どのような言葉を聞こうとするのか
(ヨハネの福音書6:60~71)
神は
永遠のいのちでおられる
その方が
人類に自分を知らせて見せたが、
これは御言葉である(ヨハネ1:1)
御言葉は肉体となって来て血を流されたし、
霊として来て私たちの中に入って来られた
御言葉が来られる前にまずたとえとして語られた
律法と預言者はたとえである(へブル9:1~10)
たとえは預言者であり、案内者である
たとえは信仰でなく、誘い水である
私たちの信仰は
イエス・キリストである(マタイ16:16~18)
イエスの御言葉は霊であり、いのちである(ヨハネ6:63)
どのような言葉を聞こうとして耳を傾けるのか
生かすのは霊だけである
神の御言葉だけが生かす
イエスは生かす御言葉である
イエスの血と肉は生かす御言葉である(ヨハネ6:53~55)
御言葉を体験してこそ生きる(ヨハネ14:7)
聖霊は御言葉を体験させる
◌ どのような言葉を聞こうとして教会に出て来たのであろうか
神の御言葉だけがあなたを生かす
イエスはあなたを生かす御言葉でおられる
◌ たとえに酔ってその味から離れることができない
律法はあなたを殺すことがあったとしても、生かすことはできない
真理だけがあなたを生かす霊である
◌ イエスは永遠のいのちの御言葉でおられる
御言葉を悟ることができないのであれば、主から離れる
永遠のいのちの御言葉にだけとどまろう
※ 真理は永遠のいのちの御言葉である
二枚舌を使うことがない永遠な
神の御言葉である
どのような言葉を聞こうとするのか (ヨハネの福音書6:60~71)
神はいのちでおられます。私たちが神を信じるのはその方からいのちを得るためです。病院に通う者が多額な費用を払ってまで医師が指示する通りにするのはどうしてでしょうか? それほどいのちが貴いということを知っているためです。これと同じように、私たちが宗教生活に満足しないで何とかして神の御心通りに生きようとするのは神から与えられるいのちの中にとどまるためです。
神は祝福と呪い、そして、いのちと死を私たちの前に置いて、私たちに祝福といのちを選ばせました(申30:19)。祝福といのちは2つの契約とつながっています。祝福は初めの契約と関連がありますし、いのちは新しい契約と関連があります。初めの契約の戒めを守る者はこの地にいる間に祝福を受けますし、新しい契約を頼る者はいのちを得ます。
初めの契約の戒めとして根幹となるのが十戒ですが、その中の前の4つの戒めは特に重要です。「私のほかに、他の神々があってはいけない! 偶像を造ってはいけない! それらに拝んで仕えてはいけない! 神の御名をみだりに唱えてはならない! 安息日を覚えてこれを聖なる日としなさい!」という御言葉をよく守るのであれば、誰でもこの地で施される祝福を享受するようになります。
しかし、その祝福を天にまでもっていくことはできません。ある人は多くの財産を倉庫に積んでおいて「わが魂よ。これから安心して暮らそう!」といいますが、神がその人の霊魂を取り去られるのであれば、その人の財産はすべて他の人のものとなってしまいます。金持ちとラザロの話からも知ることができるように、この地でどんなに豊かな人生を享受したとしても、それが来世にまで続くわけではありません。
この地で祝福を享受することよりも重要なのは永遠のいのちを得ることです。神は新しい契約を通して私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。永遠のいのちを保障された者は息が絶える瞬間、パラダイスに入って行きますし、時が来れば、復活して天国に至ります。その反面、永遠のいのちを得ることができなかった者は息が絶える瞬間、自分が取り返しのつかない悲惨な境遇に置かれたということを発見するようになります。
私たちがイエス・キリストの御言葉に従いながら経験するようになった驚くべきことのひとつはその方の御名によって悪霊を追い出すことでした。そして、悪霊を追い出す経験と聖書を照らし合わせて確証したのは悪霊が不信者の死後の存在であるという事実でした。悪霊の正体についてはさまざまな主張がありますが、そのほとんどは悪霊を追い出した経験に基づいていないものです。既存の常識と異なるために、悪霊が不信者の死後の存在であるという事実は受け入れにくいのかもしれませんが、それはイエス・キリストの御言葉に従う者ならば誰でも普遍的に確認することができる事実です。
「永遠のいのちを得ることができなければ、結局、悪霊になるしかない。」という事実をより多くの人が知るようになれば、イエスを拒む者はその分だけ減るでしょう。イエスは「私の血を飲みなさい! 私の肉を食べなさい!」といわれました。イエスの血を飲む者はそれによっていのちを得ますし、イエスの肉を食べる者はそれによって永遠のいのちを得ます。死んだ者を生かすのがいのちであるのならば、生き返った者を永遠に生かすのが永遠のいのちです。罪によって死んでいた私たちの霊魂がイエスの血の功労によって生き返ったので、これからは永遠に生きるために霊的な食物を食べなければなりません。
私たちが食べなければならないその食物は何でしょうか? イエスは「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)といわれました。イエスがなさった働きとその方の御言葉は今、私たちが食べなければならない食物です。それを指して永遠のいのちの御言葉ともいいますし、真理ともいいます。真理の聖霊が来て証しされるのもそれです(ヨハネ16:13~14)。イエスが「私の肉を食べなさい!」といったときに私たちに期待されるのは私たちが御言葉を信じて従い、それによって永遠のいのちを得ることです。
