
良い実を結びなさい
(ヨハネの福音書15:1~11)
神は
農夫でおられる
その方が
この世に人を造って増やされた(創1:28)
これは人の子がその中に来るためであった(創22:17)
神は
人の子をこの世に遣わして、大きな御心を成就させ、
イエスによって栄光を受けようとされた(ヨハネ6:38~40)
イエスは父の御心をなすために
十字架につけられて死ぬまで従われた(ピリピ2:6~8)
その方の肉は永遠のいのちであり、(ヨハネ6:53~55)
その方の血はいのちである
その方の血を飲み、肉を食べた者からは
イエス・キリストの特性が現れなければならない(Ⅰコリント11:26)
農夫とぶどうの木とその枝はそのかたちがそれぞれ異なるが、
その目的はひとつであり、良い実である(ヨハネ15:2)
枝が良い実を結ばないのであれば、自ら枯れてしまい、
結局、捨てられて淘汰される
神を恨んではいけない(Ⅰコリント10:10)
神が誤ったわけではない
神はただぶどうの木の実を願われる
◌ 実は聖徒の信仰の結晶体である
実がないのは信じないで従わないためである
神の関心の外に捨てられる
◌ 私たちがすべきことはただ
神の御心だけであるし、その方のものとならなければならない
自分の体でその方の特性を結ばなければならない
◌ イエスとともにする者はそのいのちと
その御言葉を得る
イエスの御言葉は霊感であり、永遠ないのちである
※ イエス・キリスト者となろう
神を喜ばせよう
イエスの体となって、その特性を現わそう
良い実を結びなさい (ヨハネの福音書 15:1~11)
神は農夫でおられる
神は農夫でおられます。農夫の望みは種をまいてそれを育てて多くの実を収穫するところにあります。農夫にとって何よりも重要なのは多くの実を刈り取ることです。刈り取る実の量が多いほど、農夫の人生はさらに豊かになります。このために農夫は種を改良したり、収穫量を増やすことができるさらに良い畑を探したりします。
種も重要ですし、畑も重要ですが、農業においてさらに重要な要素は農夫の誠意です。母親は心と思いと誠意を尽くして子どもを愛します。農夫が果物の木から実を得ようとするのであれば、母親が子どもを顧みるように果物の木を育てなければなりません。特にぶどうの木は農夫がどのような愛と誠意をもって育てるのかにしたがって実の質と量に大きな差が生じます。
農夫が枝を刈り込む理由
ヨハネの福音書15章1節は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」といいました。農夫はぶどうの木を愛しますし、ぶどうの木は農夫を喜ばせます。イエスが神の御心をなすためにバプテスマを受けて水の上に上がられたときに、神はその方を指して「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)といわれました。イエスは神の愛を受ける御子でおられますが、神に服従して十字架の死にまで従い、神を喜ばせました。イエスは農夫でおられる神の愛を受ける方でおられますし、また、神を喜ばせるぶどうの木でおられます。
ヨハネの福音書15章2節は「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」といいました。ぶどうの木から多くの実を得るためには木の枝を刈り込むことがとても重要です。ぶどうの木の枝や皮の間には多くの虫が発生します。それゆえ、春に皮を剥がさなければなりませんし、育っていく過程においても常に枝を刈り込まなければなりません。一言で言うと、農夫が手をかけるほど良いぶどうの実を刈り取ることができます。農夫が手をかけていないぶどうの房はその実が小さく、商品としての価値がない場合が多いです。
ヨハネの福音書15章3節は「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」といいました。農夫がぶどうの木の枝を刈り込むように、イエスは御言葉によって私たちをきよくされます。これは私たちに多くの実を結ばせるためです。それにもかかわらず、依然として実を結ばない枝があります。イエスはそのような枝は取り除かれると警告されました。
枝が木についていてこそ
ヨハネの福音書15章4節は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」といいました。イエスがぶどうの木であるように、その方の体である教会もぶどうの木です。また、私たちはその木についている枝です。ぶどうの木の枝が木から樹液を吸い取るように、私たちは教会で恵みを受け、霊的な霊感を得なければなりません。
信仰とは神の愛を受けることです。初めの契約の戒め、すなわち律法の要求を要約すると、それは「心と思いと誠意を尽くして神を愛し、また、そのように隣人を愛しなさい。」というものです。初めの契約の内容は「私たちがそのような愛を実践するのであれば、滅びることはない。」というものです。問題は律法が要求するように、私たちが神を愛し、隣人を愛することができないというところにあります。
