
聖日を聖く守りなさい
(へブル人への手紙10:19~25)
神は
父でおられる
その方が
御子のために世界とすべてのものを造られた(へブル1:2)
そして、御子に相続しようとされた(へブル1:3)
御子は謙遜にこれに従って、(ピリピ2:6~8)
死を味わおうとしてこの世に来られたが、これは(へブル2:9)
自分に与えられたすべてのものを受けるためであった(ヨハネ17:6)
血によって買い取られた霊魂のために
聖霊を与えられたが、印を押して守るためであった(Ⅱコリント1:21)
聖霊は教会を造って、これを(使20:28)
イエス・キリストの体と呼ばれたが、これは(エペソ1:23)
散らばることがないようにするためであった(ヨハネ10:11)
聖日は善悪を知る木の実のような厳しい戒めである
安息日や主日はすべて主の日である(マルコ2:27~28)
安息日を犯した者が生きることができないように、
主日もこれと同じように聖い(イザヤ58:13)
主の日を待ち望む者は当然に聖い
この聖なる日に
イエスがよみがえられ、
聖霊が臨まれたということを覚えなさい(へブル10:23~25)
教会は主の体である
聖日は主の体に聖く仕える日である
聖日と主の日はひとつである
集まることをやめるのは
主イエスを廃することであり、
主イエスに背くことになる
主日を聖く守るのは
主イエスが再び来られることを待ち望む信仰である
主イエスの命令である
聖日を聖く守ろう
この世に勝利する信仰を見せよう
主イエスを迎え入れるように、喜びの日でなければならない
聖日を聖く守りなさい (へブル人への手紙 10:19~25)
神の御前で従って服従した御子のように
神は父でおられます。私たちは神が父でおられるという事実を本来、知ることができませんでしたが、神の御子がこの地に現れたことによってその事実を知るようになりました。初めに御言葉がありました。その御言葉が神とともにあったために、その御言葉が神です。その御言葉が肉体となって来たのがイエスです。神はその方を指して愛する子と証しされましたし、その方は神を父と呼ばれました。
父なる神と御子は神として等しいです。しかし、神の御子は父を指して「父は私よりも偉大な方でおられる。」といわれました(ヨハネ14:28)。神の御子は父の御前で自分を低められたのです。イエスは自分を指して「私は心優しく、へりくだっている!」といわれました(マタイ11:29)。その御言葉通りにその方はどのような状況であっても苛立ったり怒ったりしないで父に従い、また、服従されました。
従順とは命じた者の意図を理解し、共感し、その命令に従うことです。また、服従とは命じた者の意図を理解することができなかったとしてもその人を尊重してその命令に従うことです。私たちが目で見ることができなかったとしても神を知るようになったのは神の御子が父の命令に従われたためであり、死にまで服従することによって神の御心を完全に現されたためです。
このように父なる神と御子の間でなされたことを知るのが福音です。神は自分の御心をなすために御子をこの世に遣わされましたし、御子はこの世に来て自分の思い通りにしないでただ父の御心を行われました。私たちの信仰は父なる神と御子の間でなされたことを知り、御子が父の御前でなさったように、神の御前で従って服従するものです。
信仰の初めの実を最後まで
キリスト者はアダムが善悪を知る木の実を食べた事件がどんなに深刻な結果をもたらしたのかを知っています。木の実を食べたという行為自体に問題があったわけではありません。神が善悪を知る木の実を指して「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と予め語られたために、それを食べたアダムは死を避けることができなくなりました。戒めを犯すというのはそのように恐ろしいことです。それでは、善悪を知る木の実の戒め以外の、神から与えられた戒めは気にしなくてもいいのでしょうか?
