2021. 08. 08. ガリラヤでのイエスの力 (マルコの福音書7:31~37)

ガリラヤでのイエスの力
(マルコの福音書7:31~37)

神は
愛でおられる
その方が
初めからこの世に関心をもたれた(詩51:16~17)
ガリラヤで神の御子を現された(マタイ3:17)
バプテスマのヨハネはモーセの律法と預言者の最後であり、(マタイ11:13~14)
初めの契約の終わりと新しい契約の初めの
証人であった(ヨハネ1:6~8)
ガリラヤはバプテスマのヨハネが最後に働いた地であったし、
イエスが最初に働かれた地であった
それゆえ、律法と福音が交差するところであった(ヨハネ1:29~34)
律法と預言者の終わりとなるバプテスマのヨハネは(マタイ11:14、マラキ4:5)
ガリラヤで首をはねられ、終わりを迎えたが、
このときからイエスの伝道が活発となった
イエスは耳が聞こえず、口のきけない者を群衆から連れ出し、
両耳に指を差し入れ、つばを吐き、その人の舌に触られた
そして、「エパタ!」、すなわち「開け!」といわれた(マルコ7:34)
その人の耳は開き、舌のもつれは解けた
その人の姿は律法と預言者の時代の民の姿であった
耳があっても聞くことができず、舌があっても伝えることができず、(ローマ11:8)
律法と預言者の霊的なものを知ることができなかった(へブル8:13)
○ 力とは? 指という意味である
イエスの力がその人の耳に入って行った
イエスのつばは主の舌から出て来た
○ 異言とは? 主から与えられた舌という意味である
主イエスのときから全世界に福音が伝えられ、
神の御言葉が聞こえるようになった(ヨハネ6:68)
○ 「エパタ」とは? 「開け」という意味である
語ってはいけないといわれても、語らないわけにはいかない
恵みの福音は抑えることができない力である
※ 霊的な者ならば、口を開かなければならない
恵みを受けた者には抑えることができない口の証しがある
信じる者は御言葉を聞くことができなければならない

2021. 08. 01. 子どもたちのパンを (マルコの福音書7:24~30)

子どもたちのパンを
(マルコの福音書7:24~30)

神は
恵み深い
その方が
自分だけがもつ永遠のいのちをこの世に公開し、(ヨハネ3:16)
選ばれた民にまず現そうとされた(ヨハネ17:3)
神はイスラエルに律法と預言者を与えられた(出3:10~12)
イスラエルを自分の民とし、聖くされた(出19:6)
イスラエルはエホバの助けを受け、(出19:4~5)
モーセを通して与えられたパンを食べ、岩から出て来た水を飲んだ(ヨハネ6:50)
そのとき、異邦人はエホバの関心を受けることができなかった
エホバはイスラエルの神であった(出3:14~15)
律法の下にいるイスラエルは必ず裁きを
受けるが、(へブル9:27)
イスラエルに裁きを受けさせないために(ヨハネ3:17~18)
イエス、救い主がイスラエルの地に来られた
これは律法と預言者の下にいるイスラエルを救うためであった(マタイ10:5~8)
イエスは公生涯で初めてツロの地方に行かれたが、
そのときはまだ異邦人に福音が許されていないときであった
それゆえ、イエスは子どもたちのパンを小犬に与えることはできないといわれた
イエスがよみがえられたのちに初めて弟子たちを通して
聖霊によって異邦人の地にまで福音が伝えられた
○ イエスはエホバの限界を超え、
エホバの手が届かなかった異邦人に福音を伝えられた
聖霊はイスラエルとそれ以外の全人類に
福音を証しされる
○ 神の子となれば、神の子の栄光を見る
聖霊によって悪霊を追い出せば、その国が来たのである
○ 福音を伝えて悪霊を追い出すのは義務である
主イエスが信じる者にこのような力を義務として与えられた
主イエスが天でともに働き、ともに証しされる
※ 信じる者は神の子である
子であれば、神の栄光を常に見る
無能な信仰生活をしないで、実状をもたなければならない

2021. 07. 25. 人を汚すもの (マルコの福音書7:1~23)

人を汚すもの
(マルコの福音書7:1~23)

