
イエスの戒めを守りなさい
(ヨハネの福音書14:15~21)
神は
いのちの父でおられる
その方が
イエスをこの世に遣わされたのは
神の戒めを与えるためであった
神の戒めは永遠のいのちである(ヨハネ12:50)
律法はモーセによって与えられたものである
恵みと真理はインマヌエルでおられる
イエス・キリストによるものである(ヨハネ1:17)
モーセは律法の戒めによって
イスラエルを厳しく治めたが、(出21:1~)
これは肉体の規定であった
イエスは恵みと真理の御言葉によって
イエス・キリストの教会を治められる(ヨハネ16:13~14)
これは霊的である
モーセと律法とその戒めの時代は終わり、(マタイ11:13)
イエス・キリストの恵みと真理の戒めの時代が
聖霊によってはじまったのである(ヨハネ14:26~28)
モーセの戒めを守ることによって肉体は生き、霊は死んだが、
イエスの戒めを守ることによって霊が生き、肉体も生きる
聖霊は恵みと真理の戒めによって治められる(ヨハネ1:14)
◌初めの契約とその戒めは廃棄されたので、
新しい契約と戒めを守ろう
イエスは新しい契約の仲介者でおられる
◌善悪を分別する良心に抑圧されないで、
恵みを受けなさい
真理は私たちの霊魂のいのちである
◌新しい戒めを守るのであれば、
主イエスが聖霊を与えられる
聖霊によって信仰を成長させよう
※ 新しい戒めに従って、
互いに愛し合おう
主とすべての霊魂をまことに愛そう
イエスの戒めを守りなさい (ヨハネの福音書 14:15~21)
いのちを与えるという御心をなすことができない律法
神はいのちの父でおられます。この世には霊が多いです。しかし、その中で私たちにいのちを与えることができる霊はただひとりです。その霊を指して私たちは神といいます。神は土によって人を造ったのちに霊を付与されました。土によって造られた他の被造物とは異なり、人に霊が与えられたというのは神がいのちを与えるために人を特別に扱われたということを意味しています。
神は御言葉を通して人にいのちを与えられます。それで、神の御言葉をいのちの御言葉といいます。また、神はその御言葉を戒めとして与えられました。これは生きようという意志をもった者だけがその御言葉を受け入れることができるようにされたのです。それゆえ、永遠のいのちを得ることには関心をもたないでただこの地で平安を得ようとする者はいのちの御言葉を受け入れにくいです。
イエスは「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という神の証しを受けた方でおられますが、人の罪を負って律法の前に立ったときにその方に臨んだのは死でした。このように律法の役割は人を救うことではなく、人から罪を現してその代価を受け取ることです。それはその対象が神の御子であったとしても同じでした。
神はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)といわれましたが、アダムはその御言葉を聞きませんでした。彼は善悪を知るようになり、その結果、地獄に行くしかない境遇に陥りました。神がイスラエルに与えられた律法の役割は善悪を知らせることでした。そして、異邦人においては良心がその役割をします。人々はいのちを得るために律法や良心を守ろうとしますが、人々の期待とは異なり、その結果はむしろ滅びです。
律法の要求を満たしたイエス・キリスト
それならば、神はどうして人に律法や良心を与えられたのでしょうか? 律法や良心によって罪に定められる前にも、人はすでに永遠に滅びるしかない罪人でした。問題は人がその事実を知らないというところにありました。自分が罪人であることを知らないからといって、罪の価である死を免れることができるわけではありません。人が死から脱け出すためにはまず自分が死の道にいるという事実を認めなければなりません。
このために与えられたのが律法や良心でした。律法や良心を適当な水準で守ろうとする者は自分を義人と考えます。しかし、それらを徹底的に守るために身もだえするのであれば、結局、自分が罪人であるということを認めないわけにはいきません。これについてガラテヤ人への手紙3章10節は「というのは、律法の行いによる人はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」といいました。また、律法に基づいて人を罪に定め、地獄まで引いて行くのは死の権勢をもつ支配者、悪魔です。
神の御子は悪魔が支配していたこの世に神のいのちをもって来られました。その方から与えられるいのちをもつ者ともたない者はその道がまったく異なります。私たちはイエス・キリストの名によって悪霊を追い出す経験を通して、それが実状であるということを体験しています。いのちをもつ者はイエス・キリストが再び来られるときに復活して永遠のいのちを享受しますが、いのちをもたない者は肉体を離れたのちに悪霊となってしばらくの間、この世にとどまり、時が来ると、底知れぬ所に入って行きます。そして、結局、そこから出て来て悪魔とともに地獄に投げ込まれます。
