霊によって語りなさい
(コリント人への手紙第一14:1~25)
神は
霊でおられる
その方が
人を造って増やされたために、
全地に人が満ちたし、言語が生じた(創1:28~30)
しかし、
人の言語は話し言葉であり、音である(創11:1)
その反面、
神の御言葉は霊であり、いのちである(ヨハネ6:63)
人の霊も霊であるために、いのちである
しかし、
神の御言葉は生かす霊でおられるし、
人の霊は生きる霊である(Ⅰコリント15:45)
人の言語は互いに通じる音であるが、
霊を語ることができないし、
霊が語る奥義を知ることができない(Ⅰコリント2:11)
しかし、
霊が霊の奥義を
神に語るときに、その方が聞かれる(Ⅰコリント14:2)
霊だけが知る事情を
神が聞かれる
◌神から与えられた異言は人の言葉ではなく、
霊が語る言葉であって、
神だけが聞き取られる
◌罪人として生きるときには霊が語ることができなかったが、
罪の赦しを受けたときには霊が解放された
異言は霊が叫ぶ祈りである
◌預言は望みであり、
神の御言葉である
福音は霊的な御言葉である
※ 異言を語るというのは
神に語るということである
知性によって祈り、霊によって祈らなければならない
霊によって語りなさい (コリント人への手紙第一 14:1~25)
生きておられる方との出会いをもちなさい
神は霊でおられます。神が霊でおられるというのはその方が永遠に生きておられるという意味です。私たちが神と交わる方式はこの世の人々が死んだ者と交わる方式とまったく異なります。この世の人々は祖先の墓地に行って「おじいさん。来ました。よく過ごしておられましたか?」といって愚痴を並べたりしますが、祖先がその声を聞いて応じてくれるという確信をもつことはありません。しかし、私たちが神に自分の事情を訴えるのは全能なる神が私たちの事情を聞いて応じてくださるという信仰を前提としています。
神はアブラハムの信仰を義とされました。彼が住んでいた地域の人々はすべて偶像の前にひざまずいていましたが、アブラハムは異なりました。彼の心には「神は生きておられる。神は人間の声を聞かれる。神は全能者であり、私たちの主人でおられる。神には私に戒めを下す権利がある。神の戒めを守るのが私の信仰である。」という告白がありました。神はそのようなアブラハムを呼び出して「私が指示する地に行きなさい。」といい、アブラハムの信仰を義とされました。アブラハムはこのように死んだ者に仕えないで、生きておられる方に仕えようとしたのです。
イエスは「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)といわれました。神が霊でおられるというのはその方が永遠に生きておられるという意味です。そのような神に仕えるためにはいのちがない偶像を崇拝する態度や方式を捨てて、生きておられる方に会う霊的な態度や方式が必要です。
盲人は目で自分の親を見ることができませんが、何かがあれば、親と相談し、親の慰めを受け、親の助けを受けます。これと同じように、神は目には見えませんが、私たちが神に仕えるというのは生きておられる方を相手にするということです。それゆえ、礼拝をささげるために教会に向かう者には「今日、私は生きておられる方に会い、その方にすべてを話し、その方の慰めや愛、恵みを受け、指示を受ける!」という慕い求める心が満ちあふれなければなりません。
イエスを信じない者はその霊が死んだ状態にあります。それゆえ、彼らはどんなに身もだえしたとしても神と交わることができませんし、自分の事情を神に語ることができません。しかし、イエスを信じる者は霊が生きているために、神に会い、その事情を語ることができます。イエスを信じることと信じないことの差はこのように大きいです。イエスを信じる者は霊によって霊でおられる神に会い、交わるのです。
聖霊が語らせる通りに異言を語りなさい
イエスがよみがえって天に行かれると、その方が約束された通りに、信じる者に聖霊が臨まれました。聖霊が最初にこの地に臨まれた事件は2000年前、五旬節の日にマルコの家の大広間で起きました。そのときの状況について使徒の働き2章2~4節は「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」といいました。
自然と呼ばれるものはこの世が造られたときから存在しました。しかし、異言は今から2000年前、イエス・キリストが天に上られ、聖霊が臨まれることによって初めてこの世に現れはじめました。それゆえ、これは自然現象ではなく、イエス・キリストを信じる者に現れた特別な現象でした。イエスはこれについて予め「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ16:17)といわました。
聖霊に満たされて異言を語る者は自分の意志とは関係なく舌が力強く動くのを体験するようになります。これは聖霊がその人に臨まれたという証しでもあります。聖霊は目に見えない方でおられるために、その方が臨まれたということを知るのはやさしくありません。しかし、「御霊が話させてくださるとおりに異言を話し出した。」という御言葉から知ることができるように、異言を語りはじめたのであれば、これはその人に聖霊が臨まれたということを現すのです。
イエスが「信じる人々には次のようなしるしが伴うが、そのひとつは異言を語ることである。」といわれたのはその方が「信じる者ならば、この程度の水準にならなければならない。」といわれたということであり、信じる者の基準を定められたのです。それならば、私たちはただ自分の口で「私は信じる者です。」というのではなく、神に「あの人は信じる者である。」と証しさせなければなりません。これについてコリント人への手紙第二1章22節は「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」といいました。
