2021. 11. 28. 最も大切な戒め (マルコの福音書12:28~34)

最も大切な戒め
(マルコの福音書12:28~34)

神は
唯一の方でおられる
その方が
この世に信仰を与えられた(へブル11:1~2)
これは神を愛させるためであり、(Ⅰヨハネ4:8)
神を愛する者を愛するためであった(ヨハネ15:10~14)
神を愛する者が神の民である(Ⅱコリント6:16~18)
神の愛を受ける者が神の子である(ヨハネ14:21)
神と私たちの関係は愛である(ヨハネ14:23~24)
神を愛する愛は唯一である(ヨハネ17:3)
主人がひとりであるためである
しかし、人類はそれぞれその方から同等の愛を受ける(ヨハネ3:16)
これは人類が空の星、海辺の砂のようであるためである
愛という言葉には選別的な意味が付与される
神を愛するときには「フィレオ―」というし、
隣人を愛するときには「アガペー」という(ヨハネ21:15~17)
「フィレオ―」とは唯一の愛であり、肉体の命のようにひとつである
神をフィレオ―すれば、他の存在をフィレオ―することはできない
「アガペー」とは同等の愛であり、親が子を区別することなく愛するように
すべてのために自分の命をささげて仕える
主はペテロにフィレオ―を要求された
○ 律法のすべては愛である(マタイ22:37~40)
律法と真理の意味も愛である
その愛は母性であるし、ひとりの母と多くの子の
永遠の関係である
○ 教会が聖徒を愛するのはアガペーである
教会が神を愛するのはフィレオ―である
○ 愛がないというのは戒めを犯すということである
神に向けられた唯一の戒めと
隣人に向けられた同等の戒めを守らなければならない
※ 愛がないというのは信仰がないということである
愛がなければ、神と関係がなくなるし、
教会と関係がなくなる

2021. 11. 21. 私たちの望みは復活である (マルコの福音書12:18~27)

私たちの望みは復活である
(マルコの福音書12:18~27)

神は
永遠のいのちでおられる
その方が
アブラハムとともにされたし、
アブラハムの死後には息子であるイサクとともにされた
そして、イサクの死後には息子であるヤコブとともにされた(詩105:5~10)
神との関係は代々に渡って千代に至る
その契約の御言葉を誤解した者が(出3:15~16)
「神は死んだ者と何の関係ももたない
この世で生きている者だけを相手にして祝福を与える」と信じた(ヨハネ5:25~29)
彼らは現世主義者であるサドカイ人であった
しかし、恵みの福音を受けた私たちは(ヨハネ3:16)
「この世では祝福を与え、のちの世では復活と永遠のいのちを与える」という、
神の約束を信じる(ヨハネ11:25~26)
私たちの信仰は「霊魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、
また、健康を得る」というものである(Ⅲヨハネ1:2)
それゆえ、私たちには「霊魂が幸いを得る」というのちの世の望みがある(Ⅰコリント15:16~19)
私たちはこれによって復活を信じるが、
現代版サドカイ人は
この世でだけ幸いを得ることを祝福と考える
彼らには「のちの世で霊魂が復活する」という信仰がない
それゆえ、霊的な信仰生活を疎かにする(へブル2:3)
「この世のためには律法によって生き、
のちの世のためには聖霊によって生きる」というのが私たちの信仰である
○ 復活の時には永遠に生きるために、
肉体や子孫を頼ることはない
○ 肉体が死ぬことはないし、子孫も必要ではない
それゆえ、めとることも嫁ぐこともないし、天使のようである
○ 私たちの望みは復活である
この地では日々の糧を、のちの世のためには神の国とその義を求める
※ 生活を聖くして敬虔にしなさい
そうすれば、この地で肉体も幸いを得る
第一の復活のために聖霊に満たされて霊的になりなさい

2021. 11. 14. 神のものは神に (マルコの福音書12:13~17)

神のものは神に
(マルコの福音書12:13~17)

神は
主人でおられる
その方が
天にあるものと地にあるものを造られたので、
それらはすべて造物主のものである(詩100:3)
その方が人に重荷を負わせるのは何かが足りないためではない
まことに神を探し求めさせるためである(使17:25~27)
神から恵みを受けた者は(エペソ2:8)
神のものを知って神に従うが、(マラキ3:7~11)
神を知らない者は神を試みる(マタイ4:7)
イエスは「信じる者がこの世の王に仕えるのは
正しいことであるのか」という質問に
「神のものは神に、
この世の王のものは王に返しなさい」と答えられた
「デナリ」には王の肖像があった
イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい
そして、神のかたちをもった自分を、そのかたちの主人に
ささげなさい」といわれた
「この世に属するものはこの世の法通りにし、(ローマ13:1~7)
天に属するものは天の法通りにしなさい」といわれた
聖霊の人は聖霊によって生きなければならない(ヨハネ3:8)
○ 信じる者は税金を徴収する者に従うし、
信仰をもつ霊魂は霊魂を生かす方に従う
神から与えられるものと国家から与えられるものを区別しなさい
○ イエスはユダヤの地に来て、カイザルに税金を納められたし、
神に属する御子として死にまで神に従われた
神からは復活を受けられたし、
カイザルからは十字架の死を受けられた
○ 信仰がなければ、神を喜ばすことができない
神に出て行く者はその方から報いが与えられることを信じなければならない
※ 国家に対しては国民としての義務を果たす
神に対しては信者としての義務を果たす
父なる神と肉の父に仕える(マルコ7:10~13)

2021. 11. 07. 家を建てる者が見捨てた石 (マルコの福音書12:1~12)

家を建てる者が見捨てた石
(マルコの福音書12:1~12)

神は
善良でおられる
その方が
御心を天でなしたように
この地でもなそうとして、御言葉を遣わされた(ヨハネ1:14~18)
御言葉がこの世に来るときまで、
とても大きな受難や犠牲があった
これが人類の歴史であった(マタイ23:32~35)
神は初めに
人を神のかたちとして、神に似せて造り、(創1:26~27)
天で造られた霊、生きた者の母である母性、
霊を注がれた(創2:7)
また、霊が死んだのちには天の血を与え、
血の価によって霊魂を再び生かされた(使20:28)
そして、聖霊を遣わして、救いを受けた霊魂を保存された(Ⅱコリント1:21~22)
アベルからはじまり、多くの預言者、
バプテスマのヨハネが殺され、(マタイ11:13)
最後に神の御子が殺された(マタイ27:45~50)
人間の罪悪が極限に達したのである(ルカ23:21~24)
このような血の足跡が礎の石となって、
神の御心がなされたのである(へブル9:12~22)
○ イエスの教会は多くの預言者の血の足跡と
イエス・キリストの十字架の血を礎の石として建てられ、
天の御心をなす
○ 私たちが受けた信仰を軽視してはいけない
血の足跡があったために、生きて存在している
神が血によって立てられたので、感謝しなければならない
○ 律法や預言者は御言葉のしもべである
イエスは御言葉(ロゴス)であり、
最後に殺された神の御子でおられる
※ 御言葉が人殺しから奪い取られ、
イエス・キリストの人に与えられた
礎の石でおられるイエスの血を永遠に守らなければならない