2023. 04. 02. キリストの最後の警告 (マルコの福音書14:53~65)

キリストの最後の警告
(マルコの福音書14章53~65節)

神の御子であり、
キリストであるイエスが
この世に来られたというのは
人間にとって最も重要な事実である
それは
人間が生まれたときから
罪と死の権勢の下に閉じ込められ、
永遠な滅びに向かっているためである
人間は
サタン的な属性に似ているという致命的な弱点をもつ
自分でも知らないうちに神に背き、神を冒瀆する
それにもかかわらず、神は
私たちを呪いや不幸から救うために
御子を遣わされた
御子は私たちの罪の責任を負い、
永遠な死の代わりとなり、
いけにえとして十字架で死なれた
この世に来たイエスは
私たちを救うキリストでおられるのと
同時に
神が私たちに遣わした最後の警告である
その警告は
生涯を通して常に覚え、
心や生活に刻んでおかなければならない、
決定的な神の啓示であるし、
救いに招く声である

 

2023. 03. 26. 良い実を結ぶ教会 (マタイの福音書7:15~27)

良い実を結ぶ教会
(マタイの福音書7章15~27節)

神は
農夫でおられる
その方が
創造し、支配し、求められるのは
良い実である(ヨハネ15:1~2)
神が良い種をまいて、
良い実を刈り取られる(マタイ7:19)
神がよみという宇宙の中に万物を創造し、(創1:1~2)
そこにいる人に良い種をまかれたが、(創1:26~28)
狡猾な悪魔が惑わして堕落させた(創3:1~13)
これによって
人類の世界が初めから罪と死に捕らえられた(ヨハネ8:44)
神が御言葉、真理を遣わして、(ヨハネ14:6)
愛して喜ばれたが、(マタイ3:17)
偽預言者が入り込んで来て、群れを荒らし回っている(使20:28~31)
見なさい!
私たちの霊魂は生きていた
しかし、偽預言者の働きによって教会は
荒れ果ててしまった
それゆえ、
ただ真理によって武装し、何がまことの言葉であるのかを覚えなさい
偽りにだまされた霊魂が真理の知識を捨てて、
恐ろしい裁きを自ら招いてしまった(Ⅱテサロニケ2:9~12)
◎ まことの牧者が誰であるのかを分別しなさい
まことの牧者は立てようとするが、偽預言者はつまづかせる
◎ 母よりも子どもを愛する者はいない
不信者を信者にする者がまことの母である
◎ 母性をもって種をまく者は良い実を得る
母性をもたない悪い者はあざみを生えさせる
※ 揺れ動いてはいけない、初心を忘れてはいけない
しっかりと主の日を待とう
だまされてはいけない、荒らし回るのは悪魔である

2023. 03. 19. 宝を天にたくわえなさい (マタイの福音書6:19~24)

宝を天にたくわえなさい
(マタイの福音書6章19~24節)

神は
万有の父でおられる
その方は
造物主でおられる(ヨハネ1:2)
天は
神の本体である(Ⅱコリント4:4)
その中には国と力と栄光があるし、(マタイ6:13)
永遠のいのち、幸せ、愛、憐れみが満ちている(ヨハネ6:68)
宇宙というよみには万物がある(創1:1~2)
万物はのちになくなる被造物である
なくならない万有の天と(へブル1:2)
なくなる万物の世界を比べてみなさい(マタイ6:19)
それゆえ、
イエスは「自分の宝をこの地にたくわえないで、
天にたくわえなさい」といわれた(マタイ6:20)
宝というと、物質的な財産を考えるが、
心から離れないものが宝である
この世の物質は自分の心にとどまらない
今日、ここにあったとしても、明日、なくなったりする(ルカ6:24~26)
私たちは肉によって生まれたために、万物に属するが、
生まれ変わることによって万有の中にいる(ヨハネ3:3~8)
主は万有の相続者でおられる(へブル1:2)
この地にたくわえようとして、物質を求めるが、
この世はむなしいし、変わっていく(マタイ6:28~29)
◎ 肉によって生まれた者がささげるものはカインのささげ物のようである
生まれ変わった者がささげるものはアベルのささげ物のようである
◎ 神を少しも疑ってはいけない
その方は真実な方、永遠な方でおられる
◎ 霊魂が聖霊の支配を受けなければならない
聖霊によって行ってこそ、天に向かう
※ 神が奪っていくと疑ってはいけない
奪っていくのではなく、受けるのである
自分の宝は心とともに永遠に天にとどまる

