イエスの名を呼び求めなさい
(ローマ人への手紙10:1~15)
神は
唯一の方でおられる
その方は
私たちの唯一のいのちでおられるし、(ヨハネ17:3)
唯一の救い主でおられる(ヨハネ3:16)
神はどのような方でおられるのか?
私たちの霊魂の唯一の方でおられるし、
私たちの霊魂の最初であり、最後でおられる(黙22:13)
それゆえ、
自分の名を守ろうとしないで、
イエスの名を守りなさい(Ⅱコリント13:5)
霊魂が生きて勝利するためには
イエスの名を呼び求めなさい
やみの権勢に勝利するためには(マタイ16:16~20)
イエスの名を呼び求めなさい
悪魔と悪霊に勝利するためには(マルコ16:17)
イエスの名を呼び求めなさい
罪と貧しさに勝利するためには
イエスの名を呼び求めなさい
聖霊によってだけ
その名に満たされるようになる
◌ 自分の情欲に勝利するためには
イエスの名をさらに声高に呼び求めなさい
イエスの名の権威を高めなさい
◌ 自分を救う御言葉は
自分の口にあり、自分の心にある
イエスの名を呼び求め、賛美しなさい
◌ イエスの名を呼び求める者は罪人ではなく、
神の子である
聖霊に満たされるのであれば、その方の名を呼び求める
※ イエスの名をさらに大きく呼び求めて火を灯しなさい
自分の霊魂に火を灯し、
自分の家庭に火を灯そう
イエスの名を呼び求めなさい
(ローマ人への手紙 10:1~15)
神のいのちを求めなさい
神は私たちを救うことができる唯一の方です。多くの人が権力や名誉や富が自分を救うと考え、それらを追求します。しかし、むしろそれらによって滅びる者もいます。それにもかかわらず、人々はそれらを得るために一度だけの生涯を浪費します。私たちがはっきりと知らなければならないのは神だけが唯一のいのちであり、いのちの極致でおられるという事実です。神を探すというのはいのちを探すということですし、「私の中に神がおられる」と認めるというのは「私の中にいのちがある」と認めるということです。
神を探すといいながらもいのちに関心をもたない者がいます。彼らは主日になると、礼拝に参加して賛美をし、説教を聞きますが、彼らが願うのはこれを通して心の平安を得る宗教生活に過ぎません。しかし、私たちの信仰は宗教ではありません。私たちがこの世でさまざまな苦難を経験しながらも信仰生活をするのはいのちを得てそれを永遠に所有するためです。
以前、多くの人がイエスに従いましたが、イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:54~55)といって永遠のいのちについて語られると、そのほとんどがその方を離れました。イエスが語られた永遠のいのちが自分とは関係がないと考えたためです。イエスが「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネ6:26)といわれたように、彼らが願ったのは永遠のいのちではなく、イエスを通して得ることができる現実的な利益に過ぎなかったのです。
善悪ではない信仰によって得る神の義
宗教生活をする者は自分の良心を義と考えます。彼らは良心を基準として何が正しいのか、正しくないのかを区分しますし、自分の良心を満足させる生活をします。しかし、それは神の御前で何の意味もありません。律法は信仰を基礎とした良心をイスラエル人に提供しました。そのような良心は人に自分が罪人であるという事実を悟らせ、悔い改めさせることにおいて重要な役割をします。そのような側面で良心はイエス・キリストの福音が宣べ伝えられる過程においても一定の役割をすると見ることができます。しかし、問題は人々が福音を受け入れたのちにも続けて良心を基準として自分や他の人を義と認めたり、不義であると罪に定めたりするという点です。
永遠のいのちを得るのか、得ることができないのかという基準は良心によって判断された善悪にあるわけではありません。良心を義とするというのは律法によって義と認められようとするということですし、呪いの下にいることを選択するということです。ガラテヤ人への手紙3章10節は「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」といいました。良心を頼る者は自分の期待と異なり、結局、罪に定められて滅びるようになります。
良心のしもべとなった者は倫理的な次元の善悪を論じます。しかし、善悪の問題はエデンの園で人の霊魂が死んだときにすでに終わりました。そのときから救いは善悪によって左右されなくなりました。イエスが再び来て義なる者を救われますが、果たして義なる者とはどのような者でしょうか? イエスによって認められる義なる者とは良心に従って善良な生涯を送る者ではなく、信仰をもつ者です。
