
イエス、死刑宣告を受けられる
(マタイの福音書27:11~26)
神は
完全無欠でおられる
その方が
御子のためにしようとした働きをすべて成し遂げて
栄光を受け、人類を救われた(ヨハネ19:30)
イエスに死刑宣告が下されたが、
十字架につけるように判決を下されたのである(ヨハネ19:15~16)
十字架は死であり、呪いの木である(ガラテヤ3:13)
そのとき、
ユダヤ人の王が死んで、(ヨハネ19:19)
神の御子が生き返られた(使2:32)
律法が死んで、(へブル8:13)
真理が復活した(ヨハネ16:13~14)
人類の罪が死んで、(ローマ7:6)
神の義が生き返った(ローマ8:33)
・最初のアダムが死んで、(ローマ5:19)
最後のアダムが生き返られた(ローマ5:17)
・初めの契約が廃棄され、(へブル7:18)
新しい契約が立てられた(へブル8:8~10)
・ピラトによって無罪のナザレ人が死んで、(マタイ27:24)
聖霊によって福音を信じる者の中でよみがえられた(ヨハネ14:17)
◌ 教会の中で誰が生きているのか?
イエス・キリストでおられる
主イエスは私たちの霊魂を救う方でおられる
◌ 誰が私たちの家庭の主人であろうか?
十字架で死んで生き返った
イエス・キリストでおられるが、その方は永遠ないのちでおられる
◌ 誰が私たちの霊魂を主管するのか?
聖霊によって、聖霊の力によって
イエスが主管される
※ この事実は歴史的に
天と地で同時になされた、
神の永遠の意図である
イエス、死刑宣告を受けられる (マタイの福音書 27:11~26)
完全無欠なる神の御心通りに生まれ変わった私たち
神は完全無欠でおられます。ある人は「神がおられるのであれば、どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?」といいます。耐えがたいことに遭って苦しんでいるのは理解しますが、自分が受けている呪いを神のせいにして神を恨むのは適切ではありません。キリストに属した者であるのならば、神が完全無欠でおられるということを信じなければなりません。
神はどのようなことであっても即興的に進められる方ではありません。神の御心は永遠の前に定められ、永遠に変わることがありません。神の御子が「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と切に求められましたが、神はその要求を聞き入れられませんでした。永遠の前に定められた神の御心はどのような状況であっても変わることなく進められるのです。
人々が滅びるのは神の御心を信じないためです。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ!」という神の御言葉を無視して善悪の知識の木の実を食べたアダムによって人類は滅びるようになりました。そのとき、神が救いを施すために取られた方法は「あなたは必ず死ぬ!」という御言葉を取り消すことではありませんでした。神はイエス・キリストを遣わしてアダムの代わりに罪の価を払わせ、それを信じる者に救いを得させました。
バプテスマとは神の御心を無視した者が不信仰から脱け出してイエス・キリストに移る体験です。バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けましたが、そのバプテスマを通して人々が霊的な変化を体験することはありませんでした。しかし、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は水に入って行くことによってイエスが自分のために死なれたという事実を体験しましたし、また、自分が聖霊によって生まれ変わって神の子となったという霊的な体験をしました。それゆえ、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は過去から完全に断絶され、神によって義とされ、神の子となりました。
善悪を分別することに執着しないで、恵みを認めよう
残念なのは「バプテスマを受けた者の多くが依然として律法に縛られていて、前に出て行くことができないでいる。」という事実です。彼らは御子を通して恵みを施された神の御心を認めるよりも、律法や良心を物差しとして善悪を分別することに関心をもちます。そのようにするほど、彼らは呵責を感じるようになりますし、また、それによって神の御前で大胆さを失い、神の御前に出て行くことができなくなります(Ⅰコリント15:56)。
恵みを受けた者はそれ以上、罪人ではなく、神の子です。恵みを受けた者の霊魂には幸せが満ちあふれます。ところが、恵みを受けた者が善悪を分別することに執着しはじめると、幸せを失うようになります。これはとても危険なことです。へブル人への手紙6章4~6節は「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」といいました。また、10章26~27節は「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」といいました。恵みを受けた者が幸せを失ったのちに再びそれを回復するというのはこのようにむずかしいことです。
