ2:6~8)
従わないのは悪魔の惑わしを受けたためである(Ⅱテサロニケ2:11~12)
御言葉が私たちの中に満ちてこそ惑わしに勝利するし、
聖霊に満たされてこそ悪魔に支配されることがない
従う信仰によって生きてこそ信者である
◌ 神の愛を最後まで受けよう
悪魔に機会を与えないで、
永遠に従う者となろう
◌ 悪魔に心を奪われるのであれば、必ず滅びる
聖霊によって悪魔に敵対し、聖霊に満たされよう
聖徒の信仰はその愛の中にある
◌ 悪魔は休まないで食い尽くす者を捜し求める
イエスの人は悪魔に敵対することができる
イエスの名と御言葉によって敵対することができる
※ 神の愛を受けよう
神を愛し、教会を愛そう
教会はよみがえられた主の体である
イエス、最後まで愛される (ヨハネの福音書13:1~11)
神は愛でおられます。私たちの信仰はその方が私たちを愛してくださるということを認めるところにあります。母親から叱られたときに、子どもは母親の愛を疑うこともあります。しかし、母親の温かい手と同じように、叱るというのは子どもに対する母親の愛を現すまた別のかたちに過ぎません。これと同じように、律法だけを見るのであれば、それを与えられた神の御心を誤解しやすいです。しかし、私たちは律法の基礎もやはり愛であるという点をはっきりと知らなければなりません。
神にとって愛の対象はただ神の御子ひとりだけです。神が万物を造られたのもその御子のためでした。これについてヘブル人への手紙1章2節は「この終わりの時には、御子によって、 私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 」といいました。御子を除いたどのような存在も本質的には愛の対象ではありません。これは天に満ちている天使たちも同じです。天使は愛の対象ではなく、仕える霊として造られた存在です。したがって、5節は「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』」 といいました。
驚くべきことは神に仕える天使たちよりも弱点も多く、欠点も多い人間が神の愛を受ける神の子になったという事実です。神が愛される方はただ御子だけですが、今日、私たちが神の愛を受けるようになったのは神が私たちの霊魂を召して御子イエス・キリストに与えられたためです。イエスは「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)といわれました。神は万物とともに人の霊魂をイエスに与えられましたし、イエスも「父から与えられた霊魂をひとりも失うことなく、最後の日にすべて生かすのが父の御心である。」ということをはっきりと知っておられました。
ヨハネの福音書3章16節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」といいました。神はその愛を受け入れた者の霊魂を最後までつかまれます。反対に、神の愛を拒んだ者の霊魂は容赦なく捨てられます。これは箱舟に乗ったノアの家族を除いた、すべての人を洪水で流してしまったのと同じです。
神の愛を受ける機会がいつまでも続くわけではありません。肉体の中にとどまる間に神の愛を受けることができないのであれば、その霊魂は結局、悪霊になってしまいます。聖書で悪霊についての話が多く出て来ますが、多くの人がそれを一種のたとえとして受け入れるために、霊的な世界の実状を悟ることができません。悪霊は人々が想像によって作り上げた概念ではなく、人格をもっている実際的な存在です。これはイエスの名を信じる者ならば誰でも悪霊を追い出す過程で現象的に体験することができる事実です。肉体を離れたのちに悪霊となって悲惨な境遇に陥らないためには肉体をもっている間に神の愛を受け入れなければなりません。
イエスとともに十字架につけられた強盗は暴悪な犯罪者でしたが、最後の瞬間に神の愛を受け入れました。イエスはその人に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました。その反面、3年もイエスに従っていたイスカリオテ・ユダの結末はまことに悲惨でした。イエスは最後まで彼に愛を注ごうとされましたが、彼は結局、その愛を受け入れませんでした。むしろ悪魔の考えを受け入れ、木に首を吊って死にましたし、肉体を離れたのちには悪霊となり、結局、底知れぬ所に入って行きました。
今日、多くの人が自ら命を絶ちます。人が死にたいという考えをもつようになるまでにはさまざまな理由があるでしょうが、その根本は神の愛を認めないところにあります。鶏が卵を抱く期間は普通、20日間です。しかし、28日になっても卵を抱いている鶏を見たことがあります。卵が腐って孵化することができない状態になったとしてもあきらめなかったのです。私たちに向けられた神の愛はこれと同じです。イエスは「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)といわれました。
イエスは弟子たちをこのように最後まで愛されましたが、イスカリオテ・ユダは結局、孵化することができなかった卵のように滅んでしまいました。彼は他の弟子たちとは異なり、むしろイエスの無罪を証明しようとしました。問題は彼が自分の方法によってそれを実行しようとしたところにありました。彼はローマの法廷を信頼しました。彼は「イエスが法廷に立つのであれば、ローマの正義の法がその方の無罪を現す。」と確信しました。彼の予想とは異なり、イエスに有罪判決が下されると、彼は慌ててイエスの無罪を主張しましたが、その主張が受け入れられないのを見て、良心の呵責に耐えることができず、首を吊って死にました。