信仰生活をはじめるときに神についてよく知らないながらも体験する恵みとは何でしょうか? それは「主日を聖く守ること」です。誰でも信仰をもとうとする者は主日に教会を訪れて、そこで礼拝をささげます。礼拝とは救いを受けたのちに初めて得ることができる実です。ヨハネの黙示録14章4節はイスラエルの中で将来、小羊とともにいて新しい歌を歌うことができる14万4000人について「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」といいました。将来、第一の復活に参加するためには信仰の初穂として主日を聖く守ることだけはどのような環境であっても変わることなく、最後まで維持されなければなりません。
聖日を聖く守ることは自分自身のため
聖日は神が六日間、天地を造って第七日目に自分の働きを休まれたことからはじまりました。創世記2章2節は「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」といいました。神はシナイ山でイスラエルと契約を結んだときに、彼らにこの日を覚えさせ、安息日を守らせました。それは一種の預言でした。イエスは父の御心通りにこの地に来て、父から命じられた働きをすべて成就し、十字架で「完了した!」と叫んだのちに息を引き取られました(ヨハネ19:30)。そして、その翌日には墓で自分の働きを休まれました。その日は安息日でした。
週の初めの日、イエスはよみがえられました。よみがえったその方の体は霊的な体でした。その方は天に上ってそこから聖霊を遣わし、それによって自分の体を建てられましたが、それが教会です。教会はイエスの体です。墓にある死んだ体ではなく、よみがえられた体です! 私たちはそれぞれ主の体を構成する器官です。私たちが主日に集まるというのは主の完全な体をなすということです。
イエスは「人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:28)といわれました。イエスは主日だけでなく、安息日にも主人です。六日間、天地を造り、第七日目に休まれた方がイエスです。その日に「何もしてはいけない。」という戒めを与えられた方もイエスです。その方は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)といわれました。多くの人が「聖日のために自分が犠牲となっている。」と考えます。しかし、聖日を守るのは聖日のために自分を犠牲にすることではありません。聖日を守るのはむしろ自分の霊魂のためです。私たちはそれをはっきりと知らなければなりません。
聖日を切に慕い求める心
週の初めの日はイエスがよみがえられた日であり、聖霊が臨まれた日です。聖霊が私たちに臨まれたというのはイエスが私たちの中におられるという事実を確証します。それゆえ、聖霊が与えられたのであれば、何でも積極的に受けなければなりません。ある人は聖霊によって異言を語りながらも、しばらくすると、それをつまらないものと考えて使わなくなります。これは自分の霊魂を虐待する行為です。私たちは聖霊から与えられるものであるのならば何でも歓迎しなければなりません。聖霊は異言だけでなく、あらゆる良い賜物を私たちに与えようとされます。これを慕い求める者は切なる心をもって主日を待ち望みます。
聖日は私たちが主の復活の知らせを聞いたのちに聖霊に召されてもつようになった最初の体験です。ところが、聖書は「聖霊にあずかったのちに墮落してしまうのならば、そのような者を再び悔い改めに立ち返らせることはできない。」と警告しています(ヘブル6:4~6)。主日を聖く守ることこそ聖霊にあずかる最初の体験です。この体験の価値を悟りながらも、それを軽く考えるのであれば、果たしてその結果はどうなるでしょうか? 主日を聖く守っていた者がどのような理由であれ主日を犯すのであれば、初めは不安を感じます。しかし、それが繰り返されると、ある瞬間からその不安は消え、のちにはむしろ自分の行動を合理化しようとします。
神が私たちに聖日を守らせるのはいのちを与えるためであって、私たちのいのちを取り去るためではありません。聖日はいのちと同じです。それゆえ、主日はどのような環境や条件の中であっても聖く守らなければなりません。神から施される恵みを拒まないで、聖霊にあずかって自分の霊魂に益を与えなければなりません。婚約した花嫁は花婿を待ち望みますが、そのような切実な心をもって主日を待ち望まなければなりません。
それゆえ、パウロは「毎週、主日に教会に出て来るときに、供え物をいやいやながらでなく、強いられてでもなく、予め準備しなさい。」と強調しました(Ⅰコリント16:1~2、Ⅱコリント9:5~7)。パウロがこれを強調したのはイエスが語られたように、宝のあるところに心もあるためです(マタイ6:21)。主日にささげる供え物を予め準備するのであれば、それは「主日、神に出て行って恵みを受けなければならない! 御言葉を受けなければならない! 聖霊の賜物を受けなければならない!」と慕い求める心がその人に満ちているということを物語っています。
集まることをやめないで、励まし合いなさい。
