
教会は主の神殿である
(ヨハネの福音書2:13~22)
神は
霊でおられる
その方が
御言葉によって自分を現された(ヨハネ1:18)
御言葉は御子でおられる(ヨハネ1:1)
神は誰も見ることができないが、
自分の本体のかたちを現された(Ⅱコリント4:4)
それゆえ、
神に対する信仰はその方を見て知って信じるものである(ヨハネ14:8~11)
神は御言葉として現れたし、
御言葉は人の子として現れたし、(ヨハネ1:14)
人の子は神殿として現れた(ヨハネ2:12)
神殿はその方の体である
このようにその方は自分の体を現された
イエス・キリストの教会はその方の体である神殿である(エペソ1:22~23)
聖霊が神殿の中に宿り、主の栄光を輝かせ、
イエス・キリストの力を現される(Ⅰコリント3:16~17)
イエス・キリストの教会は言葉にではなく、力にある
教会を見るときにナザレ人を見るのではなく、
よみがえられた主を見るのである
聖霊だけがよみがえられた主を現される(ヨハネ16:14)
○教会は
聖霊が建てられる
聖霊がイエスの復活を現される
○イエスを生かした方も
聖霊でおられる
聖霊が教会を新しく建てられる
○教会は
聖霊によって新しくならなければならない
聖霊の働きは教会を建てる力である
※ 私たちはそれぞれ神殿である
聖霊を迎え入れた神殿である
聖霊によって復活の栄光を現さなければならない
教会は主の神殿である (ヨハネの福音書 2:13~22)
実状を超越しない礼拝
神は霊でおられます。それゆえ、人はその方を手で触ることも目で見ることもできません。しかし、神は手で触ることも目で見ることもできない存在を無理やりに信じさせようとされるわけではありません。神は私たちが信仰をもつことができるように、手で触ったり目で見たりすることができる歴史的な存在として自分を現されました。
キリスト者の信仰は宗教人の信念とは異なり、具体的な実状を超越しません。その実状を真理ともいいますし、まことともいいます。イエスは「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)といわれました。「霊でおられる神にささげる礼拝は霊的でなければならないが、同時に歴史的な価値を超越してはいけない。」という点を強調されたのです。
「礼拝」という言葉には「口づけをする」という意味があります。以前、ローマ帝国には戦争に勝利して凱旋してきた将軍が皇帝の前に出て行ってひざまずき、皇帝の手の甲に口づけをするという風習がありました。将軍にとって皇帝に口づけをするというのは極めて栄光があることでした。これと同じように、一週間、この世で勝利した者が神に出て行って口づけをするのが礼拝です。一週間、不信仰と衝突して倒れた者は教会に来たがりませんが、勝利した者は凱旋した将軍のように主日に神に出て行って口づけをします。
神に出て行くときに、私たちは物質をもって出て行きます。イエスは人々が献金箱に献金を入れるのをご覧になりました(ルカ21:1)。もし今日、牧師がそのようなことをするのであれば、人々は「お金が好きな牧師だ!」といって腹を立てるかもしれません。しかし、主は2000年前と同じように今も献金する私たちの姿を見守っておられるということを知らなければなりません。
心を超越しない礼拝
イエスは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)といわれました。結婚する男女が互いにプレゼントをするのはどうしてでしょうか? 相手を思う心があるためです。反対に、愛し合っていた者が別れるときにプレゼントをした物を返してもらおうとするのは相手から心が離れたためです。これと同じように、神を思う心がある者だけが神に物質をささげることができるのです。
マラキ書1章6~10節にはこのような内容が記録されています。神が「私の名をさげすむ祭司たち!」と叱られると、人々は「どのようにして私たちがあなたの名をさげすみましたか?」と尋ねました。すると、神は「あなたがたは盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか? 足のなえたものや病気のものをささげるのは悪いことではないか? さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるであろうか? 私の祭壇にいたずらに火を点ずることがないように戸を閉じる者はいないのか?」といわれました。
また、マラキ書3章7~9節にはこのような内容が記録されています。神が「私のところに帰れ!」といわれると、人々は「どのようにして帰るのでしょうか?」と尋ねました。神は「あなたがたは私のものを盗んでいる。あなたがたは『どのようにして私たちはあなたのものを盗んだでしょうか?』という。それは十分の一とささげ物によってである。あなたがたは呪いを受けている。」といわれました。ここで呪いを受けるというのは何かの病気にかかるという意味ではなく、神から捨てられるという意味です。
コリント人への手紙第二9章5~7節は前もって準備した献金こそまことの献金であるといい、「誰でも少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る。それゆえ、それぞれいやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。」といいました。神の御前に出て行く者にとって何よりも重要なのは神に会おうとする切なる心です。