2023. 03. 12. 偽りのない祈り (マタイの福音書6:5~8)

偽りのない祈り
(マタイの福音書6章5~8節)

神は
まことでおられる
その方が
私たちを愛されたのが真理である(ヨハネ14:6)
真理はまことであり、
イエス・キリストである
祈りは宗教的な儀式ではないために、偽ってはいけない
神が聞かれるようにしなければならない
神は霊でおられる(ヨハネ4:23~24)
祈る者は霊によってまことに祈らなければならない(Ⅰコリント14:12~14)
異邦人は誠意を尽くすが、
私たちの祈りは誠意を尽くすものではなく、
信仰をささげるものである(へブル11:6)
人々は祈るときに肉体の要求をもって祈る(マタイ6:31~33)
しかし、肉によっては
神と交わることができない(Ⅰコリント2:10~11)
神は霊でおられるので、霊によって祈らなければならない
神は霊によって祈る者を受け入れられる(ヨハネ3:3)
肉体の問題のためには自然、太陽や雨が与えられた
正しい者にも悪い者にも与えられた(マタイ5:45)
しかし、
神は生まれ変わった者、霊によって生まれた者だけを受け入れられる(ローマ8:26~28)
◎ 肉によって生まれたものは肉であるし、霊によって生まれたものは霊である
霊によって神に出て行くときに、神が聞かれる
◎ 霊魂によって祈りなさい
肉によって祈らないで、霊によって祈ろう
聖霊が私たちの弱さを助けてくださる
◎ 神の応答は霊魂に与えられる
肉体には与えられない
これは肉体の法の下にいる者がもつ経験である
※ 聖霊によって祈ろう
霊魂が応答を受け、霊魂を通して肉体を守ろう
イエスの名によってする祈りは霊によってする祈りである

2023. 03. 05. 悪魔の試みを受けられる (マタイの福音書4:1~11)

悪魔の試みを受けられる
(マタイの福音書4章1~11節)

神は
完全無欠でおられる
その方が
御子を通して自分を現された(ヨハネ12:47~50)
神の御子は父の御心に従って来られた(ヨハネ6:38~40)
神の御子はよみの権勢に勝利し、
永遠に生きておられる(マタイ28:18)
よみである宇宙は悪魔の権勢の下にある(エペソ2:1~3)
悪魔は死の権勢をもつ者であり、律法を機会として働く
悪魔の働きは
「御言葉を離れ、パンによって生きなさい」という現実主義である(マタイ4:3)
しかし、
イエスはこれに勝利して悪魔にだまされなかった
悪魔は優越感をもたせようと試みたが、(マタイ4:5~6)
イエスはこの世の名誉や虚栄心にだまされなかった(ヨハネ8:44)
悪魔はよみの権勢や栄光をもって惑わしたが、
イエスは「国と力と栄光はただ父にある」と主張して、
試みる者を退けられた(マタイ12:29)
悪魔の武器はすべてこの世のものであるが、
イエス・キリストは天から受けた権勢をもって、
悪魔を裁かれる(ガラテヤ6:3~10)
◎ 聖霊はキリストの働きと御言葉を
証しする霊でおられる
イエスを荒野に追いやる方でおられる
◎ イエスは自分の本分を知っていたために、勝利された
イエスはただ父の御心をなすために来られた
イエスは天に帰らなければならない方である
◎ イエスはこの世に何の望みも置かないで、天にだけ望みを置かれた
よみがえって天に上られた
私たちはイエスの復活を信じなければならない
※ 悪魔の武器は肉体を惑わすことである
しかし、私たちは肉体や情欲をバプテスマによって葬った
私たちの霊魂は主に従う

 

2023. 02. 26. 義の従順でバプテスマを受けられる (マタイの福音書3:13~17)

義の従順でバプテスマを受けられる 
(マタイの福音書3章13~17節)