イエスが十字架で死なれたというのは神と人の間をふさいでいた壁を壊してしまわれたということです。旧約時代の神殿には聖所と至聖所がありました。聖所は祭司たちが毎日、入って行って神に仕えるところでした。また、至聖所は神の御名を置いたところであり、大祭司が一年に一度だけ入って行くことができました。聖所と至聖所は幕によって区分されていましたが、イエスが十字架で息を引き取られたときに、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マルコ15:38)。これは神と人の間をふさいでいた罪が消えてなくなったということを物語っています。もう一度言うと、イエスが十字架で死なれたことによって、人を罪に定めていた律法がその役割を終えたのです。
ヘブル人への手紙10章19~20節は「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」といいました。イエスの血を頼る者には望みがあります。それは「将来、復活して、イエスが上られた天に行く。」という望みです。重要なのはイエスが再び来られる日までその望みを守ることです。そのためには聖徒が続けて集まって、互いに顧みて、励まし合わなければなりせん。これについて23~25節は「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」といいました。主が来られる日を待ち望むのであれば、集まることをやめる者を見習わないで、続けて集まらなければなりません。
木から絶えず樹液の供給を受けなさい
イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)といわれました。ぶどうの木の枝は木についていてこそ実を結びます。また、枝が木についていたとしても、樹液を受けないのであれば、その枝は枯れて、結局、折れるしかありません。私たちはぶどうの木から絶えず樹液の供給を受ける枝とならなければなりません。そのためには主日を聖く守ることが基本とならなければなりません。主日を聖く守るのは自分を犠牲にすることではなく、神から与えられる良いものを受けることです。聖霊の賜物を受けることであり、神の愛を受けることであり、いのちを受けることです。
ヘブル人への手紙10章26~27節は「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」といいました。真理を知りながらも以前の生活に戻るのであれば、二度と罪の贖いを受けることができません。その人が行くところは永遠に消えることがない硫黄の火の池です。そのような悲惨な最後を迎えないためには主日を聖く守ることが基本とならなければなりません。聖霊にあずかりながらも再び堕落してはいけません。聖霊にあずかったのであれば、生涯、聖霊の導きを受けなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 2. 25.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私が既存の教会に赴任しないで大変な開拓の道を選んだのは既存の教会の矛盾をそのまま認めたくなかったためである。牧師は神から選ばれて立てられた者である。人から出て来たのではなく、神の御心にしたがって聖霊によって立てられたのである。神によって立てられた者が神の御心通りに働かないのであれば、神から捨てられるし、神から願われるのであれば、しっかりと立てられる。
牧師は教会に雇われた者でない。神から遣わされ、そこで命をすべてささげて働く神のしもべである。しかし、教会が世俗化し、「神のしもべとして召されて選ばれた者が結局、人のしもべに堕落する。」という現象が目撃されている。私は「生涯、人に雇われる人のしもべとならないで、ただ神に雇われる神のしもべとなる。」と決断し、新しい秩序の教会を作るために教会を開拓し、生涯、ひとつの道を歩んできた。それゆえ、ただ神に霊感を求め、神から与えられる戒めや知恵、知識、力によってだけ働こうとしてきた。
教会が成長して大きな教会となったとしても、教会で働く牧師を他のところから招かないで、ただ監督が教え、按手をし、牧師として立てるという伝統を守ろうとする。ぶどうの木から枝が出て来て、また、その枝からさらに小さな枝が出て来るように、農夫が育てた根から木が出て来て、そこから枝が出て来て、実を結ばなければならない。
信仰はただ神から出て来なければならない。人の常識、意志、考えにしたがって出て来るのではない。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12~13)という御言葉のように、牧師は人から出て来る者ではなくて、神によって生まれた者でなければならない。
それゆえ、私はできる限り他の教会や他のところから牧師を招いて副牧師としないで、ぶどうの木の枝のように監督が弟子とし、教え、また、守らせ、教会の働きをさせる。しかし、枝が自ら木を離れるのであれば、自然に枯れてしまい、結局、何もすることができない(ヨハネ15:5)。それゆえ、既存の教団や既存の教団の誤謬を踏襲しないために私だけの新しい教会を立てようとしたし、困難で苦しい開拓者として立てられたのである。
監督は人のしもべでない。神のしもべである。副牧師も人のしもべではない。神のしもべであり、ただ元の木の枝についてともにぶどうの木を形成する(ヨハネ15:4)。何が神のしもべであるのか、何が人のしもべであるのかを分別しなければならない。私は神にだけ属した神のしもべとなるために神の啓示だけを受けた開拓者として生きてきたのである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室