神は
まことでおられる
その方が
なさることと与えるものはすべて聖い
湧き水のように常にきれいである(Ⅰペテロ1:15~16)
教会の中で何が汚れていて、
何がきれいであるのか?
人はむなしい習慣や言い伝えられてきた伝統によって
神と遠ざかっている(Ⅰペテロ1:18~19)
「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている
人間の教えを教えとして教えるだけなので、
私を拝んだとしても無駄なことである」(マルコ7:6~7)
東洋人の風習と西洋人の風習が異なるからといって、
どちらが正しい、どちらが正しくないということはできない
目で見るものによってはそのようにいうことができない
北では雪が降るし、南では太陽の光が降り注ぐ
しかし、
木が花を咲かせ、葉をつけ、
そののちには実だけを残すように、
目に見えるものは変わるが、木自体が変わることはない
神は人を外見によって扱われない(使10:44~48)
○ しかし、人の心から出て来るものは汚れている
それは悪い考え、憎しみ、殺人、姦淫、
盗み、ねたみ、あざむき、そしりである
○ 洗わない手で食べるものが汚れているのではない
洗わない心から出て来るものが汚れている
聖霊によらなければ、その心は汚れている
○ 聖霊によってもつ心は愛、喜び、平安、
寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である
聖霊の実、力、賜物に満たされなさい
※ 聖霊によって変えられなければ、その心は汚れている
聖霊によって変えられれば、その心はきれいである
聖霊に満たされるためにさらに多く祈らなければならない

2021. 07. 18. イエス、水の上を歩かれる (マルコの福音書6:45~52)

イエス、水の上を歩かれる
(マルコの福音書6:45~52)

神は
全能な主でおられる
その方が
人として来て、自分の働きをしながら、
自分を知らせた(マタイ9:8)
神は超自然的な方でおられる(マルコ4:41)
自然と比べて理解しようとしないで、(マタイ19:25~26)
神を超自然的な方と理解しなければならない(ヨハネ4:23~24)
イエスは超自然的な方でありながらも、
父なる神との交わりを絶やさないで、
ひとり寂しい所に行って祈られた(マルコ1:35)
聖霊も同じように祈られるのに、(ローマ8:26~27)
私たちはどのようにしなければならないであろうか?
祈りはキリスト教の呼吸であり、命綱である(マルコ9:28~29)
信仰によって私たちの霊魂は
イエスと同じにならなければならないし、その方とひとつとなる(ヨハネ14:12)
これを「ともにする」あるいは「ともに歩む」という(マルコ16:20)
神はどのような方でおられるのか?
恐れがない全能な方でおられる
主の御言葉を求めるというのは
主の品格をもとうとするということである(ルカ1:37~38)
○ 聖霊が私たちの中に入って来られることによって、私たちは生まれ変わり、
肉体の中に聖霊の賜物をもち、
聖霊とともに働く
○ イエスの御言葉が私たちの中に入って来れば、その御言葉によって
イエスがなさる働きをする
神がともにされるように、永遠のいのちがともにする
○ 信仰は自然を超越する
神のものによって死に勝利し、
自然の法則を超越する
※ 自然の法則を超越することができなければ、宗教に過ぎない
私たちの信仰はよみの権勢も打ち勝つことができないものである
神の相続者の栄光を見るものである

2021. 07. 11. イエスの弟子の働き (マルコの福音書6:7~13)

イエスの弟子の働き
(マルコの福音書6:7~13)

神は
この世を愛される
その方が
天にある良いものをもって
この世を愛された(ヨハネ3:16)
神の御子、御言葉、力をもって愛された(ヨハネ1:14)
イエスの教会は人々が修行を積むところではない
神から恵みを受けて救いを受けるところである(使10:43)
神は人のものを奪おうとされるのではなく、(使17:25~27)
愛するものをもって生かそうとされる(マタイ17:5)
私たちがその方のものとなったのであれば、
その方に用いられる(詩100:3)
その方が命じられた働きをする(マルコ3:13~15)
イエスは弟子たちに力と権勢を与え、
ふたりずつ遣わし、
伝道させ、悪霊を追い出させた(マルコ6:7)
弟子たちは何の物品ももたないで、
イエスから与えられた福音と力だけをもって出て行った(マタイ10:8~10)
伝道や宣教においては物質よりも
神の御言葉と力をもって出て行き、(使3:6~10)
聖霊が追いやられる通りに働かなければならない(マルコ1:12)
○ イエスの力は普遍的である
信じる者に当然に伴うしるしである
その方は力がない伝道を命じられなかった
○ 力がない無能な者が働き手として名乗りを上げるのであれば、
宗教を布教するようになるし、いのちを与えることができない
力はいのちであるし、いのちは真理とともに働く
○ 私たちはいのちの御言葉を伝えるし、そのいのちは実状である
神の国の働きは言葉にはなく、力にある
聖霊の助けを受け、力をもって武装しよう
※ 主のしもべとなって、悪霊を身震いさせなければならない
悪霊は聖霊の力に満たされた者を見て身震いする
これは不思議なことではなく、当然なことである

