
自分を金の器としなさい
(テモテへの手紙第二2:20~21)
神は
常におられる
その方が
この世を造って、太陽や月や星を与えられた
これはこの世に労苦の時間を与えられたのである
先の者があとになり、
のちの者が先になるということが繰り返されるが、これは
常に新しいものを願われるのである(ヨハネ1:43)
私たちは
神の御前で働く働き手である(マルコ3:13~15)
神が用いられる器とならなければならない
人には古いものがあり、新しいものがあるが、
古いものには終わりがあるし、新しいものは愛を受ける
古いものは消えていくし、
新しいものは大きな実を期待される(へブル8:13)
神の関心は新しいものにある
これを新しい被造物といわれた
私たちは新しいものとなるために初めのものを捨てなければならない
律法を捨てて、真理に従わなければならない
肉体がすることを捨てて、霊がすることを探さなければならない
自分を大きな者に作ってこそ、大きな働きに用いられる
◌ 自分を金の器としなさい
土の器ではなく、金の器として用いられなければならない
自分をそのように作らなければならない
◌ 作品の価値があってこそ関心を引く
あちらこちら探し回らないで、
自分を、買い取られる作品として作りなさい
◌ 良い作品は高価で売られる
主のしもべは商品価値をもたなければならない
イエスの人は商品のように価値がなければならない
※ 自分を金の器にして、
神に用いられるようにしなさい
神は良い器を常に探される
自分を金の器としなさい (テモテへの手紙第二 2:20~21)
今も進められている神の働きに参加しよう
神は常におられる方です。それゆえ、その方は常に自分の働きを進められます。神はまどろむこともなく、眠ることもなく働かれる方です(詩121:4)。信仰をもっているのであれば、神が進められる働きが何であるのかをはっきりと知らなければなりません。そして、将来、復活して天に入って行くことに対する望みをもって、その働きに参加しなければなりません。
天の場所は聖霊を受ける者が出て来るたびに造られる
天は宗教人が漠然と「亡くなった父が天で私たちを見守ってくれている!」と想像するようなところではありません。天という単語は普通、2つの意味で使われます。第一に、一般的な天として宇宙、大空、空中をいい、霊的にはよみといいます。第二に、霊界の天として天国をいいます。イエスは「私の父の家には住まいが多くあります!」といわれましたが、その「父の家」は霊界の天を指します(ヨハネ14:2)。
神は天を造るときに、そこに天使を創造されました。ある人は私たちのために備えられる場所がそのときにすでに造られたと考えます。しかし、事実はそうではありません。私たちのための場所はイエスが天に入って行かれたときから造られはじめました。イエスは弟子たちに「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2~3)といわれました。何でもすることができる方がどうして私たちの場所を一度に造らないで、「すべてを備えたのであれば、私たちを迎えに来る。」といわれたのでしょうか?
神は人類全体が天に入って行くことを願っておられます。しかし、問題は人々が天に行く機会を自ら拒んでいるというところにあります。イエスが備えられる場所に入って行くためには必ず聖霊を迎え入れなければなりませんが、そのようにするためには悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなければなりません。残念なのは信仰があるという者さえもこれを拒むことが多いという点です。
ローマ人への手紙8章11節は「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」といいました。神は将来、私たちを死んだ者の中からよみがえらせますが、これは私たちの中に聖霊がおられるためです。それゆえ、聖霊を受けることができないというのはどんなに不幸なことでしょうか?