イエスは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使1:8)といわれました。その約束通りに私たちは聖霊を受け、聖霊が語らせる通りに異言を語りはじめました(使2:4)。私たちがはっきりと知らなければならないのは異言は聖霊とともに臨んだ力のはじまりに過ぎないということです。時間が経つにつれて軍人の階級が一段階ずつ上がっていくように、聖霊を受けた者は異言を語らなければなりませんし、異言を語る者は知恵の御言葉を得なければなりませんし、御言葉の知恵を得た者は御言葉の知識を得なければなりませんし、さらにいくらでも神から与えられる賜物をもたなければなりません。
さらに預言をしようとしなさい
コリント人への手紙第一14章はさまざまな聖霊の賜物の中で特に異言と預言を具体的に説明することに多くの分量を割いています。これは異言と預言がそれくらい重要であるということを物語っています。異言を語る者は自分が聖霊の賜物を受けたという事実に満足しないで、さらに進んで預言をしようとしなければなりません。預言をするというのは占いをするという意味ではありませんし、旧約時代の預言者のような役割をするという意味でもありません。預言をするというのは私たちが信じる真理を伝えるということです。主が私たちに「あなたがたが私を信じるのであれば、救いを得る!」といわれたのも預言ですし、「永遠のいのちを得る!」といわれたのも預言です。「あなたがたは将来、第一の復活に参加して天に入って行く。」といわれたのも預言ですし、「私の血を飲んでこそいのちがあるし、私の肉を食べてこそ永遠のいのちがある。」といわれたのも預言です。
救いを得るためには信仰をもたなければなりませんし、信仰を得るためには御言葉を聞かなければなりませんし、御言葉を聞くためには御言葉を伝える者がいなければなりません。ローマ人への手紙10章14~15節は「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」といいました。御言葉を伝える者がいないのであれば、救いを受ける者もいません。それゆえ、異言を語る者は預言をすることを慕い求めなければなりません。すでに受けた賜物に満足しないで、続けて進まなければなりません。
律法の下にいた者は霊が死んでいたために、どんなに切実に神を探したとしても霊的な助けを受けることができませんでした。しかし、よみがえったイエスが天に上られ、聖霊が臨まれたのちには人々が異言を語りはじめました。神と交わるどころか地獄の門の前にまで至った者が今は霊によって自分の奥義を神に語るようになったのです(Ⅰコリント14:2)。神から与えられたこの貴い異言を多く語ることは私たちの霊魂にとってとても有益です(Ⅰコリント14:18)。
しかし、教会のためには預言がさらに重要です。パウロも教会の益のために預言がとても重要であるという事実を強調しながら、「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。」(Ⅰコリント14:5)といいました。異言は個人の徳を高めるのに役に立ちますが、教会の徳を立てるためには預言が重要です。預言をしなさいというのは簡単に言うと、福音を伝えて教えながら人々に言い聞かせて勧めなさいということです。そのようにしてこそ、信じる者がどのような状況においても誘惑に陥らないで、目を覚まして、主が再び来られる日まで耐えることができるためです。
人々が信仰生活をしたのちに堕落するのは預言を無視するためです。テモテへの手紙第一4章14~15節は「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」といいました。特に牧師や執事のように按手によって立てられた者は自分が按手を受けたときに聞いた預言を軽蔑してはいけません。
異言は異言で熱心に語らなければなりませんが、さらに預言をしようとしなければなりません。異言さえもまともに担うことができないで失ってしまう者もいます。そのような人に果たして伝道する力があるでしょうか? 少なくとも異言を語る力があってこそ、それによって福音も伝えることができるのです。温度が100℃まで上がると、水は沸騰します。そのように聖霊に満たされた者は異言を語るようになっています。言い換えれば、聖霊に満たされないのであれば、異言は遠ざかるしかありません。
自分の霊が神に事情を語るようにしてください。コリント人への手紙第一2章11節は「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」といいました。聖霊に満たされてください! 異言を語ってください! そして、さらに進んで預言をしてください! これは占いをしなさいという意味ではありません。初めの契約も預言ですし、新しい契約も預言です。初めの契約はすでに成就しましたし、イエスが再び来られるという新しい契約は将来、成就します。「再び来られるイエスを迎える準備をしましょう!」と預言することに力を尽くしましょう。福音を伝えて教えることを慕い求めましょう!
尊い血と聖霊と御言葉! 私は生涯、この3つを伝えてきましたし、これからもそのようにするつもりです。私は地獄に行くしかなかった罪人でしたが、主の貴い血によって救いを得ました。主はそのような私に聖霊を遣わしてくださいました。私は生涯、聖霊に頼って御言葉を伝えます。イエス・キリストの尊い血が自分の中にあるのならば、聖霊を迎え入れましょう! 聖霊を迎え入れたのであれば、聖霊に満たされて異言を語りましょう! そして、さらに進んで福音を伝えましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室