罪の赦しを受けなさい
(使徒の働き2:36~42)
神は
義でおられる
その方が
神の義をこの世に知らせようとして、
御言葉を遣わされた(ヨハネ16:10)
律法の御言葉によって戒めを与えられたが、
これは私たちの罪を現すためであった(Ⅰコリント15:56)
真理の御言葉によって恵みの福音を与えられたが、(ヨハネ16:13)
これは私たちを神の子とするためであった(ヨハネ8:32)
私たちが今、
神の御前に出て来てその方が命じられることをするのは
肉体を脱ぎ捨てて霊的な者となるためである(ヨハネ3:4~21)
永遠のいのちは
イエスを信じ、霊的な者として復活に至り、
主イエスの花嫁として天でその方とともに生きることであるし、
天にいる天使よりも大きな者となって
永遠に神に仕えることである
それゆえ、
それぞれ自分の罪を悔い改めてこそ、(マタイ4:17)
聖霊を賜物として受けることができるし、
聖霊が臨まれてこそ、霊的な者となる(Ⅰコリント12:1~3)
○ 罪の赦しを受けるのは
神の願いであり、
イエス・キリストの願いである
○ 聖霊を受けてこそ、キリスト者となる
父と御子が聖霊とともに働かれる
聖霊を受けるのは絶対的な義務である
○ 「罪を犯さないために救いを受ける」のではなく、
「罪の赦しを受けるために救いを受ける」のである
罪の赦しを受けてこそ、まことの信仰である
※ イエスは昨日も今日も同じでおられる
イエスの血は私たちの死ぬべき罪を贖った
悔い改めて罪の赦しを受けよう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 12. 23 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
悪魔は私をだまそうとして、親しいふりをしながら近づき、もっともらしく語る。私がどんなに空腹を覚え、気力が尽きているのかを知って、まるで助けを与えるかのように偽り、「先生。これまで多く働いてきました。不名誉を被る前に名誉や自尊心を守ってください。」と勧める。「そうすれば、私たちが先生の名誉を守ります。」と惑わす。しかし、神は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。」といわれた。どちらの言葉が真理であろうか?
粉々になった石ころのような名誉や自尊心がこの世で私の面目を守るかもしれないが、私の霊魂を守ることはできない。しかし、神の御言葉は私の罪をすべて贖い、私をきれいにし、永遠に生かす。
ある人は私に「その高い権威から身を投げてみなさい。」と叫ぶが、それは悪魔の試みである。「そうすれば、天使があなたの足が石に打ち当たることがないようにする。」と偽るが、その人は天使でもないし、偽りの働き手となって悪魔の道具として用いられている。「早くひれ伏して私を拝みなさい。」と叫ぶが、その声は天から来た声ではないし、聖霊によって語られた言葉でもない。その声にだまされる者がいるであろうか。彼らが与えるという天下の栄光は不従順、不法、堕落とともに霊魂の永遠なる没落である。
「引き下がれ! サタン!」という主の声を聞いて、引き下がりなさい。私はこれまで石ころのような名誉を愛することはなかったし、名誉のために生きることもなかった。その理由はこれまで60年近く語ってきた言葉や御言葉、証しの中にあるし、『私が体験したイエス・キリストの神癒と聖なるしるし』、『悪魔論』、『神を知ろう』という本に書かれている。
私に「監督の地位から身を投げてみなさい。」と怒鳴り散らすが、それはこの世に属した言葉であり、神に属した言葉ではない。その言葉にだまされる者がいるであろうか。「あなたを高め、守ってあげるので、早くひれ伏して私に降伏しなさい。」という悪魔の声が果たして勝利するであろうか?
イエスも「誰でも私について来たいと思うのであれば、自分の十字架を負って、私について来なさい。」といわれた。「それがまことの弟子となる道である。」といわれた。私はこの世のどのような栄光よりも、どのような慰めよりも自分の十字架を神から戒めとして受け、主イエスが歩まれた険しいゴルゴタへの道を歩み、主が命じられた死を迎える。私は罪多き者である。しかし、主が私をきれいにしてくださった。私は無能な者である。しかし、主の聖霊が私とともにされる。私が歩む道は運命ではなく、天で定められた道である。それゆえ、「御心がなされますように。」と祈る。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室