良い木の実
(マタイの福音書7:15~23)
神は
公義の神でおられる
その方は
この世を判断するときに公義によって判断される
この世には良い木と悪い木がそれぞれある
良い木は良い実を結ぶし、
悪い木は悪い実を結ぶ
律法は悪い実を結ぶし、(Ⅰコリント15:56)
福音は良い実を結ぶ(Ⅰコリント15:57)
悪い実は罪に定めるものであるし、(Ⅰコリント15:19~21)
良い実は愛するものである(ガラテヤ5:22)
木の良し悪しはその実によって知ることができる
私たちはどのような実を結ばなければならないのか
律法に縛られて生きるのであれば、良い実を結ぶことができないし、
恵みの中で生きるのであれば、悪い実を結ぶことはない
その実によって木を分別する
今まで生きてきた実が何であるのか
良い実であるのか?
悪い実であるのか?
「主よ、主よ」といったからといって、すべてが良い木ではない
神の御心通りにするものだけが良い木である(Ⅰコリント15:58)
私たちはすべて良い木となって、
良い実を結ぼう
神の御心通りに良い実を結ぼう
聖霊によってだけ良い実を結ぶことができる
イエスの国に栄光を帰してこそ
良い実である
神の御心をなしてこそ良い木である
その実によって知ることができる
主イエスととともにしてこそ良い実である
私たちの教会は良い木である
良い実を多く結んで、
神に栄光を帰そう
良い木の実 (マタイの福音書 7:15~23)
公義の裁きと信仰による義
神は公義の神でおられます。公義とは神自身も守られる神の法をいいます。神がアダムに「善悪を知る木からは取って食べてはいけない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ!」といわれると、それが公義となり、善悪を知る木の実を食べたアダムは永遠の刑罰を避けることができなくなりました。神はそのようなアダムを救うために自分の御子をこの世に遣わし、アダムの罪を負わせ、十字架で血を流させて死なせました。公義とはこのように神の御子であっても避けることができないものです。
問題はすべての被造物に将来、公義の裁きが臨むという点です。そのときには多くの天使と人々が地獄の火の池に投げ込まれて永遠の刑罰を受けるようになりますし、神から義とされた者だけが滅びないで永遠のいのちを得ます。神が一度、義とされたのであれば、どのような法や被造物もその人に害を与えることができません。神が「あなたは義とされた! 」と認められるのであれば、それも公義であるためです。
それでは、どのような者が義とされたという証しを受けるのでしょうか? 信仰がある者です。この信仰とは人の心の中から湧き出て来る信念ではなく、神から啓示された信仰をいいます。その信仰は神から出て来た、神自身の信仰です。その信仰が私たちの中にあるときに、神は私たちを義と証しされます。その証しは律法よりも強いために、律法がどんなに厳格な物差しを突きつけたとしても、私たちは罪に定められることがありません。その証しは神が自分の御子を置いて誓われたものであるためです。
この世に罪がない者はいません。一度も盗みや偽りを犯したことがなかったとしても同じです。イエスは「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27~28)といわれました。どんなに品行が完全であったとしても心ではすでに罪を犯したということを神は知っておられます。それゆえ、人が自分の義によって救いを受けることはできません。人が救いを受ける唯一の道は神から与えられた信仰を所有することですし、それが私たちが福音を伝える理由でもあります。
律法への回帰は地獄に向かう方向転換
私たちはイエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。バプテスマのヨハネが水で授けたバプテスマは人の肉体に体験をもたらしましたが、霊魂には体験をもたらしませんでした。イエス・キリストの命令に従い、その名によって受けるバプテスマはそれと異なります。そのバプテスマは水と聖霊によって受けるバプテスマであり、人の肉体と霊魂の両方に体験をもたらします。バプテスマのヨハネが授けたバプテスマを受けた者は「私は罪人です。」と告白しましたが、それによって霊魂が救いを受けることはありませんでした。しかし、イエス・キリストの名によって受けるバプテスマは私たちの霊魂を救います。
ノアの家族8人が洪水から救いを受けたことについて、ペテロの手紙第一3章20~21節は「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」といいました。イスラエルはエジプトから出て来て紅海を渡りました。これについてコリント人への手紙第一10章2節は彼らが海でバプテスマを受けたといいました。このようにバプテスマを受けた者は古い人を葬ったのちにイエス・キリストと結びつき、それによって神から受ける待遇をイエスの中でともに受けるようになります。バプテスマを無視してはいけません。バプテスマは神と人を結びつけるものです。バプテスマを受けたにもかかわらず再びバプテスマを受けなければならないと感じるほど確信をもたないのであれば、その人はイエス・キリストと結びついた者ではありません。
私たちはイエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。それゆえ、これ以上、罪人ではありません。神はすでに私たちを義としてくださいました。以前、私たちが罪人であったときには呪いと死が私たちを支配していましたが、今は平安といのちが私たちを支配しています。それゆえ、救いを受けた者が今になって律法の下にいようとするのは愚かなことです。律法は人間が堕落したのちに与えられた法ですし、その役割自体が人を罪に定めることです。すでにイエス・キリストと結びついた者が再び律法に帰ろうとするのは天国に向かっていた者が再び地獄に向かって方向転換をするようなものです。