感謝すべきことに、イエス・キリストは律法の要求を満たすことができない人類のために十字架で血を流して死んで、これを通して人類の罪の価を払われました。そして、その功労を受けた者に新しい戒めを与えられました。それは神の愛を受けなさいという戒めでした。
神の愛を受けなさい
ヨハネの福音書15章9節は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」といいました。多くの人が「神を愛さなければならない。」と考えますが、神の愛を受けることは慕い求めません。本来、神の御心通りに行わない者は滅びるしかありません。しかし、誰が完全に神の御心通りに行うことができるでしょうか? 神の御心通りに行った方はイエス・キリストしかいません。私たちがイエス・キリストと結びつかなければならない理由がここにあります。
人間には3つの道が待っています。「この地でどのような生活を享受していたとしても、一度、死という門を通過するのであれば、結局、硫黄の火の池で永遠な刑罰を受けなければならない。」というのが人間の運命でした。ところが、イエスがこの地に来て人間のために新しい道を開かれました。その方の出生と死は人間と異なるところがありませんでした。しかし、その方はよみがえって天に上られました。そして、その方は「私が道である!」といわれました。私たちは永遠に滅びるしかない人間の道を脱け出して、イエスという新しい道に入って行かなければなりません。
信仰生活をするといいながらも続けて自分の良心を基準として善悪を分別する者がいます。彼らは何かの行動に対して良心の呵責を感じたり、自分を義人と考えたりします。彼らは自分の基準によって自分を判断しますし、また、他の人の信仰さえもむやみに裁断します。彼らはそれを信仰と考えるかもしれませんが、それは宗教人の典型的な形態に過ぎません。彼らは将来、善悪の間で裁きを受けるようになりますが、そのときは自分が基準とした良心によってではなく、神の公義によって裁きを受けるようになります。その裁きを受ける者のほとんどは結局、地獄に行くようになりますし、また、そうでなかったとしてもようやくの思いで救いを受けるようになります。
イエスを信じない者はすでに裁きを受けました。彼らは死の境界線を越えたのちにしばらくの間、よみにとどまります。そして、そののちに底知れぬ所に入って行き、最後は硫黄の火の池に投げ込まれるようになります。しかし、イエスと結びついた者は肉体を離れたのちにすぐにパラダイスに入って行き、時が来れば、復活して天の父の家に入って行くようになります。
アブラハムと彼に属したイスラエルの民はどのようになるのでしょうか? 彼らは神の御名を呼びましたが、イエスの中に入って行くことができなかったために、必ず裁きを経なければなりません。また、その裁きの結果にしたがって彼らが救いを受けて天に入って行ったとしても、父の家に入って行くことはできません。しもべは父のものを享受することができないためです。その反面、イエスと結びついた者は父の家に入って行きます。
イエスは「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2~3)といわれました。イエスはこの約束を保証しようとして、信じる者に今も聖霊を遣わしておられます。
私たちの信仰はこの世にある宗教のひとつを選んで誠意をささげるものではありません。神の御心を完全に行われたイエス・キリストの中に入って行ってその方の 功労を頼って神の愛を受けるのが私たちの信仰です。残念なのは「人々が神の恵みを受けようとしないで、続けて善悪を分別し、自分の行いを変え、それによって自我を完成させることに執着している。」という点です。
エス・キリストが神の御心を完全に成就された今、私たちが本当に神の御心通りに行う方法はイエス・キリストを通して施された神の愛を受け、その愛の中にとどまることです。イエスは弟子たちを最後まで愛されました(ヨハネ13:1)。それにもかかわらず、イスカリオテ・ユダはその愛の中にとどまることができませんでした。悪魔が彼の心に入れた思いを拒まなかったためです。
新しい戒めを守りなさい
イエスの愛にとどまる方法はその方の新しい戒めを守ることです。ヨハネの福音書15章10節は「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」といいました。イエスの新しい戒めとは何でしょうか? これについて12節は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、 これがわたしの戒めです。」といいました。
「愛し合いなさい」という戒めは具体的にどのような意味をもっているのでしょうか? 多くの人が愛という言葉を聞くと、服がない者に服を与えること、飢えている者に食物を供給することを考えます。もちろんそのようなことは社会的な存在として当然にしなければなりません。しかし、イエスはそのようなことをするためにこの地に来られたのではありませんし、そのようなことを弟子たちに命じられたのではありません。イエスが来られたのは私たちにその方の肉を食べさせ、その方の血を飲ませ、その方の服を着させるためでした。これは服や食物を分け与えるように、しばらくの間だけ人を満足させることではありませんでした。人々に永遠な益を与えることでした。
