
イエスのくびき
(マタイの福音書11:25-30)
神は
恵み深い方でおられる
その方が
この世を憐れまれたというのは
神の恵みを施されたということである(ヨハネ1:16)
神のように自由な者がいるであろうか(ヨハネ8:32)
人間が罪人となったというのは自由を失ったということである
人間は自ら知ることができない重いくびきを
負っている
罪と死と刑罰に対する恐れのくびきをもって
この世を無理に生きている
イエスが父の御心にしたがってこの世に来られたのは
人類のくびきを代わりに負うためであった(ヨハネ1:36)
そして、代わりに
私たちにイエスのくびきを負わせるためであった
人類のくびきは
主イエスが負われたし、
イエスのくびきは
人類が負ったのである
イエスのくびきは霊感であり、真理である(ヨハネ14:6)
聖霊が自らくびきとなられる
◌ 人類は律法のくびきを負って絶望する
イエスの十字架はそのくびきを代わりに負ったものである
私たちの信仰はこれである
◌ イエスは真理のくびきを負っておられる
真理のくびきは軽いし、
幸せが何であるのかを悟らせる
◌ 私たちの肉体は律法のくびきを負っていたとしても、
私たちの霊魂は恵みのくびきを負わなければならない
霊魂にまことの自由があってこそいのちである
※ 重い自分のくびきをすべて脱ぎ捨て、
イエスが与えられるくびきを受けよう
イエスとともに永遠に自由になろう
イエスのくびき (マタイの福音書 11:25~30)
福音は信仰である
神は恵みを施される方です。人々は福音によって恵みの神を完全に知るようになりました。福音は信仰と分離することができません。マタイの福音書はイエスに対するマタイの信仰を記録した本ですし、マルコの福音書はイエスに対するマルコの信仰を記録した本です。福音自体が信仰であるということができます。
旧約聖書には神がなさった働きが記録されていますが、旧約聖書は神を父と教えたこともありませんし、神の御子を紹介したこともありません。ところが、新約聖書の根幹である福音書の中で最初に記録されたマルコの福音書は1章1節で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と言及し、それによって「イエス・キリストによって父なる神と御子の関係が最初に現れ、福音がはじまった。」という事実を語っています。
神は御子を愛して喜ばれます。その御子の中で父と御子の驚くべき関係を体験するのが私たちの信仰です。私たちの信仰は宗教ではありません。宗教は人々に律法を与え、これを守る者に心の平安を抱かせます。一見すると、宗教は人々に自由を与えるように見えますが、実際には正反対です。宗教は人に苦行のくびきをかけるだけです。
宗教の律法は人々に良心の呵責を与えるために、人々に救いを渇望させることはできますが、それ自体が人を救うことはできません。旧約時代の律法も同様でした。それが人々の肉体に修養を積ませることはありましたが、霊魂を救うことはできませんでした。律法は一種のくびきです。車や鋤を引くために馬や牛の首にかける棒がくびきです。イエスはこのくびきを素材として律法と福音の差を語られました。
父と御子を知る者にいのちがある
マタイの福音書11章25~30節は「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』」といいました。
福音は人の知恵によって受けることができるものではありません。自ら知恵があると考える者は自分がもっている理論のために、むしろ信仰をもつのがむずかしいです。信仰は耳が開いている者ならば誰でももつことができるものです。ロ―マ人への手紙10章17節は「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」といいました。信仰をもつために必要なのは明晰な頭脳ではなく、純粋な心です。
福音は父と御子の関係を語っています。イエスは常に「父は私を愛しておられる。私は父に従う。父は極めて高い方である。私はその方の御前で極めて低い者である。」と強調されました。神はどのような方でしょうか? いのちの極致です。その方はどうして父と呼ばれるのでしょうか? その方が最も高い方でおられるためです。「あなたに神がおられますか?」という言葉は「あなたにいのちがありますか?」という言葉と同じです。私たちは父なる神と御子のこのような関係を体験することによって救いを得ますし、また、永遠のいのちを得ます。