神は
愛でおられる
その方は
愛する者から喜びを得られる
愛と喜びはただ
神と御子に関係している(マタイ3:17)
カインのささげ物は神に届かなかった
人間の誠意はその方を喜ばすことができない(へブル11:6)
人間の誠意は宗教的であり、人本主義である(ローマ8:6~8)
しかし、
アベルのささげ物は神に受け入れられた
これは永遠の前からおられる神の啓示を悟ったためであった(エペソ3:9)
神はただ御子によって喜ばれる
私たちの信仰は
神が啓示された通りに従うものである
神の愛が何であるのか、
神の喜びが何であるのかを悟らなければならない
それ以外のものはすべて宗教であり、人の信念である
私たちは
神の愛を受けなければならないし、そのためには
イエス・キリストの中に入って行かなければならない(ピリピ2:10~11)
私たちは
神を喜ばせる者とならなければならない
これはただイエス・キリストによってなされる(ヨハネ10:9)
◎ モーセと律法と預言者の下にいるのであれば、
神の愛を受けることはできないし、神を喜ばせることもできない
◎ イエスの中にいてこそ、
神の愛を受けて神を喜ばせる者となる
◎ バプテスマを受けることによって
イエス・キリストの中に入って行き、その方を喜ばせなければならない
※ 神が天から啓示された通りに
神の愛と喜びを知りなさい
イエス・キリストと結びついてこそ、完全となる

2023. 02. 19. 王を迎えるために心を変えなさい (マタイの福音書3:1~12)

王を迎えるために心を変えなさい
(マタイの福音書3章1~12節)

神は
まことでおられる
その方が
罪を犯した人類を救うために恵みを与えられたし、
まず「悔い改めなさい」といわれた(ゼカリヤ13:1~2)
バプテスマのヨハネは悔い改めるためのバプテスマを施して、
「悔い改めなさい」と叫んだ(マタイ3:11)
これは「神を正しく知りなさい」という意味であった(マタイ3:7~9)
律法に縛られて望みをもつことができなかった者に(ガラテヤ3:18~19)
「神に対する誤解を改めなさい」といったのである
悔い改めはただ「私は罪人です」と
いえばいいものではない(ガラテヤ3:23~25)
どうして罪人であるのかを悟らなければならない(詩51:1~5)
自分の良心に呵責を感じさせるものは汚れである
神に犯した罪は不信仰である(詩51:16~17)
神の戒めに対する不信仰であり、(ヨハネ12:47~50)
神の愛に対する不信仰である
神がしなさいといわれるのは私たちにいのちを与えるためであるし、(マタイ17:5)
してはいけないといわれるのは私たちを守るためである(創2:16~17)
バプテスマのヨハネは律法の下にいるユダヤ人に「悔い改めなさい」といった
これは「律法によっては救いを得ることができないということを知りなさい」といったのである(ローマ5:20~21)
◎ バプテスマのヨハネは悔い改めなさいといったが、
これは「律法の下にいる者は罪人であるということを認めなさい、
私が与えるバプテスマは罪を加えるものである」という意味であった
◎ イエスは律法の下にいる者を救うために来られた
律法の下にいる者はすべて罪人である
義人はひとりもいない
◎ イエスは罪人の罪をすべて負って十字架で死ぬことによって
律法を完成されたし、
よみがえることによって死に勝利された(ガラテヤ3:27)
※ これが私たちの信仰であるし、私たちはその信仰をバプテスマによって証しする
イエスは自分の名でバプテスマを授けることによって
律法、死の権勢から私たちを救われた

2023. 02. 12. ヨセフの義が負った責任 (マタイの福音書1:18~25)

ヨセフの義が負った責任
(マタイの福音書1章18~25節)

神は
誰も見ることができない
その方は
霊でおられるし、霊によって臨み、霊によって語られた(ヨハネ6:63)
神の御言葉は霊である
私たちを探し求める方も霊でおられる(ヨハネ4:23~24)
私たちは目で見て信じるのではない(ヨハネ20:29)
霊によって信じて従う(Ⅰコリント12:1~3)
ヨセフにキリストの受胎が伝えられた
ヨセフはそれを信じて最後まで従った(マタイ1:23~25)
このような決心はどんなにむずかしいものであっただろうか(マタイ1:19)
ヨセフは疑いや不義に押し流されないで、
神の御心を信じて従った(創15:6)
これが信仰である
その信仰によって人の考えや常識を超越し、(ローマ8:5~7)
神の御心を最も大きなものと考える(マタイ26:39)
現実や感情によってはむずかしいが、
神の御心に従わなければならない(マタイ9:1~8)
神の御言葉は御子を現した(ヨハネ3:16)
御子は自分の血をもって語られた(ヨハネ6:53~55)
聖霊はこれを証しされる(ヨハネ16:13~14)
◎ 神の御言葉と人の考えを比べてはいけない
神の御心は人の理性と異なる
それでも疑わないのが永遠のいのちを得る信仰である
◎ ヨセフのようにそれぞれが負わなければならない責任は
神の御心に対する信仰によって負う
人間の感情に合わなかったとしても、信じなければならない
◎ 信仰を助けるために保証として
聖霊が与えられた
ただ聖霊によって信仰をもたなければならない
※ 信じる者はまず自分を十字架につけなければならない
自分にだけ命じられた働きであっても服従しなければならない
納得がいかないと考えないで、信じて従わなければならない

