2020. 11. 29 神の御言葉 (ヨハネの福音書1:1~5)

神の御言葉
(ヨハネの福音書1:1~5)

神は
天におられる父である
その方は
霊でおられるが、霊は神の本体であり、天である(へブル1:3)
天はまことであり、真理である(ヨハネ17:3)
真理は御言葉であるし、その御言葉をロゴス(λόγος)という(ヨハネ1:1)
御言葉、ロゴスは実在であり、
永遠のいのちでおられるイエスをいう
その方は神とともにおられたいのちであるし、造物主でおられる(ヨハネ1:2)
その方がこの世に光として来られた(ヨハネ8:12)
その光は霊魂と骨髄まで刺し通す(へブル4:12)
その光があるところが天である(エペソ5:8)
私たちはその光を見たために、天にとどまる
イエスという名は天の名であり、
よみ(宇宙)からの自由という意味をもつ(マタイ1:21)
イエスという名は(ピリピ2:10)
光の名、いのちの名、御言葉の名、真理の名、
天の名、その霊の名、
神の本体の名である
聖霊は真理を証しする霊でおられる(ヨハネ16:13)
助け主であり、私たちの霊魂の先生でおられる(ヨハネ14:26)
〇 心にその名をもったのであれば、
神の子となる権勢を得たのである(ヨハネ1:12)
キリストとともに栄光を受ける相続者となったのである(ローマ8:16~17)
〇 御言葉(ロゴス)は天に属する
言葉はよみという宇宙に属する
御言葉(ロゴス)にはいのちがあるが、言葉にはいのちがない
〇 イエスの名は天にある全知全能の名であり、
神の御心をなした完全無欠の名である
その名があがめられなければならない
※ 天でなされた
神の御心をこの地でもなそうとして、(マタイ6:10)
主イエスがこの世に来られた(ヨハネ6:37~40)

2020. 11. 22 十字架の効力 (ヨハネの福音書3:11~15)

十字架の効力
(ヨハネの福音書3:11~15)

神は
御子から栄光を受けられる
その方は
ふところにおられた御言葉をこの世に遣わされた(ヨハネ1:14)
御言葉が肉体となって、インマヌエルとして来られた(マタイ1:23)
イエスだけが父を見たし、父を知っておられる
御子は父の本体の栄光でおられる(Ⅱコリント4:4)
神の本体は霊であるし、霊は天である(ヨハネ8:23)
その方がこの地に来られたのは父の御心を行うため、
十字架で血を流すためであった(ヨハネ8:23)
私たちはこれによって天の血を見たが、その血はいのちである
神の血はいのちであり、霊である(ヨハネ6:63)
人と獣の血は水である
水のようなものによっては罪を贖うことができない
神の血、いのちによってこそ罪を贖うことができる
蛇は呪いを受けた者であり、この世が忌避する者である(創3:14)
その呪いを受けた者が木につけられて再び呪いを受けた(ガラテヤ3:13)
イエスが死なれた十字架は呪いの中の呪いであった(マタイ16:24~25)
その方が十字架につけられたことによって
私たちは救いを受けるし、永遠のいのちを得る(ヨハネ3:15)
十字架は恥ずかしいものであるが、救いを受ける私たちにとっては
神の力となる(Ⅰコリント1:18)
〇 神の栄光の御子が恥ずかしい道を選ばれた
その道は天国に行く道であり、門である
〇 十字架の道を恥ずかしく考えないのは救いを受けたためである
これが福音であるが、福音を恥ずかしく考えないのが
いのちであり、永遠のいのちである
〇 神の意図を知るのは恥ずかしいことではない
神を知って真理を知るのが永遠のいのちである
主が私たちをそこに追いやられた
※ 私たちは主とともに恥ずかしい船に乗っている
この世が嫌う十字架の道が救いの力である
主イエスとともにする者はともに十字架につけられた

2020. 11. 15 神のように聖くなりなさい (ペテロの手紙第一1:13~25)

 

神のように聖くなりなさい
(ペテロの手紙第一1:13~25)