イエスは「疲れた人、重荷を負っている者はすべて私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます!」といわれました。人々に重荷を負わせるのは律法です。律法は人々に苦行を要求します。律法の支配を受けている者は罪による呪いや刑罰から脱け出すために恵みを受けようとしません。その代わりに自分の良い行いによってそれを相殺しようとしたり苦行によってその代価を払おうとしたりします。彼らはそのようにして自分を抑圧している重いくびきから脱け出そうとします。しかし、イエスは「あなたがたは私のところに来て、私のくびきを負いなさい!」といわれます。
柔和で謙遜なイエスのくびきを負いなさい
イエスがどのような方であるために、その方のくびきを負いなさいというのでしょうか? その方は「私は心優しいです! 柔和です!」といわれました。柔和とは何でしょうか? イエスは「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから。」(マタイ5:5)といわれました。柔和な者はこの地で多くの人を得ることができます。柔和とは憎しみがないことです。柔和は子どもに対する母親の愛から発見することができます。子どもがどんなに問題を起こしたとしても、母親は子どもを憎むことがありません。私たちはもし誰かから悪意ある攻撃や迫害を継続して受けるのであれば、自分でも知らないうちにその人を憎むようになります。しかし、柔和な者はそれを克服します。
イエスは「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」(マタイ5:43~47)といわれました。敵を憎まないで、むしろ愛することが柔和です。
また、イエスは「私はへりくだっている! 謙遜である!」といわれました。その方は本来、神と等しい方でおられますが、自分を徹底的に低められました。これについてピリピ人への手紙2章6節は「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」といいました。このように父なる神の御前で自分を低めて死にまで従われた方が神の御子でした。その方を知って信じるのが福音です。
イエスは私たちに「私のくびきを負いなさい!」といわれました。イエスのくびきを負いなさいというのは恵みを受けなさいという意味です。律法のくびきは人が担うことができないほど大変であり、その荷が重いですが、イエスのくびきは負いやすく、その荷は軽いです。それにもかかわらず、人には「大変で重いものは自ら負おうとし、軽いものはむしろ無価値なものとして扱う。」という傾向があります。しかし、ただイエスのくびきだけが私たちをまことに休ませることができます。
恵みの中にとどまりなさい
ある人は「先生、とても悔しいです。どうしてあのような人が恵みを受けることができるのでしょうか? あの人が恵みを受けるのを見ると、恵みを受けようという思いがなくなってしまいます。」といいます。自分に罪を犯した者が罰を受けることを望む心は理解することができます。しかし、そのような心を選ばないで、克服しなければなりません。自分がエホバから学んだ者であるのか、そうでなければ、イエスから学んだ者であるのかを自ら証明しなければなりません。
イエスが刑罰を受けられたのは私たちに同じ刑罰を受けさせるためではありませんでした。その方は「罪人よ。あなたがたの罪の代価を払うために私がすでに刑罰を受けた。それゆえ、あなたがたはそれを再び担う必要がない。苦行によって救いを受けようとしないで、恵みを受けなさい!」といわれます。苦痛が臨んだときに「自分が罪を犯したので、このような代価を払うのは当然である。」と考えてはいけません。苦痛が臨んだのであれば、悔い改めて早くそこから脱け出してください。
ある人は「主日を聖く守らなければ、神の怒りが臨むかもしれない。」と考えて、無理やりに教会に来ます。そのような人は礼拝はささげますが、献金をするにしても、祈りをするにしても喜びがなく、無理やりにします。私たちがはっきりと知らなければならないのは「主日を聖く守るのは重いくびきではなく、自分の霊魂を祝福して豊かにする恵みのくびきである。」という点です。
恵みの中にとどまってください。イエスのくびきを負ってください。良心は絶えず人を罪に定めます。行為によって罪を犯したときは言うまでもなく、心で姦淫を犯したり、盗みを犯したり、誰かを憎んだりするときも良心は人を罪に定めます。そのように罪に定められるのであれば、神と遠ざかるしかありません。神と遠ざかった者は何か問題が生じるときに、それは自分が当然に担わなければならない罪の価であると考えるのであって、神の恵みを受けようとしません。
重いくびきを負った者は自分はもちろん、他の人が恵みを受けたという事実さえも認めません。彼らはしばしば「罪を犯したのであれば、罰を受けなければならない。恵みとは何事か?」といいます。しかし、恵みの中にとどまる者はたとえ罪を犯したとしても、それによって神の恵みをさらに深く体験します。これについてロ―マ人への手紙5章20節は「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」といいました。
