空中の権勢をもった悪魔
(エペソ人への手紙2:1~10)
神は
霊でおられる
その方が
神の本体、すなわち霊のかたちを見せた、(Ⅱコリント4:4)
神のふところから出て来られたひとり子を
救い主として遣わされた(ヨハネ1:18)
その名はイエスである(マタイ1:21)
その職分はキリストである(マタイ22:41~46)
神のふところにおられた方がどのようにして現れたのか
インマヌエルして人となって現れた(マタイ1:23)
その方がこの世に現れたのは罪の下にいる霊魂の
代わりに刑罰を受けるためであった(マタイ20:28)
その方は十字架で刑罰を受けて血を流し、それによって
罪の価を払い、私たちを買い取られた(使20:28)
神の戒めはその方が自ら誓われたものであるが、(へブル7:20~21)
偽ることがない御言葉の法から
救うためには誓った方が代わりにその価を払わなければならない
十字架の苦難は誰かが殺したのではなく、
神が真理を選ばれたのである(ヨハネ10:17~18)
悪魔は真理に逆らう者を自分の兵士とする
悪魔は真理から離れ、天から追い出された霊である(Ⅱペテロ2:4)
宇宙というよみは悪魔の墓である
○ 真理に逆らった者は滅びる罪人である
神の法から離れ、この世の流れに従う
○ 今日も悪魔は真理から離れた者を支配し、
自分の働き手とするが、これは不従順である
○ 神は戒めに逆らった罪を、誓った通りに
代わりに担われたし、私たちを憐れんで、
恵みによって救われた
※ 私たちは信仰によって救いを得た
信仰によってバプテスマを受け、悪魔の網から解放された
神は聖霊を私たちの心に与えて守られる
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 01. 19 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
流れていく水を再び汲むことはできないし、吹いていく風を再び呼び戻すこともできない。いつの間にか83歳という高齢となり、私が進む道が秋風のように胸に染みわたる
過ぎ去っていったことが流れていく雲のように目の前を行き来する。それらは水の中にある砂利のように水によって磨かれ、それぞれ自分のかたちを作っている。そのかたちがそれぞれ異なるように、多くの面々が私に残していった心情はとても複雑である。ある人はなつかしく思うし、ある人は忘れてしまいたい。正直、私は自分を隠して生きてこなかった。ありのままに生きてきた。しかし、どうしてバラにとげが生えなければならなかったのかがわかるような気がする。それでも、折れてしまったバラの不憫さは私の目を閉じさせる。
私は自分を犠牲にしたとしても他の人を助けたかった。また、それが私に大きな失望や裏切りもたらすと考えてみたこともなかった。しかし、空の雲のかたちがそれぞれ異なるように、すべてが同じではなかった。この痛みを胸に納めていかなければならないと考えるが、あまりに大きな失望によって眠りにつくことができないときもあった。私が愚かなのであろうか。どうしてそのように愚かに生きてきたのであろうか。振り返ってみれば、これがこの世から受けたものであったと考える。結局、繰り返し人にだまされながら生きていくのが人生であるのか、必ずそのようでなければならないのか、私は虚空に向かって何回も独白するかのように尋ねたりした。
私に残されたのは数日、数時間だけであると悟った。これから私は神から与えられた道に従っていくだけである。このために自分の重荷をさらに軽くし、この世に出て来たときのままの姿で、手にも足にも何の力も込めずに、天使が連れて行くその瞬間まで、すべてのことを整理しようとする。
第一に、偽りがあってはいけないし、第二に、欲があってはいけないし、第三に、還言のために命を差し出している同志のために最後まで信頼して愛さなければならない。この世の人々が私をどのように考えるのかは彼らがのちの裁きのときに答えなければならないことである。カラスが黒いからといってその中まで黒いとはいえないし、シラサギが白いからといってその中まで白いとはいえない。私は自分が進む道のためにすべてに耐えながら備えている。
この世で知ることや所有するものはなかったとしても、イエスを知ることにおいては霊魂をもって神に誓う。私は去って行くが、私が歩んできた道は続いていくし、その働きも続けられる。還言というベレヤ人の使命、私の頭と胸と手首を通して書かれた福音仲裁の知識や知恵は本として残り、長い間、働いていく。
私の願いは愛する息子が私の顔と声の代わりをすること、そして、人々が私の本を多く読んでくれることである。私は国と力と栄光がただ神に永遠にあると信じる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室