
生きている者の神
(ルカの福音書20:37~40)
神は
永遠に生きておられる
その方が
この世に永遠のいのちを与えるために御言葉を遣わされた
神の御言葉は永遠のいのちである(ヨハネ1:14)
永遠のいのちの御言葉は初めの前から
神とともにあったために、永遠に生きている
神でおられる(ヨハネ1:1)
私たちの信仰は
神と永遠のいのちはひとつであるというものであり、真理である(ヨハネ10:30)
肉体は寿命が尽きれば、土に帰る(創3:19)
霊だけが永遠に存在するが、
神の義があれば、天で永遠に生きるし、(ヨハネ3:16)
神の義がなければ、地獄で永遠に存在する(へブル10:27)
神の義は真理であり、(マタイ6:33)
イエス・キリストである(ヨハネ14:6)
イエスを信じる者は復活して永遠のいのちを受けるし、
信じない者は復活して裁きを受ける(ヨハネ5:28~29)
復活するときにはこの世のものはすべて終わるし、
神にだけ属する
神は
生きている者の神でおられる(ルカ20:38)
○ アブラハムが死んだのちにはイサクの神、
イサクが死んだのちにはヤコブの主と呼ばれた
○ 復活したのちにもこの世が引き続き存在すると誤解するのは
真理を信じないためである
真理は唯一であり、永遠である
○ 「この世で最も大きい者も人がつけたともし火のようなものに過ぎないし、
天から生まれた者は最も小さな者であってもその人よりも大きい」と
いう御言葉を信じなさい
※ 私たちの信仰と望みは復活である
イエスがよみがえったのちに
ヨハネに「そこにあなたの母がいます」といわれたことを覚えなさい
【牧師コーナー(松竹岩) 】 2019. 4. 7 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
イエス・キリストの人は聖霊の名によってバプテスマを受け、古いものをすべて葬った。そして、肉に属する者ではなく、霊に属する者となった。神に属して神の御心通りに永遠のいのちを得る者となった。多くの人が信仰をもっているといいながらも、続けて不信者に語るように不信仰を擁護し、天にある栄光を世俗化しようとする。
この世では家族が存在するが、神の国では父なる神だけがおられる。それ以外はすべてその方の子である。そこではめとることも嫁ぐこともない。人はこの地では永遠に生きることができない。それゆえ、短い生涯をアダムからつなげてその脈を受け継ぐためにめとったり嫁いだりする。しかし、天では死ぬことがないので、そのようにする必要はない。
この世では家族がひとつとなって、ともに生きていくが、霊魂が肉体を離れる瞬間からはそれぞれ報いを受け、自分の道を歩むようになる。他の宗教に由来する説にしたがってこの世で生まれ変わるかのように語るのは真理ではないし、そのように語る者を真理の人ということもできない。
この世でともに生きてきた家族がのちには別れてしまうという思いから、人々は貴い復活を逃してしまう。人間関係は人間の関係に過ぎない。バプテスマを受けたときから父、母、兄弟、姉妹は自分の霊魂のために進む道をそれぞれ歩むようになる。イエスは「私が地に平和を与えるために来たと考えているのか? そうではない。私は剣をもたらすために来た。父と子、母と娘、姑と嫁が互いに対抗して分かれるようにするために来た。」といわれた(ルカ12:49~53)。
神の国は家族単位で入って行くところではなく、それぞれの信仰によって入って行くところである。イエスは「その火が燃えていたのであればどんなにいいであろうか。」と嘆かれた。宗教は家族を平和にして平安にするが、イエスは平和を与えるためではなく、むしろ分裂を与えるために、火を投げ込むために来られた。それゆえ、この世はイエスがキリストでおられるという信仰を受け入れることができない。
イエスは「誰が私の母、私の弟であるのか? 誰でも神の御心を行う者は私の兄弟、姉妹、母である。」といわれた。信仰はそれぞれの霊魂の分量にしたがってもつものである。それゆえ、「ともに地獄に行こうとするのか? 天に行こうとするのか?」をはっきりとさせなければならない。
私たちは自分の家族が敵であるということを悟り、彼らを愛して憐れみ、第一の伝道対象としなければならない。私たちが復活する日はすぐに訪れる。死んだ者も、生きてこの地にいる者もすべてその日を迎えるようになる。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室