残念なのは「多くの人がイエス・キリストの中に入って来て初めは信仰生活を熱心にしするが、時間が経つにつれて次第に怠惰となり、のちにはまるで自分の霊魂に必要なものが何であるのかを知らない者のようにさまようようになる。」という点です。私たちに必要なのは永遠のいのちです。私たちが信仰生活を熱心にするのも永遠のいのちを得るためですし、教会に来て説教を聞くのも永遠のいのちを得るためです。
神は全能な方でおられます。それゆえ、神から答えを得ることができないのであれば、他のどのようなところからも答えを得ることができません。私たちはこの世で道を見つけようとしてさまよっていましたが、結局、何も見つけることができないで神に来ました。イエスが「私は道である!」といわれたように、神は私たちにとって最後の機会です。それゆえ、今は神の中から答えを得なければなりません。私たちが神を頼るというのは抽象的な存在に頼るということではありません。私たちの神は永遠の前から神とともにあった御言葉が処女の体を通して肉体となって来られたインマヌエルの神、すなわちイエス・キリストです。それゆえ、数万人が神に仕えたとしても、ある人は東に行き、ある人は西に行くというようなことはありません。
律法は人を救うことができません。それは一種のたとえです。たとえは人を永遠な刑罰から救うこともできませんし、人に永遠のいのちを与えることもできません。永遠な刑罰から救いを受けたり永遠のいのちを受けたりするのは永遠のいのちの御言葉、すなわち真理を通してだけ可能なことです。しかし、イエスに従っていたとしても、すべての人が真理を受けているわけではありません。イエスはこの地で多くのたとえを使って教えられましたが、それは人々がさらにやさしく受け入れることができるように律法を解釈されたのです。したがって、それを永遠のいのちの御言葉と錯覚してはいけません。イエスが語られたとしても、たとえは人を救うことができません。それゆえ、私たちはイエスの御言葉とその方がなさった働きが私たちの霊魂に実状として入って来るようにしなければなりません。これはただ聖霊によってだけ可能なことです。
早い段階から多くの人がイエスを従いました。彼らはイエスに従いながら、その方の御名によって悪霊を追い出したりもしました。彼らはたとえによって律法を解釈されるイエスの御言葉を聞きながら、「このような不思議な言葉をどこで聞くことができるであろうか?」と考えました。しかし、彼らの耳をとらえたのはたとえに過ぎませんでした。ある日、イエスはそのような彼らに「私の肉を食べなさい! 私の血を飲みなさい!」といわれました。すると、彼らは困惑しながら「どうして突然、おかしなことを語り出したのであろうか? 人がどうして人の肉を食べ、人の血を飲むというのか?」と考えました。たとえを聞いたときには理解したように見えましたが、真理は受け入れることができなかったのです。その日、イエスを離れた弟子たちは再び戻って来ませんでした。
イエスは十二弟子に「あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう?」と尋ねられました。ペテロが「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」と答えました。「イエスが永遠のいのちの御言葉であるために、イエスを離れない。」と告白したのです。弟子のそのような告白を聞いたイエスは「私があなたがた12人を選んだのではありませんか。しかし、その中のひとりは悪魔です!」といわれました。
イスカリオテ・ユダはイエスが捕らえられたときに唯一にその方を弁護しようとした者でした。他の人はすべて逃げるのにいそがしかったですが、彼は大祭司と長老たちを訪ねて行って「私は罪を犯した。罪のない人の血を売った!」と主張しました。彼がイエスを売ったのは単にお金のためではありませんでした。彼はイエスの無罪を証明しようとしたのです。彼は「イエスが公開的な法廷に立たされるのであれば、むしろその方の価値が天下に現れるであろう。」と考えました。
イスカリオテ・ユダの過ちは彼が自分の常識によってイエスを理解しようとしたという点です。彼は普段、自分を神の御子と紹介されたイエスの御言葉を聞きましたが、それを実状として受け入れるよりも哲学的な次元で理解しましたし、イエスを弁護するときにも自分が理解する方式を適用しようとしました。しかし、イエスは自分に必要なのは人の証しではないということを明らかにされました。バプテスマのヨハネがその方を証ししましたが、イエスはその証しは真昼の灯火のようにほとんど意味がないといわれました。
イエスは私たちが聖霊によってその方を知ることを願われます(Ⅰコリント12:3)。聖霊によらなければ、イエスを完全に知ることができません。イエスの御言葉に魅了されてその方に従った者が突然、その方に背を向けたのは、また、3年もその方に従った弟子が突然、悪魔になったのは彼らが普段、聖霊によってイエスを信じないで常識的、あるいは哲学的な次元でイエスを理解していたためです。