恵みを受けたというのは主観的な感覚ではありません。恵みを受けた者には聖霊が臨まれますし、あらゆる霊的な変化が伴います。悪霊も恵みを受けた者を知って、その前で自分の正体を現しながら離れて行きます。祭司長スケワの息子たちがイエスの名によって悪霊を追い出そうとすると、悪霊は「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれど、お前たちは何者だ。」といいながら彼らに襲いかかりました(使19:14~16)。善悪の判断の下にいた私たちが過去から脱け出してイエス・キリストの中に入って来たというのはこのようにはっきりとした実状です。
十字架で死んだものとよみがえったもの
イエスが十字架につけられたときに、その方の頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである。」と書かれた罪状書きが揚げられていました(マタイ27:37)。ピラトがイエスに「あなたはユダヤ人の王ですか?」と尋ねたときに、イエスは「その通りです。」と答えられました。イエスの母マリヤの夫ヨセフはダビデの子孫でした。ユダ王国がバビロンによって滅ぼされなかったのであれば、ダビデの家は続けて王位を受け継いでいたでしょう。それならば、ヨセフも王となったでしょうし、ヨセフの長男として知られていたイエスも王となったでしょう。このように十字架で死んだのはユダヤ人の王でした。ユダヤ人の王は死にましたが、神の御子はよみがえられました。私たちを救ったのはユダヤ人の王ではなく、神の御子でした。
律法も十字架で死にました。ヨハネの福音書1章17節は「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」といいました。律法は肉体を聖くすることができたとしても、霊魂を救うことはできません。それで、律法を指して「体に関する規定」といいます(へブル9:10)。律法の支配を受けていたイスラエル人は決して霊的な人ではありませんでした。彼らは律法によって聖く区別されましたが、それによって彼らの霊魂が救いを受けたわけではありませんでした。霊魂の救いはただイエス・キリストによります。律法は一時、強い勢力を誇りましたが、すでに十字架で死にました。イエスが「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。」(マタイ11:13)といわれた通りです。
律法の多くの規定の中で柱ということができるのは十戒です。「神の御心通りに生きましょう!」という言葉を聞くのであれば、十戒を思い浮かべる者が多いです。彼らは十戒を守るのが神の御心通りに生きる道であると考えます。しかし、十戒を犯したからといって、地獄に行くわけではありません。律法は十字架で死にました。これから私たちを支配しなければならないのは律法ではなく、真理です。イエスは「私が真理である!」といわれました。イエスが働かなければならない私たちの霊魂を、律法や良心が支配してはいけません。信仰生活は良心によってするものではありません。恵みと真理が私たちの霊魂を支配しなければなりません。
人類の罪も十字架で死にました。私たちの中になければならないのは神の義です。私たちの罪はとても大きいです。しかし、神の義はさらに大きいです。これを認めないで続けて罪に執着する者は神の恵みを受けることができませんし、神の子となることもできません。私たちが神の子となったのは完全に神の恵みです。神の子であるのならば、私たちの中に神の義がなければなりません。
集まるたびに覚えなければならないこと
聖餐の意義は聖徒が主日に集まるたびにイエス・キリストの功労を記念するところにあります。バプテスマは生涯に一度だけ受けますが、聖餐は本来、主日ごとにします。使徒の働き20章7節は「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」といいました。パンを裂くというのはどのようなことでしょうか? コリント人への手紙第一11章26節は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」といいました。私たちが主日に聖餐を通して覚えなければならないのは「キリストが私たちのために死なれたことによって律法が死に、罪が死に、初めの契約が死んだ。」という事実、また、「その方がよみがえられたことによって私たちが新しい契約の中に入って来た。」という事実です。
ところが、多くの人は教会に来て覚えなければならないことは覚えないで、ただもどかしい心に慰めを受けようとします。偶像に仕える者も偶像の前でそのような心を打ち明けて泣きながら慰めを得たりもします。キリスト者の信仰生活はそのような宗教生活と異なります。キリスト者は何をするにしてもまずイエス・キリストが十字架で成就されたことを覚えなければなりません。礼拝をささげるにしても、祈るにしても、伝道をするにしても、何をするにしても、イエス・キリストの尊い血からはじめなければなりません。
最初のアダムは神がエデンの園で「あなたは必ず死ぬ!」といわれた通りに死にましたし、その子孫である人類もアダムの中で死にました。ところが、私たちはバプテスマを受けることによって最初のアダムに属した古い人を葬り、最後のアダムでおられるイエス・キリストに結びつきました。今、私たちの中には最後のアダムであるイエス・キリストが生きておられます。私たちは本来、人類のひとりでしたが、今は私たちの中におられるイエス・キリストによって神の子となりました。
