御言葉と聖霊の力
(ルカの福音書1:31~38)
神は
父でおられる
その方が
御言葉をこの世に遣わして、(Ⅰヨハネ1:1)
聖霊を遣わされた(ヨハネ20:22)
これは御心をなすためであった(ヨハネ6:38~40)
神の御心は永遠の前に定められた(ヨハネ1:1)
イエスはその御心を戒めとして受け、この世に来られた(ヨハネ10:18)
御言葉が聖霊の力を受けて来られた(ルカ1:35)
薪と火が合わさらなければ、燃えないように、
御言葉が薪のように多く積まれたとしても、
聖霊が火のように力をもって働かれなければ、(マタイ12:28)
神の御心はなされない
ある人は律法を御言葉と誤解するが、
律法はしもべの霊である(ローマ8:15)
神は御言葉でおられる(ヨハネ1:1)
律法は創造主ではない
神の御言葉だけが創造する(へブル11:3)
イエスは御言葉が肉体となって来られた(ヨハネ1:14)
それゆえ、聖霊がその上に臨まれれば、不可能なことがない
聖霊を真理の霊という理由がここにある
○ 私たちが多く祈るのは
御言葉が聖霊によって働くように聖霊に満たされるためである
御言葉があってこそ、力が現れる
○ 神の御言葉を多く読んだとしても、
聖霊が働かれなければ、力が現れないし、
神の御心がなされない
○ 神の御言葉を聞く耳をもち、
聖霊によって謙遜な心をもって従うのであれば、
神が働かれる大きな力を見ることができる
※ 救い主イエスがこの世に臨まれたのも
御言葉が臨み、
聖霊がこれを覆ったためである
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 02. 09 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
神の御言葉は神でおられる(ヨハネ1:1)。これを信じるのであれば、その御言葉に絶対的に従わなければならない。これが私たちの信仰である。しかし、人々は神の御言葉を神と信じない。ただ聖書を宗教書籍としてだけ扱う。昔から伝えられてきた伝統とだけ考える。彼らは「神の御言葉(ロゴス)」を「神」と信じないために、力を現すことができない。神の御言葉が生きて彼らの中で働くことがない。
神の御言葉が肉体となってこの地に来て働かれた、その働きがどんなに偉大であっただろうか。私たちはこのような真理を信じるために、神の御言葉とイエス・キリストを区別しない。イエス・キリストが神でおられると信じるのもその方が神の御言葉が肉体となって来た方でおられるためである。私たちは御言葉とイエス・キリストがひとつであると信じる。
神の御言葉が生きていて力をもっているのであれば、イエス・キリストも同様である。イエス・キリストと神の御言葉には少しも異なるところがない。イエスが力をもっておられるのであれば、神の御言葉も力をもっているし、神の御言葉が力をもっているのであれば、イエス・キリストも力をもっておられる。
主イエスが語られた御言葉はその方が自ら語られたものではなく、父なる神から命じられたことをそのまま語られたものである。私たちの信仰においてイエス・キリストと神の御言葉が一致しなければならない。御言葉が語っている通りにイエス・キリストの力が現れないのであれば、それは一致していないのである。太陽と月がひとつの線にならなければ、日食や月食は現れない。それと同じように、神の御言葉とイエス・キリストがひとつの線になって一致しなければならない。御言葉とイエスが別々であるのならば、それは正しい信仰ではないし、宗教生活を送っているに過ぎない。
多くの人がイエスと神の御言葉を別のものと理解するために、力を現すことができない。神の力はしるしとして現れる。神の御言葉が「病気の癒しを受けなさい。」というのであれば、その通りになされる。イエスも聖霊によってそのようにいわれるのであれば、その通りになされる。たとえ私たちの耳にその声が聞こえてこなかったとしても、主が「罪の赦しを受けなさい。」といわれるのであれば、聖書に記録された御言葉がそのようにいうのであれば、私たちにその通りになされなければならない。
今、私に現れる神癒や悪霊の追い出しのようなしるしも神の御言葉とイエス・キリストを一致させ、従うことによって現れる。私たちが証しとして伝えるのはイエス・キリストが十字架で死んだのちに生き返った神の御子、私たちの神でおられるということである。主イエスがよみがえって自分が生き返ったことを証されるときに、神の御言葉も生きてともに働く。御言葉とイエス・キリストはひとつである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室