良い木と悪い木
イエスは「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ7:17~18)といわれました。「良い木」や「良い実」というと、多くの人は貧しい人を助ける救済活動や他の人に配慮する親切な言動を思い浮かべます。関心が善悪を分別することに集中しているのです。
律法は人に善悪を分別させます。神が400年以上、エジプトで生活をしてきたイスラエルに律法を与えられたのは彼らに信仰良心を与え、それによって善悪を分別させるためでした。異邦人にとって律法と同じ役割をするのは良心です。異邦人には律法が与えられませんでしたが、彼らがもっている良心が善悪を分別する基準となります。このように律法や良心はすべての人に善悪を分別させます。神がこれを通して人々から得ようとしたのは「私は罪人です!」という告白でした。律法や良心の前で罪に定められるのを避けることができる者は誰もいません。
ある人は良心的に自分がきれいであるといいます。しかし、自分の罪を悟ることができないからといって、実際にその人に罪がないわけではありません。重要なのは人の判断ではなく、神の判断です。毒薬を飲むのであれば、それが毒薬であるのを知らなかったとしても死にます。善悪を分別し、それに合う行動をし、それによって義とされようとする試みは何の意味ももたないだけではなく、むしろ人を神の恵みから離れさせます。
ガラテヤ人への手紙5章4節は「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」といいました。枝が木から離れるのであれば、何をすることができるでしょうか? イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)といわれました。キリストから離れた者がどうして神が願われる実を結ぶことができるでしょうか? そして、実を結ばない枝がどうして完全に保存されることがあるでしょうか?
良い木とはキリストに属する者を指しますし、悪い木とは律法に属する者を指します。イエスはたとえを用いてこれを語られましたが、そうだからと言って、それを徳のある言葉くらいに理解してはいけません。イエスは永遠に滅びるようになった人類を救うためにこの世に来られたのであって、余裕をもって徳のある言葉を語るために来られたのではありません。イエスは律法によって罪に定められたイスラエル、そして、律法はなかったとしても良心によって罪に定められた人類を救うために来られたのです。
イエスがなさった働きの中で最も注目すべきものは十字架で血を流して死んだことでした。神と私たちの間は罪の壁によってふさがれていました。イエスは律法の要求通りに十字架につけられて死ぬことによって、神と私たちの間にあった罪の壁を壊してしまわれました。それゆえ、イエスの中にいる者は律法や良心に対して死んだ者です。それらを物差しとして善悪を分別するのはこれ以上、何の意味もありません。
良い木の実と悪い木の実
イエスは「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは強欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」(マタイ7:15~16)といわれました。神の御言葉を伝えるといいながらも依然として律法や良心を基準として他の人を罪に定めている者は偽預言者に過ぎません。
彼らの実は何でしょうか? コリント人への手紙第一15章56節は「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」といいました。律法があるところで罪が働き、罪があ るところで死が存在するというのです。それゆえ、律法の下にいようとするのは呪いの下にいようとするのと異なるところがありません。宗教人が求めるのは恵みではなく、個人の義です。彼らは自分が善良に生きるために努力していると考えますが、そのような自己満足は自分に与えられた恵みの機会を受けることができないようにするだけです。
ヨハネの福音書1章17節は「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」といいました。みなさんはどのような木でしょうか? 恵みと真理に根を下ろした木でしょうか? それならば、みなさんは平安といのちの実を結びます。しかし、みなさんが律法に根を下ろした木であるのならば、罪と死の実以外の別の実を結ぶことはありません。
聖霊に満たされ、教会生活を熱心にしていた者も一度、善悪を分別しはじめると、砂の上に建てられた家のように、瞬間的に倒れることがあります(マタイ7:24~27)。私たちは善悪を分別する良心の人ではなく、恵みの中にとどまる聖霊の人とならなければなりません。キリストから離れて恵みから落ちた者とならないで、神から義とされる者とならなければなりません。ぶどうの木について、良い実を結ぶ枝とならなければなりません。
神から義とされた者を善悪によって判断して罪に定めるのは正しいことではありません。律法だけではなく、恵みも戒めです。律法を無視するのであれば、肉体が呪いや刑罰を受けます。それと同じように、恵みを無視するのであれば、霊魂が呪いや刑罰を受けます。律法の戒めは恐れながらも、どうして恵みの戒めは恐れないのでしょうか?