イエス・キリストは十字架で死ぬことによって初めの契約を廃棄されました。初めの契約は神がモーセを通してイスラエルと結ばれたものであり、「律法を守るのであれば、神がイスラエルとともにされる。」という内容でした。しかし、律法は守られませんでしたし、神はイスラエルとともにすることができませんでした。初めの契約はイエス・キリストが十字架で死なれることによって廃棄され、神と私たちの間には新しい契約が結ばれました。初めの契約は獣の血によって結ばれましたが、新しい契約は御子の血によって結ばれました。私たちが聖餐を通して杯を飲むのは私たちがイエスの血によって結ばれた新しい契約の中にいるという事実を覚えるためです。
聖霊によって恵みの中にとどまろう
イエスが死刑宣告を受けられた瞬間、律法の下にいた私たちは死刑宣告を受けましたし、イエスが死なれた瞬間、律法によって罪に定められていた私たちはその方とともに死にました。そののちにイエスはよみがえられました。これによって生き返ったのは律法ではありません。真理が生き返り、神の義が生き返りました。それゆえ、私たちの中には真理と義があります。聖霊が恵みによってこれを証しされます。
イエスは聖霊によって教会の中に生きておられます。その方は苦しみを受ける前に「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:19~20)といわれました。イエスが天に上られたために、この世はその方を見ることができなくなりました。しかし、その方が遣わされた聖霊が私たちの中におられるために、私たちはイエスを体験することができます。体験がない信仰は絶望的です。
私たちの家庭においてイエスが主人とならなければなりません。人はそれぞれ考えが異なります。ひとつの家庭でも夫の考えと妻の考えが異なります。さまざまな考えによって葛藤したとしても、最後には主の考えが私たちの家庭を支配しなければなりません。聖書はさまざまな状況の中で主がどのように行われたのかを知らせています。私たちは主に従わなければなりません。
恵みを受けた聖霊の人とならなければなりません。聖霊に満たされないのであれば、恵みを受けたとしても再び律法に戻ろうとします。これは犬が自分の吐いた物に戻るのと同じです(Ⅱペテロ2:22)。ガラテヤ人への手紙3章3節は「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」といいました。イエスは死刑宣告を受けられました。永遠の前に定められたこのような神の御心を認めて、聖霊に満たされましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 3. 4.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
2017年は視無言の生涯で最も恥辱的な年であった。ひとりの霊魂でもさらに多く救おうとして身もだえしながら、狂ったように「10人を与えてください。10人を与えてください。」といって街をさまよった昔が目に浮かぶ。
ひとつの家族を救うために死体を背負いながら30里を歩いて来て私の事務室で葬式を執り行ったこと、面倒を見ながら暮らしていた母親の家を真冬の1月5日に売り払って礼拝堂を建てたこと、毎週リバイバル集会を開きながら受けた謝礼金によって教会を維持してきたこと、銀行の本店を21回、訪れて眉毛が白くなるまで祈ったこと、開拓当初に妻が神学校に通いながら家庭訪問をして疲れ果ててしまい、双子を流産してしまったこと、命をささげて主日礼拝の説教を9回、夜の礼拝の説教まで含めて10回、担ったこと・・・このように生涯、霊感をもって牧会をするために献身し、世界的な教会に成長させてきた。命を差し出して、ただ「還言ベレヤ運動」だけをしてきた。
開拓初日から教会の献金には一度も目を向けることもなく、手をつけることもなく、徹底的に牧会と財政を分離させて働いてきたが、私が受けた祝福があまりにも大きかったために、人々はこれをねたみ、誤解し、私が教会の金を手をつけたと告訴した。それによって厳しい捜査を受けたが、結局、「嫌疑なし」という処分を受けた。まだ進行中の件もあるが、視無言は正々堂々としているし、最後まで進んで行くつもりである。
教会と監督を愛していた者の顔が多く見えなくなったが、初めて開拓したときのような心霊をもって走り続ける。教会は聖霊によって建てられ、また、聖霊が注がれる霊感と真理によってさらにしっかりとしたものとなっていっているので、感謝である。私はあまりに歳を取って、この世の人としては崖っぷちにきているが、私の霊魂は新しい道を目にしている。声の限り教会を愛して祈る聖徒の声を聞きながら、力を得る。
昨年の3月、4月、5月、6月は視無言にとって呪いの月であったが、祝福の月でもあった。当初は衝撃を受けたが、主が私の心に平安の信仰を与えて私の霊魂をさらに明るく、力強くしてくださったために、私の肉体と名誉は死んたとしても私の霊魂は生きて働いている。
イエスの名に悪口を浴びせるようにプラカードをもち、マイクによって教会の悪口を言いながら行進する者を見ると、「彼らに果たして神の国があるのだろうか?」という気がしてくる。伝道するのもむずかしくなり、教会員であるという顔をして歩くこともできなくなるように妨害しているが、彼らは一体、誰の子であるのかと疑わしくなる。今年、視無言はさらに強くなる。聖楽教会はさらに聖霊に満たされる。教会をさらに愛する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室