ローマ人への手紙10章2~3節は「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」といいました。自分の義を立てようとする者は神の義に服従しません。イエス・キリストは信じる者すべてに義をなすために律法の終点となられました。それゆえ、救いを受けるためにはイエスが成就されたことを信じてその名を呼ばなければなりません。自分の良心に従って善悪を区別する生涯は救いと何の関係もありません。人が善悪を区別するようになったのは悪魔がエデンの園で生きていた者を惑わすことによってはじまったのではないでしょうか? その結果は神の義を所有するというものではなく、むしろその反対でした。
アダムの中にいた人類にいのちと永遠のいのちを与えられたイエス
人類はアダムの中でその霊が死にました。人類の中で、ある人は霊が死に、ある人は霊が死ななかったわけではありません。霊の死は個人の行為によってではありませんでした。最初の人アダムが神に従わなかったために、その中にいる全人類の霊が死んだのです。それによって全人類は将来、地獄に行くようになりました。これについてローマ人への手紙5章12節は「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。」といいました。要するに、人が地獄に行くようになったのは各人の悪行によってではなく、アダムの罪によってでした。
将来の地獄の刑罰から人を救う方法はアダムの罪を相殺することでした。そのようにしてこそ、アダムの中で死んでいた人類の霊を生かすことができました。アダムの中で滅びるようになった霊の境遇を、個人の善良な行為を通して変えることができるわけではありませんでした。アダムの罪が人類の霊を死に至らせたので、その霊を生かすためにはアダムの罪の価を払わなければなりませんでした。このために神が自分の御子を最後のアダムとしてこの世に遣わされました。その御子がイエス・キリストでおられます。これについてローマ人への手紙5章19節は「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」といいました。
イエスは十字架で血を流して死なれました。人々はその姿を見てイエスを罪人と考えました。しかし、その方が死刑を受けられたのは自分の罪によってではありませんでした。その方には罪がありませんでした。誰がその事実を証しすることができるでしょうか? これを証ししたのは他ならぬ神でおられました。神はイエスを死んだ者の中からよみがえらせることによってイエスの義を証しされました。これについて使徒の働き3章14~15節は「そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」といいました。
イエスの復活は十字架の死がイエス自身の罪によるものではなかったということを現しました。それでは、神はどうして罪がない神の御子が十字架につけられて死ぬのをただ黙って見ておられたのでしょうか? 神はイエスにアダムの罪を代わりに贖わせたのです。最後のアダムは最初のアダムの罪を負って刑罰を受け、それによって最初のアダムの罪をきれいに解決されたのです。それゆえ、最初のアダムの中にいる人類は罪の負債を自ら返す必要がなくなりました。
教会の外にいる不信者であっても、その罪の価はすでに払われた状態です。最後のアダムの死は特定の人の罪でなく、最初のアダムの罪を解決したために、最初のアダムに属した全人類の罪が贖われたのです。今はこの世にアダムの罪によって地獄に行く者は誰もいません。イエスが成就されたことを受け入れないために、地獄に行くのです。それゆえ、それぞれがイエスが血を流して成就されたことを認め、その功労を受けなければなりません。そして、その霊が生き返らなければなりません。イエスが語られた通りに、その方の血を飲んでいのちを得て、その方の肉を食べて永遠のいのちを得なければならないのです。
イエスの名を呼びなさい
ローマ人への手紙10章13節は「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」といいました。神は自分の名を私たちに知らせました。イエスという名は単なるナザレの青年の名ではありません。その名は本来、父なる神の御名です。父なる神がその名を御子に相続財産として与えられましたし、聖霊がその名によって私たちに臨まれました。その名は父なる神の名ですし、御子の名ですし、聖霊の名です。イエスの弟子たちはこれをはっきりと知っていたために、「あらゆる国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。」という主の御言葉に従ってバプテスマを授けるときにも常にイエス・キリストの名によって授けたのです(使10:48)。
私たちは神を目で見たことがありません。しかし、神の御名を呼ぶことによって神の存在を認めます。これは田舎に住む農夫が生涯、王の顔を見たことがなかったとしても王の名を呼ぶことによってその存在を認めるのと同じです。礼拝は神の顔を見るものです。見えない神の顔をどのような方法によって見るのでしょうか? 神の御名、すなわちイエスの名を呼ぶことによって神を見るのです。イエスの名を呼ぶのは唯一の神を知るために可能なことです。目で神を見ようとしないで、イエスの名を呼んでください。