私たちは律法や良心の前ですでに死んだ者です。イエス・キリストが血を流して死なれたのはどうしてでしょうか? それは律法の要求に従われたためでした。イエス・キリストは律法の要求を満たしました。律法はこれ以上、イエス・キリストに何も要求することができません。その方は律法の前ですでに死んだ者となられました。私たちがバプテスマを受けたというのはその方と結びついたということです。それゆえ、今、律法や良心が私たちに要求することは何もありません。
律法の根本は神と隣人を愛しなさいということ
イエス・キリストと結びついた私たちが今になって律法や良心の前にひざまずくのであれば、これは私たちの代わりに呪いを受けられたイエス・キリストの功労を無にすることです。イエス・キリストが私たちに願われるのは何でしょうか? それは私たちに伝えられた神のいのちを貴く考え、それをさらに多くの人に伝えることです。これは神のいのちを所有した者から自然に現れなければならないことでもあります。
律法は多くの条項で構成されていますが、その核心ということができるのが十戒です。十戒の第一戒から第四戒は「どのようにして神に仕えるのか?」という問題であり、「私のほかに、ほかの神々があってはいけない。偶像を造ってはいけない。私の名をみだりに唱えてはいけない。聖日を守りなさい。」という内容で構成されています。また、第五戒からは「どのようにして隣人に接するのか?」という問題であり、「父と母を敬いなさい。殺してはいけない。姦淫してはいけない。盗んではいけない。偽証してはいけない。隣人のものを欲しがってはいけない。」という内容で構成されています。
イスラエル人はこのような戒めを忠実に守るのが自分の本分であると信じましたが、その戒めを与えられた神の御心を悟ることができませんでした。ある律法学者がイエスを試そうとして「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか?」と尋ねました。すると、イエスは「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とがこの2つの戒めにかかっているのです。」といわれました。神がイスラエルの民に願われたのは彼らが心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛することでしたし、また、自分自身、自分の体を愛するように隣人を愛することでした。
愛を意味するギリシア語の単語を調べると、さまざまな種類の愛がありますが、その中に「アガペー」と「フィレオー」があります。「アガペー」は条件のない愛をいいます。子どもに対する親の愛がこれに該当します。親が長男を深く愛し、次男を長男ほど愛さないということはありません。子どもが10人いるのであれば、その10人をすべて同じように愛するのが親の心です。その反面、「フィレオー」は親に対する子どもの愛のようなものです。これはさまざまな対象に同じように適用されるのではなく、特定の対象にだけ適用される唯一の愛です。神を愛するフィレオーの愛によって神々を愛することはできません。神は私たちがフィレオーの愛によって神を愛することを願われます。
イエスはよみがえったのちにテベリヤの湖で魚を取っていたペテロに現れ、「あなたは私を愛しますか?」と三度、尋ねられました。ギリシア語の原文を見ると、初めの二度は「あなたは私をアガペーしますか?」と尋ね、最後は「あなたは私をフィレオーしますか?」と尋ねられました。ペテロは最初から最後まで「私があなたをフィレオーすることはあなたがご存じです。」と答えました。主が三度目に「あなたは私をフィレオーしますか?」と尋ねられたために、ペテロは心を痛めましたが、続けて「私があなたをフィレオーすることはあなたがご存じです。」と答えました。それによって主に対する自分の愛が唯一であるということを最後まで告白したのです。
その当時のパリサイ人やサドカイ人は自分が十戒を徹底的に守っていると自慢しましたが、イエスは彼らから神に対する愛はもちろん、隣人に対する愛も発見することができませんでした。イエスは彼らに「他の人のものをむさぼる者は盗みを犯した者である。情欲を抱いて女を見る者は姦淫を犯した者である。兄弟に向かってばか者という者は地獄に投げ込まれる。」といわれました。自分が正しいと信じている者に向かって律法を強化し、それによって彼らも律法によって罪に定められることを免れることができないという事実を示されたのです。
聖霊によって律法の根本を完成させよう
律法は罪人を救うことができません。罪人にとって律法はむしろ罪と死の法です。どんなに律法が神を愛し、隣人を愛しなさいと強調したとしても、肉体の力だけによってはそのような要求を満たすことができません。イエスが私たちの罪の価を贖うだけでなく、聖霊を遣わして、いのちの法の中にいるようにされた理由がここにあります。
キリストの恵みを受けて聖霊を迎え入れたのであれば、それからは律法の監視がなかったとしても心と思いと命を尽くして神を愛し、自分の体を愛するように隣人を愛さなければなりません。律法の下にいた者は呪いと刑罰を恐れながら律法を守ろうとしましたが、恵みの中にいる者は聖霊によって神と隣人を愛そうとします。