イエスは信じる者がもたなければならない最低限の体験について語られました。イエスを信じる者は第一に、バプテスマを受けなければなりませんし、第二に、聖霊を受けなければなりませんし、第三に、しるしを現さなければなりません。一言で言うと、悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は聖霊を受け、さまざまな賜物を受け、悪霊を追い出すなどのさまざまなしるしを現すようになるのです。残念なことに、今日、多くの教会が教理と伝統の束縛から脱け出すことができず、それによってイエスが定義された信者の姿とはかけ離れた姿を見せています。私が聖楽教会を開拓したときに既存教団に加入しないで独立教会の道を選んだのはこのような状況を克服するためでした。
聖霊を受けるというのは信じる者にとってこのように重要なことです。イエスは聖霊を受けた者のために天で場所を備えておられます。聖霊を受ける者のために予め場所を造って待っておられるのではなく、救いを受ける者が出て来るたびにその人のための場所を造られるのです。それゆえ、天ではこの世でしばしば発生するマンションの売れ残りのような問題が発生することがありません。
ある人は「イエスを信じて死んだ者はすでに天に入っている。」といいます。しかし、それは事実と異なります。今、天にいるのはイエス・キリストだけです。イエスを信じる者は肉体を離れると、すぐにパラダイスに行くようになります。パラダイスは霊的な空間ではありますが、天にあるのではなく、宇宙の中にあります。それゆえ、パラダイスにいる者を指して天にいるということはできません。
天に入って行く者すべてが父の栄光を享受するのではない
今、パラダイスにいる者はイエスが空中に再臨されるときに第一の復活に参加するようになりますし、この地で一定の期間、王として支配したのちに霊界の天に入って行くようになります。しかし、天に入って行く者すべてが栄光を享受するのではありません。この地にいる間にキリストから預けられた働きを忠実に担った者だけが父の栄光を享受するようになります。
イエスが語られたタラントのたとえもこれを強調しています。主人から1タラントを預かり、それによって5タラントを残した者は父の栄光を享受します。また、同じ1タラントによって2タラントを残した者も栄光を享受します。ただし、彼らが受ける栄光はキリストとともに御座に着く者が受けるものには及びません。その反面、1タラントを受けたのちに何もしないでそのまま残した者は主から「悪い怠け者」という評価を受けるようになります(マタイ25:14~30)。
天にいる天使はその種類もさまざまですし、数も多いです。その中にはエホバの使いもいますし、ガブリエルやミカエルのように栄光を受けた天使もいます。また、雲のように群れをなす天使たちもいますし、その中にはこの世で活動したのちに神に用いられる悪い霊となる者もいます(Ⅰサムエル16:15)。彼らはすべて天使であるという点では異なるところがありませんが、彼らがもっている器の大きさはそれぞれ異なります。これと同じように、救いを受けた者の中にも栄光を享受することができない者がいます。
この地にいる間、主に選ばれた器として用いられることを慕い求めよう
私たちが将来、復活して入って行く天にはやみがありません。そこには昼と夜の区分もありませんし、眠ることもありません。そこには神の栄光が満ちているために、太陽も月も星も必要ではありません。その反面、宇宙には光とやみがありますし、昼と夜があります。神は太陽と月と星を造ってそれらを主管させました。それらの動きによって人々は時間の流れを認識することができますし、昼と夜が交代しながら自分がこの地にとどまっているという事実を悟るようになります。
私たちは将来、天に入って行って永遠にそこで生きるようになります。その反面、私たちがこの地にとどまる時間は極めて短いです。そして、その最後の瞬間は次第に近づいてきています。そのときまで果たして私たちは何をしなければならないのでしょうか? じっと座って死を待たなければならないのでしょうか?
私は牧会の初期にリバイバリストとして活動しながら、月曜日に出かけて行き、土曜日に帰ってくるという生活を20年間、続けました。そのために、子どもとともに過ごす時間が多くありませんでしたし、ともに過ごすときにも子どもに愛情を表現することがあまりありませんでした。しかし、ただひとつ疎かにしなかったことがあります。それは子どもの頭に手を置いて「主に用いられる器となるようにしてください。」と祈ることでした。
私は妻が妊娠したときから彼女の腹に手を置いてそのように祈りましたが、そのときに考えたのは神がパウロを器として選んで用いられたという事実でした。使徒の働き9章 15~16節は「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」といいました。その当時、私は韓国にバプテスマを受けさせ、聖霊を受けさせ、しるしを現す教会がないという事実を知り、将来、どのような迫害を受けたとしてもパウロのように主の御心通りに用いられる器になろうと決心しました。そして、私の子どももそのような働きを担う器となるようにしてくださいと祈りました。