神は
霊でおられる
その方は
生きている実存であり、知識、知恵、意志を
もっており、創造と裁きを御心通りになさる(ヨハネ1:1~4)
その方の御言葉は
真理であり、神を知らせる霊である(ヨハネ6:63)
神と御言葉はひとつである(ヨハネ10:30)
人間は土で造られた物質である(創5:2)
神と物質の調和は不可能である(マタイ3:2)
しかし、
神は自分を低めてこの世に来られた(ヨハネ1:14)
その方は「肉と情欲を脱ぎ捨てて、(ガラテヤ5:24)
霊によって神に近づきなさい」ということを、
「神のように聖くなりなさい」といわれた(Ⅰペテロ1:15~16)
宇宙の中で肉体が神とひとつになるというのであれば、
区別がなくなるし、霊を否定するようになる(ヨハネ8:23)
神は霊によって働き、語られる(ヨハネ4:24)
私たちも霊によって生まれ変わり、霊に属さなければならない(ヨハネ3:3~8)
これが聖くなるということである
聖霊は聖なる霊であり、私たちの霊を助ける
〇 肉体によってその方に近づけば、その方を見ることができない
聖くなければ、主を見ることができない
肉によって生まれたのは肉であるし、霊によって生まれたのは霊である
〇 私たちが悔い改めてバプテスマを受けたのは
まことの生まれ変わりである
肉の情欲を脱ぎ捨てて、霊によって再び生まれる
〇 肉によって探すのは宗教に過ぎない
霊によって神を探す
神のように聖くなる者だけが神を見る
※ 神の御言葉は霊であるために、聖くならなければならない
聖霊が聖いように、真理によって聖くならなければならない
イエスの人は聖くならなければならない

2020. 11. 08 まことの礼拝と仕え (マタイの福音書6:19~24)

まことの礼拝と仕え
(マタイの福音書6:19~24)

神は
栄光を受ける方でおられる
その方が
宇宙を創造し、その中に万物を造り、(創1:1)
天に霊的なものを満たし、
それらから栄光を受けられる(詩8:1)
礼拝を通して栄光を受けられる(詩26:8~9)
神は霊でおられるし、「霊によって礼拝をささげなさい」といわれた
私たちは肉体を超越し、霊によって礼拝をささげる
霊によらなければ、それは偽りであり、いのちをもたない
神の失望は大きい(ヨハネ4:23~24)
いけにえの供え物は
イエスが最後である(Ⅰコリント5:7)
霊とまことによって礼拝をささげる
霊魂を天に届けようとしても、
心が霊魂を縛ってしまえば、宗教儀式となる(ヨハネ13:2)
それゆえ、
宝をささげなさいといわれた(マタイ6:19~20)
宝があるところに心もあるためである(マタイ6:21)
富(マモン)とは主人という意味である
それが心にあれば、主人となるし、なければ、しもべとなる
〇 礼拝はただひとりの主人に仕えることである
富のしもべとなった者が同時に主に仕えることはできない
献金をささげるというのは「マモン」をあきらめるという意味である
〇 宝を天にたくわえれば、その心は天にある
宝を地にたくわえれば、その心は地にある
神は霊であり、天におられる方である
〇 天は霊であり、
神の本体である
イエスをその本体のかたちと信じて頼る
※ イエスの中にいなさいというのは天に入って来なさいということである
礼拝は「自分の主人は天におられる」と認めるものである
神は唯一の主人でおられる

2020. 11. 01 十字架の道(御言葉) (コリント人への手紙第一1:18~25)

 

十字架の道(御言葉)
(コリント人への手紙第一1:18~25)

神は
義でおられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたのはその方の愛であった(ヨハネ3:16)
この世では罪と宗教が衝突する(マタイ23:13)
罪は宗教を否定するし、宗教は罪を嘲笑するが、
すべてが不義である(へブル9:14~15)
罪は神に逆らうし、
宗教は神をあざむく(へブル11:6)
この2つは硬貨の表と裏のようなものであり、顔だけが異なる
神が憎まれる不義の道を行く
十字架の道とは
神の義のために神の御心に従うことである
イエスは義のために神の御心をなそうとして来られた(ヨハネ6:38~39)
それゆえ、
罪は不従順であるし、宗教は高ぶりである(Ⅰコリント3:10~17)
神の義を知らなければ、罪悪である
この世は十字架の道を恥ずかしいものと考えるが、これは(へブル12:2)
神の知恵であり、力である(使4:12)
救うという者が殺されたので、呪いである
呪いの十字架の道は愚かなものとして宣べ伝えられる
〇 イエスは「誰でも私に従おうとするのであれば、
自分を捨てなさい、
そのようにしてこそ私の弟子である」といわれた
〇 自分を捨てる道は自分の十字架を負い、
血を流すまで不義と戦うことである
罪は死ぬし、義だけが生きるが、それが十字架の道である
〇 神の法則は人の考えと異なる
イエスも義に従って神の御心に従われた
それが十字架の道である
※ 自分の義は高ぶりであり、宗教である
不従順は罪悪であり、不信仰である
十字架の道だけがこれを克服する