私たちが愛さなければならない隣人の第一は教会です。人は自分の体をどんなに愛するでしょうか? 自分の体の健康のためならば、高価な食べ物を食べることも厭いませんし、自分の体を飾るためならば、高価な服も惜しみません。果たしてみなさんはそのような愛をもって教会を愛しているでしょうか? 神の御前に出て来て献金をささげるときに、自分の体のために使う食事代ぐらいでも、あるいは自分の体に塗る化粧品の価格ぐらいでもささげているでしょうか? 自分が教会の器官であるという事実を知るのであれば、教会がどのような目に遭ったとしてもそれを自分のことのように考え、教会とともにしなければなりません。
まだいのちの法の中に入って来ていない霊魂も私たちが愛さなければならない隣人です。彼らはイエス・キリストが成就されたことを知ることができないために、今も律法や良心を頼っています。彼らは結局、律法や良心によって罪に定められ、悪魔のために備えられた刑罰の場所に入って行くようになります。彼らに恵みを受けさせ、聖霊を迎え入れさせなければなりません。律法の戒めはイエスが担われたので、これからは新しい戒めを守らなければなりません。十戒が恐ろしいということを知るのであれば、イエスが与えられた新しい戒めはそれよりも恐ろしいということを知らなければなりません。
イエスが私たちに願われるのは恵みを受け、聖霊を受け、心と思いと命を尽くして神を愛し、自分の体を愛するように隣人を愛することです。このようなことには関心をもたないで「自分だけ良心にしたがって生きればいい。」と考える者は続けて律法の支配を受けている者です。良心の呵責を感じないといって自分を正しいと考えるのであれば、あるいは良心の呵責を感じるといっていのちをあきらめるのであれば、自ら滅びを招きます。良心によって生きないで、いのちの法によって生きましょう。聖霊によって神を愛し、聖霊によって隣人を愛し、律法の根本を完成させましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 6. 24 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
昼も夜も涙を飲んで、ただ主が来られるのを待ち望みます。天に行くときに「再び来る」といわれたイエスよ。オォ! 主よ。いつ来られるのでしょうか?
このように60年余り、主を待ち望んでいます。私のすべての罪過を負って十字架で血を流された主よ。主の恵みによって義とされて生きています。敵がどんなに粗暴であったとしても真理に勝利することはできないということを知りました。視無言の心は炭のように黒く焼けてしまいましたが、霊魂はむしろ精錬された金のように幸せです。
しもべが願うのは主のふところで眠ることです。それゆえ、主が救ってくださった私の霊魂は常に主の御前にいます。しもべを主から引き離すために昼夜を問わず集まって研究していますが、主の恵みの綱を誰が断ち切ることができるでしょうか。
視無言はこの世を恐れません。これまで半世紀以上、耐えてきましたし、勝利してきました。この世を愛することもありません。ただこの世にいる、主から与えられた者を愛するだけです。彼らがひとりも失われないように常に祈りながら、彼らの霊魂を愛します。さらに良い牧草を食べさせ、さらに良い水を飲ませるために昼も夜も祈り求めます。私は主から与えられた聖霊によって呼吸をします。主から与えられた大きな賜物をこの地ですべて体験しなさいといわれたので、そのようにします。私の霊魂を聖霊の賜物によって満たしてください。
しもべは一日も早くこの世を離れたいですが、主が許されないのであれば、そのまま耐えます。しもべが最も心を痛めるのは一時は視無言を師匠、あるいは父と考えた友が敵となって視無言の悪口を言い、迫害するということです。しもべの悪口を言って祝福を受けるのであれば、いくらでも悪口を浴びます。しもべを殺して幸せになるのであれば、そのようにしなさいといいます。聖楽教会は私の本籍地であり、現住所であり、働き場であり、最後には墓となるところです。
主よ! 罪人が裁きを受ける法廷に行ってきました。そのとき、愛する聖徒が多く来て、私を慰めてくれました。私の生涯にこのようなことは起きるはずがないと考えてきましたが、それさえも負わなければならないくびきでした。幸いにも私は恥ずかしくありません。誰が何と言おうとも感謝するだけです。私の体は耐えるのがやさしくないですが、主が力を与えてくださる限りは耐えます。
しもべの生涯には平安な日がなく、労苦だけがありますが、これは主が私に与えられた戒めであると考えて従います。一日も早く教会が平安になることだけを祈り求めます。今、視無言には主しか頼る方がいません。主の御名にひざまずいて、今夜も祈ります。教会を主の体のように愛する聖徒に祝福を与えてください。すべての霊魂を幸せにしてください。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室