聖さを超越しない礼拝
旧約時代のイスラエルの民は安息日を聖なる日としました。安息日を守るのはイスラエル民族に与えられた神の命令でした。安息日は神が天地を造るときに六日間、働き、七日目に休んだことからはじまりましたが、イスラエルの民はモーセの律法の下でその日に何もしないで家で休まなければなりませんでした。
安息日は一週間の中で土曜日に該当しますが、キリスト者の中には土曜日に礼拝をささげなければならないと主張する者もいます。厳密に言うと、安息日を守るというのはその日に教会に行って礼拝をささげるということではなく、その日に何もしないで家で休むということです。律法の下にいた者も安息日を守るときに実際にそのようにしましたが、それは将来、キリストによってなされることについての模型でした。
イエスは十字架で息を引き取ったのちにすぐに十字架から下ろされて墓の中に納められました。そして、その日の夜から安息日がはじまりました。イエスは安息日に墓の中で何もしないで自分の働きを休まれました。弟子たちにとってその日は絶望の日でした。しかし、安息日の次の日、週の初めの日にイエスの墓に行った女たちが天使から聞いたのはイエスがよみがえられたという知らせでした。このようにイエスは安息日の次の日、週の初めの日によみがえられました。その日が主日です。
主日に私たちが記念しなければならないのは何でしょうか? イエスが「私の血を飲みなさい。私の肉を食べなさい。」といわれた通りに、私たちはイエスの血を飲み、肉を食べましたし、それによって救いを受け、永遠のいのちを得ました。使徒の働き20章7節が「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」といったように、主日はパンを食べ、杯を飲みながらこの事実を記念するために集まる日です。
このようにキリスト者は主日を守ります。しかし、ある人は「主日は主日で守るが、安息日も守らなければならない。」と主張します。彼らはキリスト者にとってこのふたつの日はすべて聖なる日であるといいます。彼らがそのように主張する根拠はモーセの律法です。彼らはイエス・キリストを信じるといいながらも続けて律法の支配を受けているのです。もちろん律法をよく守るのであれば、この地で栄えることができます。しかし、それが人の霊魂を救うことはありません。
律法の下で安息日を犯すのであれば、石で打ち殺されなければなりませんでした。そのように厳しく守られた安息日を今日のキリスト者はどうして守らないのでしょうか? それはイエスが十字架で律法を廃棄されたためです。主日は安息日ではありません。安息日は休む日ですが、主日はイエスがよみがえって自分の働きを再びはじめられた日です。この世はよみがえられたイエスを見ることができません。ただイエスを信じる者だけがよみがえられたイエスを見ます。それゆえ、イエスに属した者はたとえ普段はこの世の人々に混じって生活をしていたとしても、イエスがよみがえられた主日には彼らと徹底的に区別されなければなりません。
主日に不信者とともにこの世のことに没頭する者は果たして自分が誰に属した者であるのかについて真剣に考えなければなりません(Ⅱコリント6:14~16)。よみがえられたキリストに属した者であるのならば、主日に急ぎの用事があるからといって礼拝を無視しないで、自分の聖さを証明してください。イエスが十字架につけられるまでして私たちを聖くしてくださったのに、私たちが自分を聖く区別しないのであれば、これは犬が自分が吐いたものを再び食べるのと異なるところがありません。イエスは暗やみに照らされた光です。聖くなければ、暗やみが一瞬にして私たちを覆います。
聖霊を超越しない礼拝
過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られましたが、そのとき、宮の中に牛や羊や鳩を売る者と両替人があふれているのをご覧になりました。イエスは彼らを宮から追い出しながら、「私の父の家を商売の家としてはいけない!」といわれました。そして、「あなたがこのようなことをするからには、どのようなしるしを私たちに見せてくれるのですか?」と尋ねるユダヤ人に「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう!」といわれました。これは神殿である自分の体を指していわれたのです(ヨハネ2:13~22)。
モーセの命令に従って荒野で造られた幕屋、また、エルサレムに建てられた神殿は将来、来られるイエス・キリストについてのしるしでした。今日、人々は礼拝堂を指して習慣的に「神殿」といったりもしますが、礼拝堂も実状ではありません。神殿の実状はイエス・キリストです。主日に教会に来て礼拝堂の中で電話をかけるのであれば、「今、神殿にいます。」というでしょう。しかし、礼拝をささげるために礼拝堂に入って来たときに覚えなければならないのは自分が目に見えない神殿の中にいるという事実です。
教会とは神殿の中にいる者を指します。教会を指すギリシア語の「エクレシア」には「呼んだ、集めた、選んだ」という意味が含まれています。「選んだ者を呼び集めた」のではなく、「呼ばれて従って集まった者を選んだ」のです。みなさんは神殿の中にいるでしょうか? それとも、主日に目に見える神殿に出入りしているだけでしょうか?