彼らはイエスの名によって悪霊を追い出しました。しかし、イエスははっきりと「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22~23)といわれました。私たちはイエスが永遠のいのちの御言葉であるという事実を信じて、その方を私たちの中で働かせなければなりません。そのようにしないのであれば、悪魔が入れる考えに揺れ動くこともあります。
悪魔が入れる考えを受け入れると、イスカリオテ・ユダは悪魔になってしまいました。エデンの園で神の御言葉によって生きていた人が堕落するようになったのも蛇の言葉を受け入れたためでした。過去にあったこのようなことは今も再現されています。教会生活をどんなに長くしていたとしても神の御言葉の代わりに蛇の声を受け入れるのであれば、まるで数百年も育ってきた木がノコギリによって30分で倒れてしまうように、それによって突然、堕落してしまうこともあります。
私たちが教会に来て聞こうとするのは蛇の声ではなく、神の御言葉です。私たちがこれまで神の御言葉に耳を傾けてきたのは私たちに必要なものが他ならぬ永遠のいのちであるためです。それゆえ、私たちの耳に聞こえてくるのが永遠のいのちの御言葉でないのであれば、それに関心をもつ必要がありません。試みる者が現れて、もっともらしい言葉によってイエスを誘惑したときに、イエスはどのようにされたでしょうか? その方はただ聖書に記録された御言葉だけを主張して、試みる者を退けました。
私たちが教会で献身して奉仕するのは永遠のいのちの御言葉が私たちの中で働くためです。永遠のいのちの御言葉を知ることができないこの世の人々の目には何の報酬も受けないで教会に時間と労力を注ぐ私たちの献身や奉仕が愚かな行為に見えるかもしれません。この世の人々のそのような考えは刻々と私たちの耳に入って来ます。そのような状況で堕落しないためには哲学や常識ではなく、聖霊によってイエスを理解しなければなりません。ただ聖霊によってだけイエスを永遠のいのちの御言葉と認めることができますし、その御言葉を私たちの中で働かせることができます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 12. 31.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
生涯、迫害を受けて生きてきたが、今日のように悪口を言われたときはなかった。そのようにすることがそれほど面白いのであろうか? 「そのようにすれば、むしろ自分が恥ずかしい。」ということを悟ることができないのであろうか。ひとつの井戸から2つの水は出て来ないし、苦い水と甘い水は混ざって出て来ない。一日中、批判すれば、それが惑わしの霊となって続けて批判だけをするようになるし、偽りはじめるのであれば、さらに偽るようになる。小さいことを大きく誇張するのであれば、最後には悪魔になる。どうしてそれがわからないのであろうか。「あなたの口から出て来る言葉があなたを罪に定める。」という御言葉がどうしてわからないのであろうか。本当に残念である。
イエスを信じる者はイエスの血に浸り、神の国と義だけを望む。しかし、律法や宗教人はそれとは反対に罪に定め、裁判に追いやり、偽り、殺し、呪う。自分の口がどのようになるのか? 汚れるのではないであろうか。きよいということができるであろうか。その時間にさらに多く祈り、さらに謙遜になり、愛して慰め、平安を与えるのであれば、どんなにありがたいであろうか。
口を開くときにまむしの舌が出て来るのは自ら堕落したためである。私たちはイエスの血を飲み、主イエスの死を記念するときに、「これは主が来られるときまで主の死を伝えるのです。」と学んだ。それなのに、どうしてイエスの死を伝えなければならない唇と舌をもって、言うべきではない言葉をすぐに口にするのであろうか。理解することができない。そのような言葉に酔い、また、そのような言葉だけを聞こうとする者は自分の霊魂を投げ出した者のようである。一分一秒が惜しいときに、私たちは霊魂を救うことができず、むしろ追い出している。これをどうして主の尊い血を飲んだ者、その血の働きをする者ということができるであろうか。
彼らの揚げ足を取るようで恥ずかしいが、どうすればよいのか。私は一日中、叩かれるだけである。しかし、私の霊魂は一日中、勝利するだけである。勝利というのは神の義の勝利をいう。私はこれ以上、驚かない。どちらにしてもこの世の法廷に訴えたので、どのような判断でも下されるであろう。
自分の確信がない者は群衆を動員する。霊的ではなく、物理的に角を立てる。そのように偽っておいて、どうして説教壇に立って真理を宣言することができるであろうか? 当然、真理が出て来るはずがない。律法を教える者からは真理が出て来ない。真理の人は聖霊の人である。私たちはすべて神の御前にひれ伏したニネベの人々のようにともに泣き叫ばなければならない。
冬にはじまった強い風は春、夏、そして、秋を過ぎて再び冬を迎えた。このように無為に歳月を送ってもいいのであろうか。主は「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と催促されたが、私たちはすべて時間を生かして用いなければならない。良い頭によって悪い夢を見ないで、さらに良い夢を見てくれればと思う。落ち葉の音が大きく聞こえてくる・・・
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室