聖餐にはどのような意味があるのでしょうか? コリント人への手紙第一11章26~27節は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」といいました。私たちは主の死を通して神の愛を知りました。それゆえ、これからはそれを他の人に伝えて彼らにその愛を享受させることに力を尽くさなければなりません。
多くの人が主の死を伝えることよりも他の人の罪過を伝えることに熱心です。悪意をもってひそひそと他の人を誹謗することは今日も頻繁に起こっていますが、それは人々が心に神を置くことを嫌うために神が彼らを良くない思いに引き渡された結果であることもあります(ロ―マ1:28~29)。誰かを愛するのであれば、その人を誹謗する代わりにその人のために祈らなければなりません。
教会はイエス・キリストの体です。それゆえ、主を愛する者は教会を愛します。ぶどう木の枝はぶどうの木を離れて存在することができません。私たちは多くの実を結ばなければならないぶどう木の枝として教会に対する所属感をもたなければなりません。自分が教会と結びついているという事実を認めない者は実を結ぶことができません。
イエスの母がイエスに婚礼のぶどう酒がなくなったと知らせたときに、イエスは「女の方。あなたは私と何の関係があるのでしょう。私の時はまだ来ていません。」といわれました。この世には足りないものが多いですが、主は自分の働きが何であるのかをはっきりと知っておられました。人々に服を買ってあげるのもいいですし、食物を買ってあげるのもいいです。しかし、それよりも数億万倍、重要なのは福音を伝えて人々に自分がもっている信仰をもたせることです。
みなさんはイエス・キリストの愛を受けたでしょうか? それならば、その愛から離れないで、その愛の中にとどまってください。その方から与えられた新しい戒めを守ってください。その方の恵みによって受けた愛を他の人に伝えてください。その人もみなさんがもっている信仰を所有するようになります。農夫でおられる神は実を願われます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 4. 15.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
「視無言は嘘つきだ。だまされた。」を合言葉にしている若い神の働き手に問いたい。これまで数十年間、視無言にだまされて牧師となり、祈ることができるようになったのであれば、視無言を破れた履物のように捨てたように、牧師という職分も捨てなければならない。また、視無言から学んだ霊感や祈りを二度と口にしてはならないし、視無言にだまされて学んだ御言葉はそのかたちであってもすべて捨てなければならない。どうしてこのように堕落したのか。
今、あなたたちを導いている者が果たして霊的な指導者であるのか? 昼夜を問わずただ聖霊によって神にひれ伏して霊感を求める霊的な指導者であるのか? 霊魂を生かして導かなければならない者が多くの霊魂を試みに陥らせ、つまずかせ、悪魔の性質から出て来る離間や分離を引き起こしている。そのような者が霊的な指導者であるのか? 以前、私の弟子であったために残念ながらも言う。どうかしっかりしてほしい。
視無言が不義を犯したのであれば、これまでに数百回、数千回も悔い改め、また、その分だけ赦しと恵みを受けたであろう。それでも見込みがないので あれば、主イエスの裁きに預けなければならないであろう。また、視無言が教会に悪を行ったのであれば、この世の裁判所でも裁きを受けるように告訴、告発をされるのがふさわしいであろう。彼らは実際にそのように考えてそのようにしていないか。現在進行中である。
それならば、忍耐と謙遜な心をもってその結果を待たなければならないし、教会の働きは正常に尊重しなければならない。私が法を犯したのであれば、当然にその責任を兔れることができない。しかし、私は法を犯したと考えない。法を犯したと告訴、告発した者はその偽りの訴えに対する責任を避けることができない。
私は本来、罪人であり、罪過も多い者である。しかし、イエス・キリストの恵みによって堂々と生きていく。無能で霊感もない者の口からは常に恐喝や偽りが出て来る。その恐喝や偽りによって視無言に恥をかかせることにとりあえず大成功したかもしれない。しかし、彼ら自身にも深い後悔があるのはその残りの責任をすべて負わなければならないためである。
視無言がすぐに死ぬことを期待したのかもしれないが、そうでない。視無言は長寿についての霊感を神から受けた。それゆえ、私がすべきことは必ずする。視無言のこの世の栄光はすでに色あせた。普通の人であったのならば、顔を上げて歩き回ることもできないであろうが、私はイエスを信じる者であり、真理を知る者である。私の名誉と栄光はぬかるみに沈められてしまったが、私の霊魂はさらに健康であり、豊かである。
愛する若者たちよ、悔い改めなさい。そして、主イエスがあなたがたの手をつかんでくださることを求めなさい。教会に幸せな日が早く来ることを待ち望みながら・・・
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室