恵みを受けなければなりません。私たちは恵みがなければ、地獄に行くしかない罪人です。恵みを受けた者だけが他の人の霊魂を生かすことができます。律法に属する悪い木は人の霊魂に呪いと死をもたらすだけです。イエス・キリストがこの世に来られた目的を無視しないで、恵みに根を下ろした良い木となりましょう。
翻訳:聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 2. 18.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
牛が引いて行く通りに、鋤は固い地面を掘り返していく。そして、その畑に種がまかれると、不思議にも新しいいのちが芽生え、穀物が出て来る。牛は畑を耕さなければならないし、鋤は地面を掘り返さなければならない。働かない牛は屠殺場に送られるし、働かない鋤は錆びてしまう。牛や鋤は農夫が追いやる通りに進みながら、畝を作る。
私は牛である。自分の思い通りにするのではなく、主人の声を聞いて、全身が壊れるくらいにくびきを負って力を尽くして畑を耕さなければならない。日が昇れば、野に出て行って働く牛。日が暮れてこそ牛小屋に帰って来る牛。しかし、主人の命令なしには野に出て行ったり牛小屋に帰って来たりすることはない。
毎日、同じことを繰り返しながら、主人の夢を助ける。主人は畑に野菜を植えたとしても、穀物を植えたとしても、自分の思い通りにする。それゆえ、牛は何を植えるために畑を耕すのかを考えたりしない。ただ主人が追いやる通りに進むだけである。砂利が混ざった畑であれ、渇いた畑であれ、水田であれ、荒野であれ、くびきを負って引かなければならない。ただ主人に用いられるために生まれ、生涯、働き手として生き、主人によって最後を迎える。牛が急に犬になることも豚になることもできない。牛は牛である。牛は主人のものである。主人の働きを助ける働き手である。
私は生涯、忙しいし、ただ力を尽くさなければならない。そして、主人が与えるものだけを自分の分として食べる。私は今日もしなければならないことを知っている。手綱は主人の手に握られているし、夜が明ければ、主人が追いやる通りに野に出て行って働かなければならない。物知らずの小牛は主人の手に捕まれて畑を耕す親牛を見て、あちらこちら暴れ回る。いつかはその小牛も主人の奴隷となるために鼻に穴を開け、鼻が裂けるほど手綱に引っ張られて引かれて行かなければならない運命にある。
私には主の手から脱け出す力も資格もない。ただ主人の働き手として働く牛に過ぎない。そして、最後に復活という目標に向かってこの世を離れる。そのときまでにしなければならないことがある。まだ本を書きたいし、詩を書きたい。そして、説教をして、霊魂を救わなければならない。私が伝える言葉は私が行くところについて語っている。私は自分が行くところとすべきことを知っているために、語ろうとする。
新年のあいさつを受けるときに、「新年、健康でありますように。平安がありますように。」という言葉を多く聞いた。果たして新年がどのような日々となるのかはよくわからないが、私にとって平安とはただ主とともにいることであるし、健康とは休まないで働くことである。私は休みたくない。死ぬ日まで働き、息を引き取る瞬間まで働こうとする。
「主よ、私はあなたの畑を耕す牛です。私を追いやってください。むちで打ってください。さらに力を出すことができるように・・・」
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室