
イエスの御言葉だけを聞きなさい
(マタイの福音書17:1~13)
神は
永遠に生きておられる
その方が
この世を愛して、永遠のいのちを与えるために
イエス・キリストを遣わされた(ヨハネ3:16)
ただイエスを信じて従いなさいという戒めを与えられた(ヨハネ14:15)
タボル山で見せた栄光は
神が直接、啓示されたものであった
初めの契約は律法と預言者によるものであったし、
新しい契約は御言葉がインマヌエルした
イエス・キリストによるものである
初めの契約は血についての契約であった(へブル9:22)
新しい契約はキリストがよみがえられたことによって
聖霊が来られたということを証しする福音である(ヨハネ7:37~39)
新しい契約の中にいる者は律法と預言者を離れて、
イエス・キリストの中にだけいなければならない
善悪を知る良心とその思いは死である
聖霊による思いはいのちと平安である(ローマ8:6)
良心の声を聞かないで、
イエスの御言葉を聞きなさい(マタイ17:5)
聖霊は主の御言葉だけを証しされる(ヨハネ16:13~14)
○聖霊が証しされる御言葉が真理である
聖霊は
イエスの栄光だけを語られる
○どうして
父なる神の御言葉に逆らうのか
イエスの御言葉を信じて従いなさい
○聖霊は自ら語られないで、ただ
イエス・キリストだけが語られる
その方の栄光の復活といのちだけを語られる
※ 信仰を義とされたので、
イエスとその方の血と御言葉が義である
聖霊によって主の声を聞いて従おう
イエスの御言葉だけを聞きなさい (マタイの福音書 17:1~13)
唯一の神から与えられる永遠のいのちを慕い求めなさい
神は永遠に生きておられる神です。この世に多くの神々がいますが、神は自ら永遠に生きているという点で唯一でおられます。その方が私たちに永遠のいのちを与えられるためにイエス・キリストを遣わされました。イエス・キリストは私たちが永遠のいのちを得ることができる唯一の道です。誰もイエス・キリストによらなければ、永遠のいのちを得ることができません。
霊があるという点で人は獣と異なります。獣は肉体が息を引き取る瞬間、その意識がなくなってしまいますが、人には霊があるために、肉体がなくなったとしてもその意識は永遠に存在します。これを指して霊魂といいます。問題はその霊魂が行かなければならない道が永遠な栄光と永遠な刑罰のどちらかひとつであるというところにあります。
神は最初の人アダムを造ったときに、彼に「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)といわれました。しかし、彼は善悪を知る木の実を食べ、それによって彼はもちろん、彼の中にいた全人類が死ぬようになりました。これは肉体が死ぬようになったということではなく、霊魂が将来、地獄に入って行って永遠な刑罰を受けるようになったということを意味します。イエス・キリストがこの世に来られたのはその刑罰がはじまる前にアダムの罪の価を払って私たちに救いの道を開くためでした。
モーセとエリヤはいなくなり、イエスだけが残る
イエスはペテロとヤコブ、そして、ヨハネを連れて高い山に登られました。イエスとともに山に登った弟子たちは驚くべき光景を目にしました。彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなり、モーセとエリヤが現れてその方と話し合っていました。モーセとエリヤはそれぞれ律法と預言者を代表する人物でした。自分たちの師匠がそのような偉人たちと肩を並べて話し合っているので、弟子たちはどんなに興奮したでしょうか?
ペテロはこれを見て「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。もしよろしければ、私がここに3つの幕屋を造ります。あなたのためにひとつ、モ―セのためにひとつ、エリヤのためにひとつ。」といいました。すると、突然、光り輝く雲が彼らを包み、雲の中から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。弟子たちが恐れてひれ伏していたのちに目を上げて見ると、イエス以外には誰もいませんでした(マタイ17:1~8)。
私たちは神がモーセとエリヤを取り去ってイエスを証ししながら「彼の言うことを聞きなさい!」といわれたという事実に注目しなければなりません。聖書の中で旧約聖書、すなわち律法と預言者に関する部分はその分量が新約聖書の2倍にもなります。それにもかかわらず、神は預言者と律法を取り去って「イエスの言うことを聞きなさい。」といわれたのです。今日、多くの人がイエスを信じるといいながらも、続けてモーセとエリヤを心に置いています。しかし、バプテスマのヨハネを最後に預言者と律法の時代は終わりました(マタイ11:13)。今はイエスの御言葉を聞かなければなりません(ヨハネ8:31; 15:7)。
救いはイエスの御言葉を聞くところにある
モーセを通して律法を受けたのちに、イスラエル人は律法を守るために努力をしました。歴史や経験を通して彼らが悟ったのは律法を徹底的に守るときにはじめて祝福を享受することができるという事実でした。しかし、彼らがどんなに祝福を享受したとしても、それによって彼らの霊魂が救いを受けることはありませんでした。