テモテへの手紙第二2章20~21節は「大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことにある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」といいました。主に用いられる器とならなければなりません。どんなに誠実に礼拝をささげ、多くの祈りをし、道徳的に欠点がなかったとしても宗教人に過ぎないのであれば、主はその人を器として用いられません。
主のしもべとして働いたのちに瞬間的に試みに陥り、本分を忘れて自分を労働者として扱う者もいます。労働者とは雇用主に自分の労働力を提供し、その代価として給料を受ける被雇用者をいいます。主のしもべは労働者ではなく、主から預けられたぶどう園を担う管理者です。自分を主に用いられる器と認めるのであれば、主から預けられた働きを担わなければなりませんし、どのような困難に遭ったとしても主が自分を選ばれたという事実を否定してはいけません。
「いわれたことだけをすればいい。」と考える者は器と見ることができません。主は主人から1タラントを受けたのちにそのまま残したしもべを指して「役に立たぬしもべは外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです!」といわれました。教会で職分を預かった者は「監督からいわれたことだけをすればいい。」という考えを捨てて、「どのようにすれば、自分が教会に益を与えることができるのか?」、「どのようにすれば、自分が監督の助けとなることができるのか?」と積極的に悩み、具体的な方法を探さなければなりません。
神がダビデを選んで貴い器として用いられたのはどうしてでしょうか? ダビデは父の羊を養育するときに獅子が羊を取って行くのであれば、獅子を追って行ってその口から羊を救い出しました。神はそのような彼の姿を見て、彼を心にかなった者と考え、神の御心をなすための器として選ばれたのです(使13:22)。
みなさんは主の国のために何をしようとするのでしょうか? 復活に参加する資格を得たので、このまま満足して終わるのでしょうか? そのようにしてはいけません。大きな栄光に入って行くことを慕い求めなければなりません(ヘブル11:6)。主に用いられる器とならなければなりません。イエスの尊い血を入れて人々に飲ませる聖なる器とならなければなりません。しばらくの間だけ用いられたのちにこわれてしまう器とならないで、永遠に主を喜ばせる金の器とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 4. 22.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
この1年間、私たちはまことに耐えがたい日々を送ってきた。しかし、寛容と忍耐は良い結果を生む。これからは裁判所の判断に委ねられた。私たちの教会は全教会員の愛と教会に対する忠誠心によって再び元の姿を取り戻してきている。
教会を改革するという人々の呪術や偽りの根が現れた。私たちの教会は開拓精神から一度も離脱したことがない。私たちの教会のアイデンティティについてはすでに印刷物を通して全教会員が熟知したし、視無言の霊感についてもすべての人が共感した。
彼らは改革という美名によって元老監督である私と監督権者である金聖顯牧師を悪意的に引きずり下ろそうとし、忍耐によって十分に担うことができた教会の財政に大きな被害を与えた。しかし、私たちの教会は切り詰めながら一日一日を耐えている。彼らは自分の口から注ぎ出した多くの偽りをどのようにするつもりであろうか? 必ずその責任を問われるであろう。
視無言の願いは何か。ただ「還言ベレヤ運動」である。果たして彼らの中にこのような使命感をもった者がひとりでもいたであろうか? それならば、このようなことを起こすこともなかったであろう。これまで私は正気を失ってさまよう者がひとりでも戻って来ることを切実に願った。彼らは数年、数十年、私から養育を受け、愛を受けてきた者である。一時は「師匠」、「先生」と呼びながら涙を流すほど視無言を愛した者ではないか。
視無言を愛したというのは還言を熱望したということであるし、神の国を愛したということである。そのような者が師匠であり、担任牧師であり、自分の霊的なリーダーであった視無言をどのように扱っているのか? 「あなたの敵を愛しなさい。」という主の命令が無意味となり、その中で沈んでいたかすを絞り出すように吐き出した悪口をどのようにして担うつもりであろうか? それにもかかわらず、私は最後まで「昔、自分のふところにいた聖徒である」という情を断ち切ることができず、続けて惜しんでいる。 しかし、今は再び戻って来る見込みもないし、恥もないようである。
聖楽人が死ぬほどの力を尽くして教会を守ることを切実に願う。司法府で金聖顯監督権者を立てたために、全教会員が金聖顯監督権者に勇気と大胆さがあるように祈って、その権威を尊重しなければならない。「元監派」や「改革派」など、霊魂を救うこともできない言葉は使わないで、ただ心をひとつに集め、金聖顯監督権者に責任ある収拾を期待するのがふさわしい。私を愛したその熱心さによって心を尽くし、思いを尽くし、力を集めて、唯一の監督権者を守らなければならない。誰もその人を揺さぶることができないようにしなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
https://youtu.be/O7Gyi_5qEKs