
わが霊魂よ、霊的になろう
(コリント人への手紙第一12:1~11)
神は
生きている霊でおられる
その方は
霊であるために、まことでおられるし、
まことであるために、真理でおられるし、
真理であるために、いのちであり、光でおられる(ヨハネ1:3~4)
その名はイエスといい、私たちの心に与えられた
イエスの名が私たちの心にあるというのは教理ではなく、
永遠のいのちである
神の子とされる権勢である(ヨハネ1:12)
神の子の権勢をもつ者は永遠のいのちをもつだけでなく、
聖霊によって霊的にならなければならない(Ⅰコリント2:10~16)
霊的な者は
神がなさる働きを知り、
イエス・キリストの職分を知り、
聖霊の賜物を知る
これは私たちに許されたことである
霊的な者は天に属した者のように、
聖霊の賜物に満たされなければならない(Ⅰコリント12:7~11)
病人に手を置いて病気を癒さなければならない(マルコ16:18)
悪霊が知って身震いしながら出て行くようにしなければならない(使16:16~18)
これは主が天でともに働かれるのである(マルコ16:20)
主イエスは昨日も今日も永遠に同じでおられる(へブル13:8)
○ イエス・キリストの人は霊的にならなければならない
イエスがなさった働きをしなければならない
○ バプテスマを受けた者は霊的にならなければならない
聖霊の賜物と力を常にもたなければならない
○ イエスの教会はイエスの体である
イエスの体はイエスのいのちであり、力である
イエスとその力に満たされなければならない
※ 聖霊の力がなければ、宗教人に過ぎない
宗教人は敬虔であるが、裁きを免れることができない
聖霊の人は自由な者であり、永遠のいのちを得る
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 01. 12 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
イエス・キリストの人は神に栄光をささげることを目的とし、これを成就するために心を尽くし、思いを尽くし、品性を尽くし、命を尽くして献身しようとする。聖書はこれを「神を愛しなさい。」という言葉に結びつけている。主である神を死ぬほど愛する者は牧会者となって自分の人生をささげようという思いに満ちている。
彼らはこのような聖い悩みをもち、最終的に神学校に入学して学ぼうとする。「神学校に行って学び、牧師となり、牧会をしよう。」と考える。しかし、学ぶというのがどのようなことであるのかをどれほど理解しているであろうか。
私たちは大学でさまざまな知識を得る。宗教に関連する学校では主に宗教学を研究する。しかし、キリスト者は自ら選ぶ学校で宗教学ではなく、神学を学ぼうとする。
宗教学と神学は厳密には異なる。この世にあるすべての宗教は布教と拡張のためにその哲学を学ぶ。しかし、キリスト教会は地球上で唯一、実在神学を学ぶ。すべての宗教は自分のために宗教哲学を学ぶし、キリスト教会は教会のために実存神学を専攻する。宗教哲学と実存神学ははっきりと区別された学問であり、一目で区分される。
宗教は人の思想を研究する。しかし、キリスト教は人の思想を研究するのではなく、生きていて永遠の前から自らおられる神の啓示を受けてこの世に現れた神の御子、ナザレのイエスをキリストと確信し、その証しをもつ。神学は虚構を追求するのではなく、実存される方を客観的に確認しようとする。
イエスは歴史的な存在でおられる。しかし、その方は歴史に縛られない神でおられる。学問的には宇宙と呼ばれるよみは虚構である。しかし、神の国、天は霊である。イエスは虚構の中に来られたが、その前には神とともにおられた。それゆえ、その方は神でおられる。
宗教哲学は宇宙と呼ばれるよみという空間を脱け出すことができない。ただその中で目に見えない精神世界を研究していく。実存神学は疑いや無知をもって接近するものではない。私たちはこの世に遣わされた、神のまことのかたちでおられる御子を知り、信じ、従い、バプテスマを受けた。バプテスマを受けた者は生きておられる神を知性、感情、意志、理性、卓越した被造物である人間の霊魂によって学ぶ。それゆえ、学校に入学して研究するのは宗教哲学ではなく、実存神学であるという点をはっきりと理解して選択しなければならない。これは私たちの使命である。
実存神学を通して、神学がすべての学問の中で最高の学問であるということを認め、尊重しなければならない。神学に対する自負心をもたなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室