数千年間、律法を徹底的に守ろうと努力した者を数えるのであれば、その数は多いです。しかし、聖書はイスラエルの中で救いを受ける者は14万4000人に過ぎないといいました(黙7:4)。どのような者がその数に含まれるのでしょうか? ヨハネの黙示録14章4節は「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」といいました。小羊 、すなわちイエス・キリストに属した者だけがその数に含まれるのです。
アブラハム、モーセ、バプテスマのヨハネなど、旧約時代に神に用いられた立派な人物も少なくありません。しかし、彼らは天国に入って行く前に必ず裁きを通過しなければなりません。それゆえ、彼らを指して「すでに救いを受けた者」というのは適切ではありません。「すでに救いを受けた者」ということのできる対象はイエス・キリストを信じる者だけです(ヨハネ5:24)。
イエス・キリストが現れる前に神の御言葉を聞いた者は将来、裁きを受けるようになりますし、これを通して救いを受ける者と滅びる者が区分されます。しかし、イエス・キリストが現れたのちにその方を信じない者はそのような機会さえももつことができません。彼らはすでに裁きを受けたためです(ヨハネ3:18)。
イエスの御言葉を聞かなければなりません。バプテスマのヨハネも「天の御国が近づいた。」といいましたし、イエスもそのように語られました。バプテスマのヨハネの言葉を聞いて悔い改めたからといって、それによって救いを受ける者は誰もいません。パウロがエペソに行ったときに、数人の弟子たちに会いました。パウロが確認してみると、彼らはイエスの名によってバプテスマを受けたことがありませんでしたし、聖霊を受けたこともありませんでした。彼らが受けたのはただヨハネが授けたバプテスマでした。パウロは彼らに「ヨハネは自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と証ししたのちに、彼らにイエスの名によってバプテスマを授けました。そののちにパウロが按手すると、聖霊が彼らに臨まれました(使19:1~7)。エペソの弟子たちはバプテスマのヨハネの言葉を聞いて悔い改めた状態にありましたが、彼らはパウロが伝えたイエスの御言葉を聞いて初めて救いを受けたのです。重要なのは「誰の言葉を聞くのか?」ということです。
良心の声か、イエスの御言葉か
イエス・キリストを信じない者の中にも立派な良心をもって生きる者はいくらでもいます。イスラエル人が律法の支配を受けたように、この世の人々にとって律法の役割をするのは良心です。良心にしたがって生きる者が多くなると、その社会は健全になります。 しかし、それが霊魂を救うことはできません。良心にとどまっている者はイエス・キリストを通して施された恵みを受け入れることができないためです。
良心によって徹底的に自分の行動を統制する者は自分を義人と考えます。したがって、自分に神の恵みが必要であるという事実を認めません。そうかと思えば、イエス・キリストを信じるといいながらも依然として良心に縛られている者がいます。彼らはいつか良心によって罪に定められるようになりますし、そのときには自分が恵みを受けた者であるということを大胆に認めることができなくなります。
雲の中でモーセとエリヤがいなくなってイエスだけが残ったように、私たちの霊魂の中から良心の幕屋が取り去られ、イエスだけが残らなければなりません。ローマ人への手紙8章2節は「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」といいました。良心は律法と同じように罪と死の原理、法です。その法は機会さえあれば、私たちを罪に定め、私たちをイエス・キリストの恵みから離れさせます。それに勝利する方法は聖霊の法を頼ることです。
私たちがもたなければならない良心があるとすれば、それは「正しい良心の神への誓い」だけです(Ⅰペテロ3:21、訳者注: 韓国語の聖書では「神を探していく正しい良心」となっている)。善悪を分別させる良心は人を敬虔にするように見えたとしても、結局は人を滅ぼします。良心に忠実な者として代表的な人物は誰でしょうか? イスカリオテ・ユダです。彼は自分が銀貨30枚で売ったイエスがピラトに引かれて行くのを見て良心の呵責を感じ、自殺してしまいました。
イエスの御言葉だけを聞かなければなりません。ペテロは「水の上を歩いて来なさい!」というイエスの御言葉を聞いて水の上を歩きはじめました。しかし、彼の耳に風や波の音が聞こえてくると、どのようになったでしょうか? イエスの御言葉を聞いたのであれば、それからは風の音、波の音、モーセの声、エリヤの声、良心の声を聞いて振り返ってはいけません。
新約聖書には旧約聖書の内容が多く引用されていますが、その中に「エホバがこのように語られた。」という記録は見当たりません。これは神がエホバという名を取り去ってしまわれたためです。これと同じように、イエス・キリストの御言葉が聞こえてきたのであれば、それからはみなさんの心からモーセを取り去ってください。良心を取り去ってください。罪に定める法を取り去ってください。
イエスの御言葉だけを聞きなさい
聖餐をするときにパンを手にしたまま「私は罪人です。」と涙声を出す者がいます。厳密に言うと、罪人はパンを食べることができません。「私は罪人です。」と告白する者は依然として律法、良心の下にいる者です。イエス・キリストは十字架で血を流して死ぬことによって私たちの罪の価を払ってくださいました。今、私たちの口からは「主よ。恵みを施してくださって感謝します!」という告白が出て来なければなりません。
