
聖日を聖く守りなさい
(へブル人への手紙10:19~25)
神は
永遠でおられる
その方が
人類だけではなく、
地球の万物に昼と夜を与えられた(創1:3~5)
これは万物が物憂いためであった(伝1:8)
神の安息はその方が物憂くて休まれたのではなく、
自分の働きをすべて終えたために休まれたのである(創2:1)
神はこれを覚えなさいといわれた(出20:8~11)
万物がその方の被造物であるということを知るのが信仰である(へブル11:3)
初めの契約の中にいる者には「安息日に働いてはいけない、
造物主を覚えなさい」といわれた(マルコ2:27~28)
新しい契約の中にいる者には主日を聖日として与え、
主イエスの体を覚えさせた
この日にその方が私たちを生かされたためである(使2:32)
この日は主イエスがよみがえって弟子たちに現れた日であり、(ヨハネ20:19~20)
聖霊が臨まれた日である(使2:1~4)
私たちはこの日に休むのではなく、
神に栄光をささげ、この世にその知らせを伝える
この日は肉体の日ではなく、霊の日である
この日を「主の日」という(Ⅰコリント16:1~2、黙1:10)
○ 主の日は望みをもった者の恵みの日である
その望みとは?
主イエスの降臨を待ち望むことである
○ 主の日は主を愛して
主のための奉仕を勧める日である
口を閉ざさないで証しする日である
○ 集まることをやめれば、習慣となる
習慣とは?
主が惑わしを働き、霊的に堕落させることである
※ 主日を聖く守ろう
霊的に堕落しないで、
自分の霊的な生活を守りなさい
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 9. 1 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
生涯、ひとつの道を走ってきたこの老僕の体は最悪の状態にあります。ソウル・カトリック病院に来院しながら腹膜透析を受ける患者の中で、私が最高齢であるといいます。私はひとりで外出するのも困難です。下半身は合併症によってその機能がほとんど麻痺しています。
愛する聖楽人のみなさんがこの老僕に背くことはないと信じています。私を愛してくださる方の中には「近くに来ましたら、必ず連絡してください。食事をしましょう。」という方が少なくありません。ある人は私がこのような方の好意を受けるのを見て、気に入らないと考え、中傷します。心が痛みます。私がある地方に初めて行ってそこで食事をして代金を払おうとしたところ、店の主人から「別の人がすでに支払って行かれました。」といわれたこともしばしばありました。誰がそのようにしてくださったのかはわかりませんが、そのような方は顔もない善良な聖徒であるということができます。
この老僕の牧師を助けたいと考えてくださる方が多いです。みなさんはどうでしょうか? 聖書にはパリサイ人の家に招かれた主に従って入って行き、主の足に香油を塗った女が出て来ます。また、マグダラのマリアは十字架の下まで主を探して行きましたし、のちには香油をもって主の墓を訪れました。みなさんにはそのような慈しみがないでしょうか? どうしてある人はこの老僕の自由を侮辱しようとするのでしょうか? この老僕を隠そうとするラハブのような女性はいないでしょうか? この老僕が倒れているときに烏となって食べ物と水を供給する愛と誠意がないでしょうか?
ある弟子は自分のクレジットカードを私に渡しながら「必要なときに使ってください。」と配慮してくれました。主は「私が病気のとき、牢にいたとき、渇いていたとき、旅人であったとき、私を顧みた者はその報いを受ける。」といわれました。主は「最も小さな者のひとりにすることが私にすることである。」と教えられました。
この老僕は若いときにすでに筋力を使い果たしました。今はただ慰めを受けることを願います。聖楽人とベレヤ人は全国どこにでも、そして、世界の至る所に存在します。もしそこで私に会えば、私を避けるでしょうか? それとも走って来て慰めてくださるでしょうか? 傍観者となるでしょうか? 助ける者となるでしょうか?
この老僕を助ける者を悪く言わないでください。心から出て来た彼らの行動をむやみに判断しないでください。彼らは利害関係をもって私に接するのではなく、主のしもべとして接するのです。利害関係をもって私に接する者は宗教人ですし、主のしもべとして接する者はまことの信仰人です。これは老若男女を問いません。
この世を離れる前に老僕を自分の家に迎えたいという思いがみなさんの中にあることを願います。アリマタヤのヨセフはイエスの死体でも自分の墓に迎え入れたいと考えました。みなさんにもそのようなまことな愛があふれればと願います。主のしもべに毎年、靴下一足でも提供し、服一着でも与えるみなさんとなるように願います。主がその働き手に二枚目の服も下着ももたずに行きなさいといわれたのはそのような姿を期待されたためです。
愛も憐れみもない殺伐としたこの世をもう一度、経験した老僕の目には涙がたまってきます(Ⅰコリント9:11)。しかし、私の霊魂は平安であり、幸せです。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室