以前は神の御名を知らなかったために、神を呼ぶときに「主よ! 主よ!」というしかありませんでした。しかし、私たちはイエスという名を知りました。イエスの名を呼んでください。もちろんただ「イエスよ! イエスよ!」と発音したからといって、神が無条件、耳を傾けられるわけではありません。イスラエル人の中でイエスという名をもつ者は数え切れないほど多くいました。イエスの名を呼ぶときに、その名が父と子と聖霊が共有される名であるということをはっきりと知らなければなりません。私たちがイエスの名を呼ぶのであれば、父が聞かれますし、御子が聞かれますし、聖霊が聞かれます。
祈るにしてもイエスの名を信じてその名によって祈らなければなりません。礼拝をささげるにしてもイエスの名を信じてその名によって礼拝しなければなりません。病気を癒すにしてもイエスの名を信じてその名によって癒さなければなりません。御言葉に接するときにもイエスの名を信じてその名によって従わなければなりません。イエスの名が私たちを救いますし、癒します。私たちはこの世で神の助けが必要となる極限状況に遭遇します。そのようなときに神の御名を呼んでください。「イエスよ! イエスよ!」と呼び求めてください。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)という御言葉がイエスの名を呼ぶ者に成就されます。
翻訳:聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 2. 4.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私の霊魂は生きておられる神を知り、その方の御名を知り、その御名によってこの世に現れたイマヌエル、人でおられるナザレ人を知って、本当に多くの涙を流した。私の生涯に現れた神は高い宮殿で絹の服を着て輝かしい権威をもった方ではなく、普通の人であった。貧しい庶民であり、外見的にも特別な容姿をもたなかった。職業も重労働の大工の息子という身分をもってこの世に現れた。私はその方が私の神でおられるという聖霊の御言葉を聞いたときに、衝撃を受けた。私たちの神は私から遠いところにおられる方ではなく、また、会うことがむずかしい方ではなかった。私の境遇と異なるところがなく、そばに近づいていったとしても恥ずかしくない方でおられた。私はその方が私たちの神でおられるということを知って、大きな喜びと衝撃を受けた。
「神」という呼び名は人の命よりも、霊魂のいのちよりも大きい、永遠のいのちの真理でおられるいのちの極致を称する名詞であり、私の霊魂を生かす永遠のいのちの極致である。それゆえ、その方を父と呼ぶ。父とは最も高くて大きな唯一の方を意味する。その方は人々が願い通りに御子を殺し、また、確信犯として殺すまでじっとしておられた。そして、死んで墓に葬られてから3日後にその御子を死んだ者の中から聖霊によって生かされた。御子は弟子たち数百人が見守る中で天に上って神の右の座に着き、そこで国と力と栄光を父から受けられた。そして、父に求めて、助け主でおられる聖霊をこの世に遣わされた。今日、私たちが信じる通りにその方が私の霊魂に臨まれた。
聖霊はイエスを死から生かされた方である。その霊が私たちの中に入って来られるのであれば、その方が私たちの死ぬべき体も生かしてくださる。それゆえ、聖霊を受け、聖霊が語らせる通りに異言を語り、聖霊によってイエスの名を呼び、イエスの名が私の霊魂におられるという証しを受け、これを悪霊が知って震えて出て行くという現象を数十万件、目にしてきた。これは私が聖霊を受けたということ、私が主の働き手であるということ、主が私とともにしておられるということを体験させたのである。
それゆえ、私は自分の霊、魂、体をすべてささげて献身することにし、主にそのすべてをささげてきた。私が主を選んだのではなく、主が私を選んで主のしもべとしてくださったのである。そのとき、主は偉大なる弟子たちに語られた御言葉をそのまま私にも語り、「誰でも私について来たいと思うのであれば、自分を捨て、父、母、妻、子ども、畑まで捨てて、自分の十字架の戒めを受けて、私について来なさい。そうすれば、私の弟子となる。」といわれた。
私は自分を神にささげた聖職者である。私は勤労者ではなく、神が願われる通りに用いられたとしても「主よ。しもべは役に立たないしもべです。」というだけである。私はその方のものである。一日24時間、すべてをささげ、生涯をすべてささげ、その方の働きだけをするその方の働き手である。私は聖なる職分を受けた者である。 アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室