
信じてバプテスマを受けなさい
(ローマ人への手紙6:1~11)
神は
愛でおられる
その方が
人類を愛して、ひとり子を与えられた(ヨハネ3:16)
イエス・キリストは
神でおられるし、愛でおられる(ヨハネ1:18)
イエスはその方の名であるし、(ヨハネ1:12)
キリストは人の子の職分である(マタイ16:16)
イエス・キリストが
神と人の間をふさいでいた壁を壊された
十字架で罪を贖い、律法を廃棄された(エペソ2:14~18)
これを体験するのが「バプテスマ」である(ローマ6:4)
バプテスマはこの地から湧き出る水と
天から臨む御言葉の結びつきであるし、
神と人類を結びつける証しである
聖霊によってなされる、(使1:5)
神と人の永遠な結びつきである(使10:47~48)
ヨハネのバプテスマはただ水によって施されるものであり、
神と人を結びつけることができない(マタイ3:10~11)
バプテスマは肉体が水によって体験するものであるし、
霊魂が聖霊によって体験するものである
○ バプテスマを受けてこそ、
神との永遠な関係が成立する
それゆえ、バプテスマはただひとつである
○ バプテスマは信じる者が受けるものである
信じてバプテスマを受ける者は救いを受ける
聖霊によって霊魂がバプテスマを受けなければならない
○ 信じてバプテスマを受けた者は救いを受けた者である
信じる者としてのしるしが伴う
これはイエス・キリストの御言葉である
※ 信じる者には
聖霊が臨まれるし、
力が豊かに臨む
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 8. 11 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私の生家は忠清南道の瑞山にある。そこは浅水湾の端にあり、海水が満ち引きするところである。私の家は藁ぶき屋根の家であり、上から見ると、韓国語の「ㄷ」の字の形をしていた。外に突き出している部分には竹の木が生えていたし、その内側に松の木が何本かあった。また、その下には大きな岩が埋められていた。私は旧暦の5月5日を何日か過ぎたある日の早朝、泣きながらここを離れ、この世に顔を出した。
私の名は親戚の年長者がつけた。その人は娘が3人いた家についに息子が生まれたという知らせを聞いて、ろばに乗って駆けつけた。その人は朝日を眺める私の目を見て、名をつけたという。その人は皇帝・高宗の時代に秘書室長のような職位に就いていたこともあった。私の名の「東」という字は一族の間で共通して名前に使われた字であった。また、私の名の「箕」という字は竹と松と岩をひとつに合わせた字であった。
私はその人によってつけられた自分の名を自分の精神とした。生涯の長い旅には多くの困難と妨害があったとしても耐えなければならないと考えた。季節が変わったとしても色が変わらない松の木、どんなに雨が降らなかったとしても立ち続ける竹の木、そして、台風が襲い、波が打ちつけたとしても動かない岩、そのような特性を自分の精神とした。
私は人生の道でさまざまな試練に遭ってきた。イエスを信じ、バプテスマを受け、新しい人となったのちにさまざまな試練を受けてきたし、今も大きな試練を受けている。これは肉体よりも霊魂を激しく揺さぶる霊的な試練である。このようなときに私は松竹岩という精神をしっかりと握りしめようとする。変わりやすいこの世の人々の心に勝利しなければならないし、干ばつに苦しみながらも高いところに向かって叫ばなければならないし、強風と波に遭いながらも岩のように耐えて勝利しなければならない。
岩に傷がつくことはあったとしても、勝利しなければならない。そして、そのために耐えなければならない。このような考えによって私は生涯、揺れ動くことがなかった。神は私に用いるべきところがあると考え、私をその手でつかまれた。私には義も力もないが、松竹岩という精神がある。戦争や凶作、貧しさ、岩を揺さぶる強風が襲ってきたとしても、私は耐えている。私は砂ではなく、岩である。耐えて立ち続けなければならない。
私は教会を設立するときに、この教会は独立教会でなければならないと考え、これを揺れ動くことがない基礎とした。これが失敗に終わるのであれば、松竹岩に何の意味があるであろうか。私は必ず勝利すると確信する。また、この勝利は神が定められた御心によるものであると信じる。私は松竹岩である。視無言は松竹岩である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室