イエスの心をもちなさい
(ピリピ人への手紙2:1~11)
神は
父でおられる
その方の
ふところから生まれた方が御子、
イエス・キリストでおられる(ヨハネ1:18)
イエスは自分が父と等しいとは考えないで、
天使よりも低い人となり、(ピリピ2:7)
父に従って服従されたが、
十字架の死である(へブル2:9)
これによって
神はイエスにすべての名にまさる御名、
「イエス」を与えられた(へブル1:4)
イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてにひざをかがめさせ、
そして、
父なる神に栄光を帰させた(ピリピ2:10~11)
これが
イエス・キリストの心である(ピリピ2:5)
私たちは聖霊によって主の心をもたなければならない
主イエスの心は謙遜である
聖霊の人はまことに謙遜な聖徒である
○ 神は高ぶる者を滅ぼし、
謙遜な者を高められる
神は死にまで従ったイエスを高められた
○ 私たちの霊魂を救う方は
謙遜をもって死にまで父に従い、
私たちの救い主となられた
○ 互いに尊重して謙遜になろう
私たちのかしらは主しかいない
誰もかしらになろうと考えてはいけない
※ 悪魔は高ぶる者のかしらである
高ぶる者は悪魔のしもべとなる
ただ謙遜な者が神のしもべとなる
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 8. 18 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
無精卵と有精卵は外見的には区分することができない。しかし、雌鶏がその卵を抱くのであれば、有精卵は変化を見せる。3日後には血管が作られるし、そののちには次第にその血管が大きくなりながら、目が作られ、体が作られる。このとき、白身は骨となり、肉となり、毛となり、体となる。また、黄身は食べ物となる。そのようにして21日が経つと、ふ化して、ひよこが殻を破りながら外に出て来る。そして、3日間、もって出て来た黄身を消化させながら、排せつをはじめる。初めはぽっちゃりとしていたひよこは細くなり、軽く感じるようになる。そして、水を飲み、えさを食べるようになる。このときからは鶏として育つようになる。
しかし、無精卵は何の変化も見せないで、次第に腐っていく。言ってみれば、有精卵は生きている卵であり、無精卵はいのちをもたない卵である。雌鶏は有精卵を10~20個に限って産み、卵を抱くために体熱を出す。36度の体温が38度、39度に上がっていく。そのとき、卵の中でひよこが育ちはじめる。しかし、無精卵は初めからいのちをもたないために、何の変化も見せない。
私は一時期、養鶏業を専門的に営んだことがある。それゆえ、そのときに学んだ知識と今日の信仰生活の過程が類似しているということを悟った。人類は初めから宗教人といのちを得た信仰人に分かれている。アダムの子孫であるカインとエバの子孫であるアベルをモデルとして、人類の歴史は分かれている。
カインは霊的な宗教人ではなく、自分の修養を頼る非霊的で道徳的な宗教人であった。彼は無精卵のように、その中にいのち(霊)をもたなかった。イエスは「雌鶏がひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」といわれた。そのように神は人類を創造したために、熱く人類を抱いた。
宗教人はどんなに抱かれたとしてもその中にいのちをもたないために育つことがない。しかし、いのちをもつ有精卵のようないのちの信仰人は神に養育され、その中で育つ。そして、のちにひよこがふ化して出て来るように、復活の日に至る。そのとき、卵の殻は割れて無用なものとなり、ひよこだけが飛ぶことができるようになるが、そのように復活の栄光を見るようになる。
このような自然啓示を通して、私たちが信じるものが何であるのかを悟るようになる。この世にいるときには良心的な宗教人といのちをもつ信仰人は外見的には区別することができない。しかし、いのちがある信仰をもった者の霊魂は真理と聖霊によって育つ。そして、時が来ると、主イエスの日に第一の復活の栄光を見るようになる。これが私たちの目標である。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室