2021. 07. 04. イエスと「5つのパンと2匹の魚」 (マルコの福音書6:34~44)

イエスと「5つのパンと2匹の魚」
(マルコの福音書6:34~44)

神は
全能な方でおられる
その方は
死んだ者を生かし、(ヨハネ14:13~14)
ないものをあるもののように呼ばれる
イエスは神と等しい方でありながらもこの世に来られた(ピリピ2:6~7)
その方は永遠のいのちの御言葉をもって教えられたが、(ヨハネ6:68)
肉体の弱さを知って代わりに負われた(Ⅰペテロ2:24)
その方は自分に従う多くの者が空腹であったときに
食べ物を与えて解決された
しかし、それは一回的なことであった
イエスは人類の霊魂を迎えるために来られた(ヨハネ6:40)
しかし、
その方には不可能なことがない(マルコ9:23)
人が努力してもなすことができなかったときに、(ヨハネ11:40)
その方は力を行われた
これを信じて従う者に大きなしるしを
現される
弟子たちは主が命じられた通りに従い、
会衆の間で秩序をつくり、(マルコ6:39~40)
パンを分け与えたが、
女と子どもを除いて5000人がそれを食べた
そして、残ったパン切れが12のかごに取り集められた
○ イエスの力としるしは伝説ではない
今も働かれるその方の力と権勢である(マルコ16:20)
○ 私たちは霊魂を救い、また、
肉体がある間に5つのパンと2匹の魚の霊感も得なければならない
○ 父なる神は私たちに必要なものを知っておられる
信仰によって求め、疑わないで従わなければならない
イエスは昔も今も同じでおられる
※ 私たちの信仰は過ぎ去った骨董品を眺めるものではない
イエスが私たちの生と死、祝福と呪いについて最後まで責任を取られる
生きておられる主の力を頼ろう! 頼ろう!(マタイ28:20)

2021. 06. 27. イエスの名が知れ渡った (マルコの福音書6:14~18)

イエスの名が知れ渡った
(マルコの福音書6:14~18)

神は
善良でおられる
その方が
この世が見ることも知ることもできない自分を
知らせるために恵みを施された(ホセア6:3)
まずイスラエルに自分を知らせるために
モーセを選んで律法を与えられた(出20:1~3)
イスラエルの民は律法を通して
神を知るときに、神を恐ろしい方と知った(詩22:23)
また、預言者を通してこれがイスラエルの子孫に
伝えられたために、民にとって律法や預言者は
恐ろしい存在であった(出7:1)
神は恐れる者に
イエスを遣わされた
これはイエスによって(ヨハネ3:16)
憐れみを知らせるためであった(Ⅰヨハネ4:8)
人々は悪霊が
イエスの名によって追い出されるのを見て、
「バプテスマのヨハネがよみがえってイエスの中で働いている」といったり、
「死んだ預言者の霊が生き返った」といったりした
これは死んだ者が死後にも存在するということを認めたのである(マルコ6:14~16)
イエスの名はこのように知れ渡った
○ ヘロデは自分の罪に抑圧されて恐れた
臣下たちはエルサレムで死んだ預言者と考え、
死んだ者の霊魂が生き返って働いていると信じた
○ 死のとげは罪であるし、罪の力は律法である
律法の下で抑圧されている者は恐れに震えている
○ イエスの御言葉通りに、サタンがサタンを追い出すことはできないし、
主人よりも強い者が主人を追い出す
イエスの名は天の力である
※ ヘロデ王と臣下たちは高等教育を受けた知識人であった
彼らは異口同音に「人の死後の存在が人の体に
入って行って働く」と主張した

2021. 06. 20. イエス、郷里で排斥を受けられる (マルコの福音書6:1~6)

イエス、郷里で排斥を受けられる
(マルコの福音書6:1~6)

