2021. 10. 24. イエスといちじくの木 (マルコの福音書11:12~14)
イエスといちじくの木
(マルコの福音書11:12~14)
神は
御子のために万物を造られた
その方が
御子をこの世に遣わされたが、御子がこの世にいる間に(へブル1:1~2)
用いるように、万物を予め備えられた(マルコ11:3)それゆえ、万物は御子が来られるときを待っていた(マルコ11:13)
そして、御子が天に上られたのちには人類が用いるように
配慮がなされ、保たれている(Ⅰコリント9:4~11)
イエスの目的地はエルサレムであった(マルコ13:31~33)
イエスはそこに行く途中で空腹を覚え、いちじくの木を見つけた
その木には実がなかった
これを「熟していないいちじく」、「タクシュ」といったが、これは
「風に耐えることができないいちじく」という意味であった
万物の寿命は主がこの世に来られるときまでであった
イエスが去られたのちに万物の時は終わった
万物はそのときから福音が働くときのためのものとなった
主がいつ来られるのかを知ることはできないが、(ヨハネ4:10)
常に準備していなければ、
主と関係がない者となってしまう
主が腹を立てたために、木が枯れたのではない
木の寿命が終わったのである(マルコ11:14)
○ 神が用いられなければ、
木のいのちは終わる
自分の命も財物も自分のものではない
○ 主が来られるのを待ちくたびれたとしても、
反復して実を準備しなければならない
主が来られたときに、「タクシュ」となってはいけない
○ 「タクシュ」のように
この世の試みに勝利することができなければ、何の役にも立たない
呪いを受け、永遠に枯れてしまう
※ 試みに勝利することができない「タクシュ」となってはいけない
この世で風が止むことはない
試みは常に存在するために、力を受けて勝利しなければならない