十分の一や献金をささげるときにも感謝や喜びによってささげてください。惜しんだり強いられてしたりしてささげるのは恵みの中にとどまっていないためです。神は恵みを知らないで偽る者に「私の名をさげすむ祭司たちよ! 足なえや病気のものをささげるのは悪いことではないか? あなたの総督のところにそれを差し出してみなさい。それを喜んで受けるであろうか? 神殿の中に入って来ることができないように、神殿の扉を閉めなさい。」といわれます(マラキ1:6~10)。
良心のくびきを脱ぎ捨ててください。良心によってこの世を生きていくことには問題がありません。しかし、良心には聖霊の働きがありません。聖霊はただイエスのくびきにだけ働かれます。病気があるでしょうか? 恵みの中にとどまってください! 貧しいでしょうか? 恵みの中にとどまってください! さまざまな問題に囲まれているでしょうか? 恵みの中にとどまってください! 他の人が苦労もしないでやさしく救いを受けるのを見るのが苦しいでしょうか? 恵みの中にとどまってください! イエスのところに来て、その方のくびきを負って、その方から学んでください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 1. 28.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
牧会はイエス・キリストの聖なる血によって買い取られたキリスト者の霊魂を養育する職分である。イエスは教会に聖霊を遣わし、教会が聖霊によって教え、聖霊によって奉仕し、聖霊によって信じて望みをもって耐えることができるようにされた。それゆえ、「聖霊が臨まれるときに、力を受けて私の証人となる。」といわれた。
私、視無言は聖霊に召され、聖霊の導きを受け、伝道の働きをしたのちに聖霊の導きに従ってこの場所に聖楽教会を設立した。そのとき、私は「聖楽教会はただ聖霊によって成長する教会」となることを祈りながら、ただ聖霊によって説教をしてきた。聖霊の働きがないのであれば、私は何もすることができない。それゆえ、聖霊によって祈りながら、その方の霊感に満たされるように常に求めてきたし、そのようにして受けた霊感によって牧会をしてきた。
牧会は祈りと力と霊感に満たされなければならない。これまで大きな働きを前にするときにはまず祈って、霊感ある大きな応答を受けてきたし、霊感によって教会の成長を図ってきた。「人々の意見を求めるよりも主イエスに祈り求め、聖霊から知恵を得なければならない。」という信仰に満たされて、常に霊感を求めてきた。それで、説教も聖霊によって霊感を得た説教をしてきたし、礼拝堂を建てるためのすべての働きもただ祈って霊感を得て水火も辞すことなく進めてきた。
これまで40、50年間、熱心に聖霊だけを頼って牧会をしてきたが、今日、大きな試練を経験している。牧師が好き勝手に振る舞うというのである。しかし、私は好き勝手に振る舞ってきたのでなく、多く祈り、そのときに受けた霊感の応答をもって、恐れることなくこの世に勝利しながら働いてきたのである。礼拝堂も祈って得た霊感通りにスケッチし、設計者に提示してきたし、また、あらゆる点において祈って得た霊感を大きな力、大きな知恵と考えて働いてきた。
牧師は祈り、その祈りによって霊感を受けて牧会をする職分である。人々と相談して人間の意見をまとめて牧会をするのではない。イエス・キリストも祈られた。そして、弟子たちを教えられた。牧会は人の知恵によってするものではない。人の考えによってするものではない。ただ聖霊が命じられた働きをするのが牧会である。それゆえ、誰よりも多く祈りながら、ひとつずつなしていくのである。
しかし、牧会に大きな脅威となる人々の意見が牧師の霊感を侵害している。使徒たちは祈りと御言葉を伝える働きに専念しなければならないために、按手執事に奉仕の働きを委任した。按手執事も知恵と聖霊に満たされた者を選んで按手した。良い種を畑にまいたが、夜、敵が毒麦をまいた。それによって霊感と人の考えの葛藤を克服していかなければならないという大きな宿題を課されるようになった。
教会から霊的な奉仕者(ピリピ3:3)がますます消えていき、自分が聖霊によって働く奉仕者であるという信仰と望みの栄光を捨てて、自分を労働者に変身させている。どうすればいいのだろうか? これからは伝道師も任命しにくくなった。教会は聖霊によってだけ保存されなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室