神は
御子を愛される
その方が
愛する御子をこの世に遣わして、
「父の御心を行いなさい」という戒めを与えられた(ヨハネ10:15~18)
御子は人類を罪から救うために来られた(ヨハネ6:39~40)
イエスはアブラハムの子孫としてお生まれになったが、(マタイ1:1~17)
神の御子であり、人間の血統によってはお生まれにならなかった(ヨハネ1:13)
その方の郷里をナザレといったが、
本当の故郷はよみの外にある天であった(ヨハネ14:1~2)
郷里の人々は肉体によって生まれたために、
聖霊と御言葉によって生まれた方を知ることができなかった(ローマ8:5~6)
それゆえ、
その方は本質的にこの世から歓迎を受けることができなかった(ヨハネ8:40)
この世は悪魔に属していて、その支配を受けている(ヨハネ8:44)
天は神の本体であるし、神の御心がある
イエスが真理を語られたとしても、
郷里の人々はそれを聞き取ることができなかったし、
その出身と身分の低さによってイエスを無視しようとした(Ⅰヨハネ4:5~6)
イエスは力が足りなかったために排斥を受けられたのではなく、
この世が担うことができなかったために排斥を受けられたのである(ヨハネ3:16~18)
○ イエスは信じない郷里の人々の前では
何の力も行われなかった
力としるしは信じる者にだけ伴う
○ 今日、道徳的に判断して、
真理を排斥する
真理が排斥を受けるのは当然なことである
○ イエスが心を痛められたその経験を真理と知って、
私たちもそれと同じ排斥に耐えなければならない
心を開かない者には無理やりに力を行ってはいけない
※ それは真珠を犬に与えるようなものであり、
豚の首にかけるようなものである
戸を開いて祝福を受け入れる家で力を行おう

2021. 06. 13. 恐れないで、ただ信じなさい (マルコの福音書5:35~43)

恐れないで、ただ信じなさい
(マルコの福音書5:35~43)

神は
全能な方でおられる
その方が
この世に御子を遣わされたのはこの世を救うためであった(ヨハネ3:16)
御子は御言葉が肉体となって来られた方である(ヨハネ1:14)
御子は父とともに創造者であり、(ヨハネ1:2)
天と地とその権勢をすべて得られた方である(マタイ28:18~20)
イエスには不可能なことがない(ヨハネ11:40)
病気にかかった者や死んだ者を生かされる(マタイ8:7~8)
これはイエスの名の意味であり、完全な救いである(使2:38~39)
この世は信念を頼ったり、占いをしたり、(Ⅰサムエル28:7)
科学を盲信したりして、自ら奴隷となっている
この世はすぐに変わっていく(マタイ24:35)
この世に永遠な約束はない
しかし、
神は永遠でおられるし、その御言葉は永遠な約束である(黙21:5~7)
神を恐れないで、(マルコ5:36)
この世のことを恐れないで、(マルコ4:40)
主イエスを信じるのがいのちである(ヨハネ14:6)
これよりも完全無欠な契約はない
人の子となった方が木につけられて死んだのちに
生き返られたが、これが証しである(ヨハネ20:19~23)
○ 疑いながらイエスに近づくのは死んだ信仰である
信仰に自分の命を預けなければならない
○ 信じたことはどの場合にも疑ってはいけない
信仰に自分の一生をかけなければならない
永遠に生きている主がその信仰を守られる
○ 神の力の前では問題の大小はない
神の本体である天には永遠な力がある
信仰を得たというのは力を得たということである
※ 悪霊を恐れてはいけない
患難を恐れてはいけない
自分の霊、魂、体を主に預けなければならない

2021. 06. 06. あなたの信仰があなたを救う (マルコの福音書5:21~34)

あなたの信仰があなたを救う
(マルコの福音書5:21~34)

神は
天におられる父である
その方が
この世にすばらしい救いを与えられた(へブル2:3)
神の御名を信じる者に永遠のいのちを与えられた(使4:12)
神の御名である「イエス」が私たちの信仰である(ヨハネ20:31)
神の御心が私たちの信仰である(ヨハネ6:33~40)
神の御言葉が私たちの信仰である(へブル11:3)
インマヌエルでおられる方が私たちの信仰である(マタイ1:21~23)
神から与えられた権勢、力が私たちの信仰である(マタイ10:1)
私たちに与えられた信仰はどのようなものであろうか?
私たちは神の御子がなさった働きをする(ヨハネ14:12)
この世に公開されていない、それよりも大きな働きをする
それゆえ、信じる者には不可能なことがない(マルコ9:23)
神から与えられた信仰を用いて、(マルコ5:34)
自由を得なければならない(ヨハネ8:36)
イエスは御言葉によって病気を癒された(マタイ8:16)
御言葉によって悪霊を追い出された
手を置いて病気を癒された(マルコ5:41)
イエスの体に触った者も癒しを受けた(マルコ5:27~28)
神の国は言葉にだけあるのではなく、
力にある(Ⅰコリント4:20)
○ 聖霊を私たちの心に与えてくださったのは
神の働きを現させるためである
○ イエスは御言葉を伝える働き、
病気を癒す働き、悪霊を追い出す働きを並行してなさった
キリスト教会は実状である
○ 力をもたないで道徳や倫理だけをもつのは宗教である
宗教は徳を積むが、永遠のいのちの力をもたない
誇るものをもたない
※ 私たちの信仰は実状である
現実的にいつでもどこでもその力を受けることができる
私たちの信仰は誰が何と言っても、力である