
御言葉の外に出て行ってはいけない
(コリント人への手紙第一4:6~13)
神は
完全無欠でおられる
その方が
この世に自分を知らせたのは
この世に自分を信じさせるためであった(ヨハネ17:3)
神を見た者はいないが、
神は自分を知らせるために天の福音を与えられた(マルコ1:1)
宇宙の中にあるものだけを知る人間に
天の栄光を見せた(ローマ8:32~39)
宇宙の中にあるものを頼っていた情欲を
バプテスマによって葬り、(ローマ6:1~9)
ただ天から来るものだけを受けさせた(ヨハネ12:47~50)
神のいのちと力、
力ある働きと栄光、
神のすべてを相続する権勢と約束を
御言葉によって与えられた(へブル4:12~13)
神の契約は自分を指して誓われた契約である(へブル6:13)
聖霊が直接、来て、証しされる(ヨハネ15:26)
イエスはその契約の仲介者であり、御言葉でおられる
イエスは天にある、すべてのもののかたちでおられる
イエスを知れば、そのすべてを知って受けたのである(ローマ8:16~17)
○ 神の約束は神が自分を指して誓われた、
神の義であり、自尊心である
神の御言葉を疑わないで、信じなければならない
○ イエスは御言葉でおられる
御言葉から離れるのはイエスから離れることであり、滅びである
イエスから離れるのであれば、何もなすことはできない
○ イエスは御言葉であり、真理でおられる
真理はまことであるし、まことは天である
神は天でおられる
※ 御言葉から離れるのは天に属することではない
患難を受けたりこの世から捨てられたりしたとしても、
御言葉から永遠に離れないと決心しなさい
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 03. 08 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
教会全体が力を合わせて教会を守ろうという思いをもって献身している。教会を愛するという実直さをもって教会を守っている。イエス・キリストの御言葉を通して救いを受けた聖徒が自分を救ってくださった神の意図をはっきりと知り、ベレヤ人を模範とし、聖書を調べながら信仰を堅固なものにしようとしている。私たちの教会は宗教ではなく、そのような信仰の揺籃である。
突然、教会に患難を引き起こした分裂派の悪行によって教会は苦痛を受けている。イエス・キリストがこの世におられるときにも、弟子たちは争うように「私は主のために死にます。主を絶対に否認しません。」と告白したが、イエスの身に大きな苦難が襲うと、イエスのそばを離れる者もいたし、外套を脱いで逃げる者もいた。優秀な弟子といわれていた者もイエスを三回、否認した。
孤独で厳しいゴルゴタの道を進んだイエスは結局、十字架で死なれた。そののちにイエスは再び戻って来た11人の弟子が集まっているところに入って来て「平安があるように。」といい、「聖霊を受けなさい。」と命じられた。そして、彼らが責任を負わなければならない伝道を命じて、彼らが見ている中で天に上って行かれた。そののちに主の約束通りに聖霊が臨まれた。聖霊を受けた聖徒はエルサレム、ユダ、サマリヤ、地の果てにイエスの復活を伝え、「聖霊は真理の霊でおられる。」と証しした。
このときから迫害がさらにひどくなり、イエスを殺した者は石を投げつけながら聖徒を迫害した。ステパノのような殉教者も現れたが、弟子たちはむしろさらに信仰を堅固にして、イエスの福音とその名を天下に伝えた。そのときの彼らの犠牲がなかったのであれば、今日、全世界にイエスの教会が存在したであろうか? 彼らは力や命を尽くして主を愛した。今日も彼らを模範として殉教する覚悟をもって走っている聖徒が多く存在する。
今日、聖楽教会は「教会を守ろう」という思いを集めて熱心にそれを実践している。しかし、その中の一部の者はイエスに来ては口づけをし、教会の外に出て行っては教会を見くびり、自分が収拾するかのように妥協しながらビジネスをしている。イスカリオテ・ユダのような者は教会を守る者ではなく、教会を略奪する者である。
はっきりと言うが、視無言は教会を創立した者であり、初めから変わることなく教会を守ってきた者である。私たちは教会を守るために教会の財産、土地、どのようなものであっても誰にも与えることができない。監督の固い意志に納得がいかないのであれば、教会から離れればいい。それが教会を助ける道である。
監督が投獄されたとしても、それを教会員を惑わす口実にすることはできない。ともに力を合わせ、監督の意志を否定して二股をかけている者を探し出して追い出すことを願う。それが教会を守ることである。私たちはすべて松竹岩である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室