イスカリオテ・ユダの最大の問題は彼がイエスを神の御子と見なかったところにありました。彼にとってイエスは偉大な思想家に過ぎなかったのです。もちろん外見的に平凡極まりない者を神と見るというのは決してやさしいことではありません。それにもかかわらず、今、私たちがイエスを神の御子と信じることができるのは御言葉が処女の体に宿られたという事実、すなわちインマヌエルを認めるためです。男性と寝たことがない処女が子どもを産むというのはこの世の常識や理論によっては決して認めることができないことです。しかし、その事実を認めるのが私たちの信仰です。私たちが神が私たちを愛してくださるということをはっきりと信じることができるのも「イエスが神の愛する御子であり、その方が自分の血によって私たちを買い取ってくださった。」ということを認めるためです。鶏が抱く卵の数があまりにも多いときには鶏の体温をまともに受けることができないで腐ってしまう卵が出て来ることもあります。それと同じように、神の愛を受け入れないで最後まで拒む者については神もどうすることができません。神は全能な方でおられますが、そのような神であってもその愛を拒む者に無理やりに愛を注ぐことはできません。
イエスが自分の死と復活について語られたときに、ペテロは絶対にそのようなことが起こってはいけないといいました。そのとき、イエスは「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)といわれました。ペテロが自分がもっていた常識によって主がしようとされることをむやみに判断し、それを防ごうとしたときに、主は彼をサタンとして扱われたのです。
今日、教会の中でも自ら賢いと考える者は霊的な生活に適応することができないという傾向があります。ある人は他の人が熱く異言を語り、悪霊を追い出すのを見ながら、「無知な者がそのようにする!」といって無視したりします。また、ある人は「私は異言のようなものは語ることができなかったとしても関係がない。私はさらに大きな賜物を求めるつもりだ。」といって、自分の無能さについて弁明したりします。私たちが覚えなければならないのは神がなさることに反抗心をもってはいけないという点です。
ダビデが神の箱を運んでエルサレムに入ったときに、彼の妻であり、サウルの娘であるミカルは王が威厳なく家来たちの前で踊りながら体まで露出したといって、ダビデを軽蔑しました。そのとき、ダビデは自分が踊ったのは神の御前でしたことであるといいました。そのようなことがあったのちに、ダビデは彼女と寝ませんでしたし、結局、彼女は王の系譜をつなぐことができませんでした。ダビデはむしろウリヤの妻から得た息子に王位を継がせました。このように神が重視されるのはその人がもっている常識ではなく、信仰です(Ⅱサムエル6:16~23)。
イエスがペテロに向かって「下がれ。サタン。」といわれたということを軽く考えてはいけません。ペテロがもしそのような霊的な状態にとどまっていたのちにこの世を離れたのであれば、果たしてどうなったでしょうか? 主はサタンから与えられた考えに支配されたイスカリオテ・ユダを指して「しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6:70)といわれました。それゆえ、彼が死んだのちに悪霊とならなかったのであれば、何になったのでしょうか? エデンの園でもサタンから与えられる考えをエバが受け入れたために、全人類が呪いを受けなかったでしょうか? これと同じように、どんなに教会に熱心に通っていたとしても一度、サタンの考えを受け入れるのであれば、その結果はとても悲惨です。
私たちは神の愛を受けなければなりません。絶対に悪霊になってはいけません。私は交通事故で死んだ子どもがその葬式の途中で母親から現れるのを見たことがあります。狂ったように泣き叫んでいたその母親の口から突然、子どもが訴える声が出て来ました。子どもが悪霊となって、母親の体の中に入って行って悔しさを訴えたのです。悪霊は目に見えない存在であるために、多くの人がこのようなことを納得するのはむずかしいです。しかし、悪霊は想像の産物ではなく、実際に人の中に入って行って活動することもできる霊的な存在です。
イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の 中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9~10)といわれましたし、また、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)といわれました。「あなたがたは愛を受けたので、これからは互いに愛し合わなければならない。」と強調されたのです。これはイエスから与えられた新しい戒めです。
神の愛を受けた者は新しい戒めを守らなければなりません。新しい戒めを守ることの基本は教会を愛することです。教会を愛するのであれば、教会をなしている霊魂も当然、愛します。教会には貧しい者もいますし、金持ちもいますし、学んだ者もいますし、学ぶことができなかった者もいます。どんな条件をもっている者であったとしても私たちが愛することができるのは神の愛がすでに私たちの中にあるためです。教会を愛そうというスローガンだけを叫ぶ者となってはいけません。母親が子どもを愛して一時も目を離さないで子どもを顧みるように、教会を愛さなければなりません。
神の愛を受けましょう! イエスに3年間、従っていたとしても結局、神の愛を拒んで滅んだイスカリオテ・ユダを見習わないで、生涯、強盗をしたとしても結局、パラダイスに入って行った強盗のように神の愛を受けましょう! 神はその愛が私たちの中で確かなものとなるように、また、私たちにその愛をさらに豊かに享受させるように聖霊を遣わしてくださいました。神がこのように私たちに注ごうとされる愛を拒まないで、力の限り受け入れましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室