イエスは「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)といわれました。イエスの御言葉は永遠のいのちの御言葉です。モーセの言葉はそうではありません。モーセの言葉が人々に永遠のいのちを与えることができたのであれば、イエス・キリストが血を流される必要はありませんでした。この事実をはっきりと知ったために、ペテロは「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」と告白したのです(ヨハネ6:68)。
たとえば、ひとりはイエス・キリストを信じませんでしたが、モーセの律法を徹底的に守って敬虔な生涯を送りました。もうひとりは盗みや姦淫も犯しましたが、イエス・キリストを信じてその方の愛を受けました。このふたりの中で誰が救いを受けるでしょうか? 答えは後者です。人の常識によっては納得しがたいのが福音であり、恵みです。
イエスの御言葉を聞いてください。モーセの言葉、良心の言葉にとどまらないでください。罪と死の法を拒んで、聖霊の法に従ってください。聖霊は自ら語るのではなく、イエスが語られたことを私たちに教えてくださいます(ヨハネ16:13)。それゆえ、「聖霊が語られることを聞きなさい!」というのは「イエスの御言葉を聞きなさい!」ということと同じです。良心がどんなに「あなたは罪人です!」といったとしても、イエスが「あなたの罪は赦されました!」といわれたのであれば、みなさんはすでに罪を赦しを受けた者ですし、イエスが「あなたは救いを受けました!」といわれたのであれば、みなさんはすでに救いを受けた者です。
イエスが「寝床をたたんで、家に帰りなさい!」といわれたので、これからは寝床をたたんで、歩いてください。「私を起こしてください。」という必要はありません。良心の声を聞いて「私には資格がない!」と自ら座り込んでしまうのであれば、結局、滅んでしまうのです。聖霊に頼ってください。イエスの御言葉だけを聞いてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 7. 1 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
神は高いところにおられる唯一の方であり、創造者であり、裁き主でおられる。私たちは獣のような人間であり、虫けらのような者であり、硫黄の火の中で永遠に呪いを受けるにふさわしい霊魂である。しかし、神はこの世にひとり子を遣わして、人間と契りを結ぼうという福音を与えられた。
神は「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」(ホセア2:19~20)といい、また、「その日、わたしは答える。―主の御告げ―わたしは天に答え、天は地に答える。地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え、それらはイズレエルに答える。わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」(ホセア2:21~23)といわれた。信仰とは全能なる神と契りを結ぶものである。それゆえ、嫁いだ女性が嫁いだ家と運命をともにするように、私たちも神と永遠にともにするのである。神はそのときからすべてのことに答えてくださるのである。
私は1960年代から一万人の使命者を育てて神の御前にささげると約束した。また、数十年間、一万人を収容する空間のために休まずに祈った。そして、ついに成し遂げた。これは信仰と忍耐と謙遜によって霊感を豊かにもったためであった。
私は使命者として召されたときから一度も右にも左にも逸れることなく、ただひとつの孤独な道だけを歩んできた。そして、自分に与えられた霊魂を育ててすべてを使徒のような使命者とするために、また、第一の復活にあずからせ、義の冠を受けさせるために、死ぬほど働いてきた。
しかし、思いもよらない大きな試練が教会を襲い、それによって肉体に属する者のほとんどが教会を離れてしまった。2026年までにすべての債務を返済するという明確な計画をもって教会が運営されてきたが、突然、献金が半分に減ってしまい、大きな苦境に陥ってしまった。しかし、まるで水の上を歩くように緊張しながら、一日一日をもちこたえている。私にはこの世にとどまる日が多く残されていない。しかし、与えられた霊感をさらに豊かにして、愛する主の教会を養育し、この試練に勝利したのちに、この世を離れようとする。
愛する聖楽人のみなさん。私がどれだけしなければならないでしょうか? 強盗に襲われた主の体である教会を生かしてください。私に力を与えてください。しばらくの間でも倹約して、倍の献金をささげてください。これは自分の霊魂のためです。主が必ずその行いに応じて報いを与えるといわれなかったでしょうか? 主が必ず報いを与えてくださいます。私の命を差し出して涙をもって訴えます。教会を生かしてください。
すでに教会を離れた者は関係がありません。彼らは聖楽人ではありません。彼らは金箕東(キムキドン)父子だけを追い出そうとして、私が教会に苦痛を与えているといいます。しかし、私はこの説教壇で死にます。力を使い果たします。彼らは霊的な指導者ではありません。教会に大きな苦痛を与えた者です。まことの心をもって団結してください。感謝します。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室