2023. 02. 05. 見ずに信じる者は幸いである (ヨハネの福音書20:24~29)

見ずに信じる者は幸いである
(ヨハネの福音書20章24~29節)

神は
永遠に生きておられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたのは
御言葉を聞いて信じるようにするためであった(ローマ10:17)
信仰は聞くことからはじまらなければならない(マタイ11:15)
見て信じるというのはふさわしくない(ヨハネ20:25)
神が求められる信仰によらなければ、(ヨハネ4:21)
誰も救いを受けることができない(ローマ10:13~15)
神を見た者はいないし、神を見ることもできない(ヨハネ1:18)
神は霊でおられる(ヨハネ4:24)
それゆえ、
聞いて知るようにするために御言葉を遣わされた(黙2:7)
イエス・キリストは御言葉でおられるし、その御言葉は真理である(ヨハネ1:1)
イエス・キリストの人格と活動はすべて御言葉を現す
この御言葉を離れ、目で見ることができない方を見ようとして、
さまようのであれば、それは迷信であり、神秘主義である(ルカ24:5)
イエスは「見て信じようとしてはいけない、
ただ聞いて信じなさい」といわれた
神の御言葉が来て、見せて聞かせた
主が天に上られたのちには見ることも聞くこともできなくなったが、
聖霊が私たちの心の中に入って来て語られる(使5:32)
◎ 聖霊を受けて聖霊によって伝える者の言葉を信じる
これを福音というし、真理という
◎ イエスがよみがえられたのを見た者の言葉を信じなかったために、
イエスはそれを責められた
福音を聞いて、神とイエスを信じる
◎ 現在、私たちが伝えるのは最も正常なことである
目で信じようとしないで、耳で聞いて信じなければならない
真理は見るものではなく、信じるものである
※ 私たちは主日に説教を通して御言葉を聞く
それゆえ、「耳のある者は聞きなさい」といわれた
聖霊が語られる御言葉を聞かなければならない

2023. 01. 29. 体でよみがえられた主、体で愛した弟子たち (ヨハネの福音書20:1~10)

体でよみがえられた主、体で愛した弟子たち
(ヨハネの福音書20章1~10節)

神は
自分が定めた御心をなされる
その方は
神を知る者がこの世に存在する前に、
永遠の前から定められていた御心をなされた(Ⅱペテロ3:2)
また、神を知る人類がこの世に存在するようになったのちには、
御心を予め語られた(Ⅱコリント2:7)
御言葉を語る前には何もなさらなかった(ヨハネ10:35)
それゆえ、御言葉は私たちが信じることについての知識の初めである(箴1:7)
どんなに大きなしるしや力を行ったとしても、聖書で予め
語られていないのであれば、私たちと何の関係もない(エペソ5:6~7)
救い主が来られる前に預言者が来て、(マラキ4:5~6)
主の道をまっすぐにするように預言をもって道を備えた(ヨハネ1:23)
それゆえ、
来るべき方がその方であるのかを確認する方法は
まず聖書に記録されているのかということであり、(ミカ5:2)
次に聖書と一致しているのかということである
イエス・キリストは自ら来られたのではない
預言は
神が永遠の前に定められた御心を語った(詩16:10~11)
イエスは聖書に記録された通りに死んだのちに生き返られた(ヨハネ20:9)
○ それゆえ、聖書を廃棄することはできない
御言葉を信じる者は神々と呼ばれる
信じる者は聖書から大きな霊感を得る
○ 死んだ者が生き返ったのは不思議なことではない
聖書が成就したということを知って驚かなければならない
神の御心は必ずなされる
○ 聖書を信じるのであれば、キリストのよみがえりを信じなければならない
キリストのよみがえりを待って歓迎しなければならない
イエスが律法と預言をすべて成就された
※ 正常な信仰はまず聖書に還る
そして、信じるところが聖書と一致しているのかを見る
聖霊によって私たちの中で証しを受ける