その一方で、私たちはそれぞれ聖霊を迎え入れた神殿です。神殿に要求されるのは何よりも聖さです。コリント人への手紙第一3章16~17節は「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」といいました。自分を聖く守るためには自分をこの世と区別しなければなりません。この世に属した言葉に自分を預けてはいけません。この世に属した者はこの世の言葉を語りますし、この世もその人が語ることに耳を傾けます(Ⅰヨハネ4:5)。
神殿は誰が支配するでしょうか? 聖霊です。教会は誰が支配するでしょうか? 聖霊です。使徒の働き20章28節は「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」といいました。神殿がまことに聖くなるためには聖霊がその中で働かなければなりません。自分の中に聖霊がおられるということを知らない者は捨てられた者、すなわち呪いを受けた者です。聖霊がおられる神殿を聖く守りましょう。自分はもちろん家族も聖霊によって支配を受けるようにしましょう。教会が聖霊によって支配を受けるようにしましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 7. 8 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
教会を愛そう。教会を愛そう。教会は主イエスの体である。それゆえ、主の体を傷つけないで、主を悲しませないで、ただ主を愛して教会を愛そう。教会は主が自分の血によって買い取られた霊魂である。それゆえ、主が霊魂を愛されたように、私たちも教会を愛そう。
私は教会のために死ぬ。私は主のしもべである。その方が「いなさい」といわれるのであれば、この世に残って教会にとどまるし、「もういい。来なさい。」といわれるのであれば、逆らうこともできないで、その瞬間にこの場を離れなければならない。私はどちらにしても人のしもべではなく、十字架で死んで三日後によみがえられたイエス・キリストのしもべである。そのような自負心をもって生涯、他の人を罪に定めないで視無言しながらこの狭い道を歩む。
生涯、インターネットをしたこともないし、携帯電話をもったこともない。これは私が伝える福音を守るためであった。私は雑音や人間の感情に試みられないように、この狭くて険しい道を歩もうとするのである。誰かがこの文章を読んで鼻で笑ったとしてもこれが私の生活であり、真実である。内なる人と外なる人は常に衝突して戦っているが、結局は内なる人が勝利する。その日は私がこの世を離れる日である。
私は今、3歳の子どもが押したとしても倒れてしまうほど老いて弱っている。しかし、ときどき、運動をしながら、最後まで耐えようと踏ん張っている。愛する聖楽人の聖徒が私をつかんでくれればと期待する。ともしびの火のようなこの火が消えないように祈りによって油を注いでくれればと願う。強風から守ってくれればと願う。それでも消えそうになりながら孤独な道を歩んでいる者を無視しないでくれればと願う。まだ主が必要な体であるので、弱くて慕い求めるほどのものがひとつもない老いたしもべを愛によって守ってくれればと願う。
私は愛を受けることを願う。私の霊魂も聖徒から愛を受けることを願う。私が生きている間、ただこの老いた牧者と監督者を中心としてこの道を進み、自分の霊魂を愛して祝福し、「還言ベレヤ」という聖楽教会の使命をともに担ってくれればと願う。私は同情を求めるのではなく、慰めを受けることを願う。愛を受けることを願う。愛には憎しみがなく、赦しだけがある。愛は熱いものである。
オォ! 私が愛する聖楽教会よ。私と聖楽人がすべて命をささげて築いた聖楽教会よ。勇気をもって、信仰と愛によって主を喜ばせよう。私にはこの世に対して何の未練もない。今日も弾かれたように飛び起きる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室