【質問】

律法を通しては救いを受けることができないという御言葉を聞きました。それならば、神はそのような律法をどうして与えられたのでしょうか?

聖楽宣教センターの回答です。

一般良心とは人の前での道徳的な恥ずかしさであって、神の御前での恥ずかしさではない。その秩序破壊はただ人の前で罪を犯すことである。
しかし、信仰良心を犯すというのは人の前ではなく、神の御前で罪を犯すということである(使5:4以下)。信仰は信仰良心をもっている。
罪の根源とは第一に、私たちの祖先が神の御前で罪を犯したということである。そして、第二に、母が罪の中で私をみごもったということであり、私が罪人として生まれたということである。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩51:5)
律法教会の義務は「律法の下にいる者はすべて罪人である。」ということを知らせるところにある。罪人であることを知らせるというのは裁きの下にいることを知らせるということである。これは結局、救い主を求めさせる道である。自分が死ぬということを知らなければ、救い主を求めることはできない。病人だけが医者が探すように、永遠に死ぬということを悟って生きようとする者だけが救い主を探そうとする。

(金箕東キムキドン 著 『教会論』「2. 旧約教会と新約教会 」より)